「大将、起きてるか」
 暗闇の中囁くように紡がれた声、審神者はうんと返す。夏の匂いの訪れとともに、蒸し暑く若干の寝苦しさを覚える夜を迎えることが多くなっていた。今夜も気温が高く、湯浴みは済ませたというのに汗が滲んでいるようだった。ごろん、寝返りをうってうつぶせになる。暫しはその状態のままゆったりと雑談を繰り広げていたが、ふと話題が途切れ沈黙が訪れる。しかし居心地の悪くはないそれに眠気がきたのだろうかと、彼女は瞼を閉じようとした。瞬間、タイミングを見計らっていたように少年は再び口を開く。
「なあ」
「……んー?」
「初めて会った時の事、覚えてるか」
 たっぷりと含みを持たせてから、ナマエは肯定した。覚えていないわけがないじゃないか、と思った。それは今彼がこうして特別の位置にいるから、というわけではなく、本丸にいる全員との出会いを記憶している。中でも印象深いのはやはり山姥切国広と、初めて鍛刀した時に降りてきてくれた、薬研の兄弟である前田藤四郎だろうか。本当に何もかもが手探りだった。何の悪戯か普通も普通の学生をやっていた自分が、歴史修正主義者と言う異形の者たちとの避けられぬ戦いをするために選ばれた。
「今思い出すと私たちの出会いは、そう特別なものじゃなかったね」
「もう殆どの兄弟がいただろう、あの時は。いなかったのは厚といち兄くらいか」
「そう。秋田と乱が毎日のようにまだ来ていない藤四郎たちの話をしてくれてたから、存在としては知っていたけど」
 粟田口吉光が短刀薬研藤四郎も、最初はただ使役されるべく地上に落とされた付喪神だった。見た目としての第一印象は、儚げな少年。「仲良くやろうや、大将」だのに低く艶のある、強い意志の宿る声に驚かされた。藤色が鋭く射抜いてくる。二人の出会いは特別ではないと先ほど述べたが、思えばもしかしたら、一目惚れと言うやつをしていたのかもしれない。ああ、神様はこんなにも凛々しく美しいのだと、強く強く体中を駆け巡った。そんな当たり前な事、とっくにわかりきっていたはずなのに。他の誰を前にしても抱くことがなかった想いが、ぽつんと寂しい胸の中に置いてきぼりにされたのである。
 思い起こせばそれからも様々な事があった。苦労も喜びも悲しみも楽しみも、何も言わずに隣に居て受け入れてくれたり与えてくれたりした。弱音を吐けば叱咤された。戦事でうまくいけば頭を撫ぜられ褒められた。薄っぺらな大丈夫で突き放せば抱きすくめられた。初めて大きな怪我をして帰ってきた彼の姿に泣いていれば、一等好いている女が俺なんぞのために美しく泣かないでくれと、言われた。それから時間をかけて通わせて、自分の特別を生涯捧げると誓って。
 しかし何故いきなりこんなことを、と訊ねれば少年は照れたように「なあに、今日で大将の顔を初めて見た日から三年だって、思い出しただけだ」答える。思わず瞬きを繰り返してしまった。そうか、もうそんなに季節を消費していたのか、ここにきてから。それよりもなによりも、彼がこんなにも些細なことを覚え口に出してくれたことが嬉しかった。布団の中、あたたかな指先と指先が触れ合う。きゅっと弱い力で握れば、同じように返してくれる。ああ、わたしは。堪らなくなって音が溢れだす。
「出会ってくれて、ありがとうね薬研」
 一寸、呆けたような表情で審神者のことを見つめていたが、少年はくしゃりと笑う。突如にして変わってしまった運命を呪い、身体を小さく丸め込み泣き喚いていた姿を、知っていた。けれどこの言葉だって嘘偽りのない、彼女の本当なのだ。どうしようもなく悲しくって嬉しい。女の小さな頭を抱き寄せつむじに唇を落とすと「俺の方こそありがとう、ナマエ」と返した。暫し布団の中で擽り合うように戯れていた二人だったが、ある瞬間を境にぴたりと動きが止まる。あとに残ったのは安らかな二つの寝息だけだった。
aeka