恐ろしい夢を見た。自分の叫び声で目を覚ます羽目になったナマエは、上体を起こし詰まっていた体の中の淀みを吐き出すように深呼吸をする。幼い頃こそ悪夢だなんだと理由をつけては母のいる布団へと潜り込んだものだが、今現在自分は審神者でありこの広い本丸に刀に憑く人型の神は居れども人間は他に存在しない。速い鼓動を落ち着かせるように撫ぜる。とっくの昔に蝋燭の火は吹き消され、明かりと言えば障子の隙間からわずかに入る月の光だけだった。暗闇によくない思考が掻き立てられる。歴史修正主義者という明確な敵から、言ったら笑われそうな幽霊や物の怪の類まで。頭の中でぐるぐると回りだす。おまけにギシギシと廊下の板が軋む音がしてきたところで、彼女はいよいよ顔色を真っ青にした。ああ元来ホラー小説や映画が得意でなかったからと言ってこんな年になって怯えている様は情けないだろうか。ただの家鳴りなのだと言い聞かせ祈るように両手を組む。しかし音は確実に一定の速さで近づいてくる。お化けだ、悲しいかなそれしか結論付けられなかった。付喪神を降ろす能力を有しているのだから、霊感があってもなんらおかしくなかろう。そんなもの見たくもなんともないとごくり、息を飲んだと同時に影が映る。瞬間、サッと障子が開いた。恐怖を最大限にまで感じると、中々叫び声が出ないものである。せめてもと瞼をギュッと瞑る審神者を呼んだ声色には聞き覚えがあった。否、有りすぎた。
「おい、叫び声が聞こえたが……」
「……えっ。えっ、えっ」
「……無事なようだな。戻るぞ」
「ちょ、待って! 国広!」
布団を勢いよく投げ捨て、去ろうとする彼の腕に縋り付いた。鬱陶しそうな視線が降ってくるが気にしていられない。山姥切国広がここに来てくれた、という事実の方が大切なのである。彼は自分の初期刀であり近侍でもある。山姥切の写しということを酷く気にしているこの鬱屈とした青年は初対面から口を開けば、やれ写しだというのが気になるのか、やれすぐに興味がなくなるんだろ。様々な湿っぽい言葉を浴びせられながらも根気よく付き合ってきたおかげで、今では連れないながらも時折優しさを見せてくれるようになった。今宵も台詞から見るに自分の細い悲鳴を聞きつけ、心配しここに足を運んでくれたのだろう。「国広……」ちょっとばかり弱った色で名前を呼べば、ぴたりと止まってくれた。本当に心を許してくれてからというものは可愛らしいなあと思いながら、審神者は見えないように俯きくすりと笑う。
「いったいなんだ。別に何もないんだろ、俺は部屋に帰って寝る」
「えー……無理。ちょっと話そう? ね?」
「あんたなあ……」
「怖い夢、見たの。だから……」
首を傾げて願い乞えば、山姥切国広は口を真一文字に結んだまま視線を上の方で泳がす。一分ほど思案していた様子だったが諦めたらしい、仏頂面とも取れる表情のまますとんと腰を下ろした。こういうところが好きだなあと思いながらナマエはにこにこしたまま「ありがとう」と礼を述べる。そのまま調子づいたらしい彼女は布団に戻ると隣をぽんぽん叩く。怪訝な顔のまま様子を伺っていた山姥切国広であったが、なんとなく少女が考えていることがわかってしまった気がした。冗談はよしてくれ、嘆きたくなる「国広、添い寝」。
「……帰る」
「なんで!?」
「あんたは馬鹿か?」
「まあ頭は良くはないと思う」
「胸を張るな……ったく」
一度こうと心を決めた審神者は頑固であることを、嫌と言うほどに知っている彼は溜息を吐き出した。種族違いと言えど今の自分は限りなく人間に近い構造をしていて、尚且つ男と女だった。さらに言うとこのお節介で意固地で底抜けに明るい主のことを、彼は誰よりも気にしていた。初めて出会ったから、拒み続けてもそれを許さなかったから、長い間を共にしているから。どれも合っているようで遠い、ごちゃごちゃに掻き混ざった答え。ともかく確立している気持ちは限りなく恋慕に近しいものである。誰にも、この人にも言ったことなどないが。振り切って無視することは出来ないと観念したらしい彼は大人しく彼女の隣で横になる。今までにない密着っぷりに頭が沸騰しそうなくらい熱い。幸い暗いのと平生から顔にあまり出ないのとで気付かれていることはないと思う。心臓の音さえ聞こえていなければ、の話であるが。
「はー……国広あったかい」
「刀の俺より冷たいなんて、あんた大丈夫か」
「冷え性な上に怖くて寝汗だらだらだったから。すっかり冷えちゃった」
「ふうん……怖い夢、ね」
夢どころか刀の時も肉体を持った時も、現実が既に恐ろしかった。写しと呼ばれ比較され心が休まる時などなかった。自分が何者であるのか、存在に悩む夜があった。しかし今は違う。この人が柔らかく微笑み名前を呼んでくれる。「くにひろ」と、阿呆みたいに平和ボケした声で。頭を撫ぜてやれば、不思議そうに見つめてくる。暫しそのままでいたが、手をぴたりと止めると今度は胸元へ顔を寄せてきた。ぽつり、呟く。
「国広がね、いなくなっちゃう夢だった」
今までで一番怖い夢だったのだと、彼女は独り言のようにささめいた。あまりにも突然の一言に、山姥切は目を見開く。頭の中が、真っ白だった。だからこそ馬鹿げたことが言えたのかもしれない。普段の自分じゃ考えられない言葉が無意識に口をついたのかもしれない。
「他の誰より俺が……いなくなったら、ナマエは悲しいか?」
まずいことを尋ねたと自覚した瞬間には遅かった。彼女はがばりと顔を上げると至近距離で彼のことを見つめる。息がかかるほど近い距離で少女は一切の躊躇いもなく答えた「うん」。たったの二文字の返事。それがどうしようもないほど嬉しいだなんて。ぎゅっと抱きしめる。
「みんな、大事だけど。やっぱり国広は特別かなあ」
「写しの、俺でも?」
「まあたそれ言う。写し発言禁止。私の山姥切国広はこのぎゅーって抱きしめてくれてる人以外知りません」
おどけたように、されど確かに力強く抱きしめ返してくれる体温に安堵する。ここにいてもいいのだと、自分が彼女を必要とするのと同じくらいに想われているのだと。心地よい沈黙に身を預けていれば間もなくスースーと規則的な呼吸が聞こえ始める。そっと少女を見やると、先ほどまでの不安や寂しさなどは感じられない、ただただ安らかな寝顔がそこにはあった。意識を手放してくれるまで、なんて思っていたが。この布団で一夜を明かすことを決めた山姥切国広はふっと微笑むと、ナマエの額に唇を落とした。今夜は自分もよい夢を見れそうだと思いながら。
「おやすみ、ナマエ」