秋雨がポタポタ降り続ける中、少女はただ一人灰色の空を見上げる。下校時刻を知らせるチャイムはとうの昔に鳴っており、周囲には色とりどりの傘を広げる同級生がまばらにあった。朝寝坊をし天気予報を見忘れただけでなく、今日は委員会の当番だったために帰りがこんなにも遅くなってしまった。仲の良い友人たちは一時間ほど前に全員帰路に着き、されど家族に迎えに来てもらおうとも今はきっと幼い子たちに稽古をつけている時間帯なのだ。どうしたもんかなあ、溜息をついてから自販機で購入したホットミルクティーを一口。本降りになって出ていく雨宿り、なんぞという有名な歌がある。誰が詠んでいたっけ。国語は、古典はもっぱらの苦手であった。物思いに更けている女の肩をポン、叩く掌。驚きに勢いよく振り返れば、自分よりも頭半分、小さい背丈。藤色をした双眸とぶつかった。
「やげん……」
「大将、傘忘れてったろ?」
右手に自分の父が所有する大きめの傘を彼は持っていた。ナマエは眉尻を下げながらぼやく「だからその大将っていうのやめてよ」。薬研と呼ばれた、学ランを纏う少年はその言葉を無視しニッと笑うと彼女の手を握った。
セブンティーン
ミョウジナマエは粟田口剣道道場、道場主の一人娘である。彼女自身も幼少より剣の道を云々説かれ、否応なしに通っていたが高校入学を機にすっぱりとやめてしまった。別段好きでも嫌いでもなかったが、人並みに女子高生というものを謳歌してみたくなったのがきっかけである。道場に通う男どもに囲まれ育ってきた少女も、今ではクラスメイトの女の子たちと放課後休日問わず外に出ることの方が多くなった。なかなか満足のいく生活を送れているのではないかと思っている。
自分のことを考慮してか、普段よりも少し高い位置で傘を持つ隣の少年を見やる。父からの言伝でわざわざ迎えに学校まで戻ってくるとはご苦労なことで。心の中で「ありがとう」呟く。彼は自分の家の道場に五歳の時から通う門下生だった。薬研の兄弟は皆粟田口道場に預けられていて、彼も兄の後を追うようにして竹刀を握った。それはまあ才能に恵まれていたらしく、見る間に同期に差をつけ先輩を抜かし、といった調子である。本人はどことなく可愛らしい顔をしているのにこのギャップだ。年が三つ離れていたがナマエにもよく懐いてくれたものである。それこそ二人がまだ赤と黒のランドセルを背負っていた頃にはほかの兄弟を巻き込み、毎日毎日冒険ごっこや鬼ごっこをした。どことなく距離を取り始めたのは、彼女がセーラーからブレザーに、彼が学ランに袖を通す時期になってからだと記憶している。別に普通のことだ。世間一般で思春期と呼ばれる時期に突入しただけだ。たとえ異性として意識をしていなくたって、どうにも間柄と周りの目を気にして間隔を開けたくなる。それについてナマエも薬研も特に言い訳をしようとは思っていなかった。ただこうして、二人っきりになるときは昔のように何のしがらみも持たずに、自然体に居られた。それだけで十分だと思っていた。だがしかし、追って自分が道場に赴かなくなれば、その機会すらも稀になってしまう。いくら中等部と高等部が同じ校舎だとしても、確率的に会うことは廊下ですれ違う程度のものだった。互いの友人といれば声すらかけない。知らんぷり、しているわけではないのに。薬研は彼女の視線を受けていることに気付くと、その藤色を揺らす。しとしと、雨の音。
「大将、何かあったか?」
「ううん、別に。薬研も背が高くなったなあと思って」
「嫌味かい、それは。大将の顔の半分までしかねぇよ。まあ、俺っちにはこれから成長期ってやつが来るけどな」
「ふふ、ちっちゃい薬研も可愛いよ。というかほんと、大将ってやめない?」
「大将は、大将だろ」
頑なに首を振ろうとしないところは、まったく、幼い頃と一緒だった。くすくす、笑みが漏れる。今はこうして髪を伸ばし落ち着いた雰囲気を纏わせる彼女であったが、小学校までは酷くお転婆だった。いち兄と呼ばれる薬研の兄もこれにはほとほと手を焼いていたらしく、いつも苦笑を浮かべていた記憶が薬研にはある。そんな少女の背中を常に追い守り守られてきた少年は、まるで呪文のように言い聞かされてきた言葉があった。「薬研、お前はナマエを守らなくてはいけないよ」諭すように慈しむように紡がれてきたそれ。自分の師である人の子供、違う性別。そして焦がれる相手。ないしょ、だけど。
『悔しいがナマエは俺っちより強いから、守る必要なんてないんじゃないか。いち兄』
『うーん……薬研にはまだ少し難しいかもしれないけれど、女の子はいずれ男の子より弱くなるものなんだ。お姫様だからね』
『……だがあいつは姫って感じじゃないぞ』
『あの子はお転婆だしなあ。我らが大将、って方があってるんじゃないかな』
『なるほど、ねえ』
たいしょう、こっそりと独り言ちてから妙にしっくりと来る語感に一人笑う。うん、そうだなあ。負かされて泣かされて、それよりももっと大切にされて。確かに彼女は大将かもしれない。中堅の自分とは違って、団体戦でもナマエはよくそれを任されているし。白く華奢な手を握りなおしながら遠い日のやりとりを思い返す。急に強くなった力に彼女はびくりと肩を震わせるも、何も言わずにそれを受け入れてやった。何年かぶりに触れたぬくもりは、やはりどこか違っていて。嗚呼、時の流れとはなんと早いことか。光陰矢の如し、呟く。ちょっとばかり速く鳴る心臓に深呼吸を一つして。
「大将、久しぶりに道場寄らないかい」
「んー……そうだね。五虎退たちの様子、見たいかも」
「じゃ、決まりだな」
嬉しそうに笑う、変わらない横顔。少し恥ずかしい呼ばれ名だが、今はまだこれでいいのかもしれないと、水溜りを飛び越えながら思った。