昼休み、いつものように友人たちと机を合わせ購買で買ったパンをナマエは咀嚼していた。最寄り駅に新しくできたカフェの話、先週から始まったドラマの話、話題がひっきりなしに転々とする。彼女自身この集団の中では饒舌なタイプでなかったために聞き役に徹することが多くなっていたが、今日は違った。ある一人の子が彼氏ができた、と言ってきたのである。瞬間女生徒らは沸き、すぐ近くでトランプゲームをしていた男子グループはびくりと肩を震わせた。高校二年ともなると、恋愛経験の一つや二つしてもおかしくない。これを皮切りにやれ彼氏がどうだ、好きな人がどうだという盛り上がりをみせることになった。これはまずいと口を噤むナマエ。しかしながら見逃してもらえるはずなく、右隣の女子がにこにこしながら訊いた。
「ナマエは? そういえばこういう話、したことないよね? 彼氏いる?」
「あ、え、いないよ」
「ふーん、じゃあ好きな人は?」
「……」
一瞬好きな人という言葉に動きが止まり、考えてみるもないないと首を振る。文武両道とまではいかないが何事もソツなくこなす彼女のこの態度におもしろいとでも思ったのだろうか、数人がにっと笑った。
「ふうん? いないの?」
「じゃあほら、初恋の人とか!」
「そ、そんな……」
「ナマエの家って剣道教室やってたよね? かっこいい人とかいなかったの?」
勘弁してくれ、そう叫びたい気分だった。別に今まで好意を寄せる異性がいなかったわけではないのだが、如何せん環境が環境だった。幼少期は可愛らしいままごとなんぞよりも勇ましく虫取りに出かけたり、冒険と称し林の中を駆けまわったり。中学に上がっても部活にばかり力を入れていたのだ、同性と多く行動するようになったのは本当にここ二、三年のことである。故にこのような話題は苦手中の苦手で、振られないようにと常々気を付けていたというのにまったく!
紙パックに入るいちごミルクをストローで吸い上げながらぐるぐる考えを巡らせる。初恋、初恋ねえ……。にっこりと笑いながら多くの弟たち同様撫でてくれる大きな手を思い出し、溜息を吐き出した。それはそれは苦い、溜息だった。
「まあ、初恋はいるっちゃいる」
「えー!? だれだれ? やっぱり道場の人?」
「うん、そう。年上」
「わー、すっごい気になるんだけど」
別になんにも面白くないよ、とだけ零すと彼女は再び黙り込んだ。初恋の人の名は一期くん、という。年は自分よりも八つ上だったが、今もそう呼んでいる。とにかく優しく礼儀正しい青年だった。弟たちの信頼は勿論、父も彼のことは大いに気に入っていたし自分も長年練習や生活を共にするうちに惹かれていた。淡いそれが他人にはどう映るかわからないけれど、初恋だったのだろうとナマエは思っている。そんな彼も昨年に結婚してしまった。身内だけの小さく静かな祝言ではあったが、白無垢姿の女性がとても幸せそうな顔をしていたのをよく覚えている。一期くんはディズニーに出てくる王子様みたいなのにタキシードじゃないのかと残念に思っていたが、予想に反し袴も似合っていた。
「今もその人好きなの?」
「うーん、初恋、だから。それに結婚しちゃったんだよね」
「へえ……」
「おーい、ミョウジ!」
教室の入り口から飛ぶ声に、少女は慌てて振り返る。クラスメイトの男子が手招くそこには、幾分か小さい影があった。薬研、呟きが漏れる。両サイドの友人がそわそわしだすのがわかった。急いで立ち上がり彼の元へ向かう。
「大将、昼休みなのに悪いな」
「え、うん。別にそれはいいんだけど、高等部まで来てどうしたの?」
「いや、な。次の授業で電子辞書を持ってこいって言われたのを、失念しちまって」
よかったら貸してくれないだろうかという申し出に彼女は快く頷いた。それからロッカーに戻ると赤色の電子辞書ケースを取り出し、薬研に渡す。五限に英語があるからそれまでに返してもらえると助かるとだけ付け加えた。
「わかった、ありがとうな大将」
「うんせめて教室で大将はやめてほしい、聞こえる」
「……そうだな、なんせそっちの会話も筒抜けだったし」
いち兄、次の三連休で戻ってくるってさ。背中を向ける彼が発した言葉に少女は顔を赤くする。なんてこった、聞こえていたのか。
「ち、違うからね!? 別に今はそういう好きじゃないっていうか、あの、」
「そんな必死で否定してやるなよ。じゃあまたあとでな、大将」
「だ、だから大将って……」
スタスタ歩いていく背中を見送り溜息を吐き出す。この話は薬研にもしたことがなかった。なんとなく気まずさともやもやを胸の中で感じる。あの人の事だろうから、これ以上引きずってからかうなんて真似しないのだろうけれど。
熱くなった頬のまま戻れば今度はグループ内から集中攻撃。薬研くん中学生なのにかっこいいよね、だとか、高等部でも噂になるくらいモテてるらしいよ、だとか。そんなの知っている、心の中で独り言ちた。
授業開始のチャイムが鳴り響き、掻き消される雑音の中考える。数分前に聞かれた、好きな人。頭の中に浮かんだ人物の顔は良く見えなかったが、確かに自分よりも、いくらか小さかった。