昼食を済ませいよいよ出かけるかと思った瞬間、後ろからかかる声に薬研は振り返った。久しぶりに帰ってきた兄は珍しいことにこんな時刻まで寝入っていたらしい、いまだ寝巻である。どこかに行くのかと訊ねられたために少年は先日の彼女とその友人とのやりとりを頭の中に流しながらも、修学旅行の買い物に行くと簡潔に答えた。すると兄は一瞬だけ思案するそぶりを見せると財布を取り出し、万札を弟に押し付ける。困惑した表情で返そうとするも彼は口角を上げ首を横に振るだけである。こうなったら梃子でも動かないのだこの人は。
「どうせナマエとだろう。それで夕食でも一緒にしてきなさい」
「……なんでわかった?」
「だってお前、嬉しそうな顔をしているよ」
くすくす笑い出す兄に薬研は敵わんなあと頬を掻く。そんなにもわかりやすいか、自分は。あの人は一向に気付いてくれる気配がないのだけれど。礼を言ってからありがたく軍資金を頂戴し、歩いて駅まで向かう。心なしか足取りが軽い自分がいて気恥ずかしい。普段どんなに格好をつけて余裕ぶっていようがやはり好きな女と、なんて考えるだけで心臓が速くなるのだ。なんだかんだ言って自分はまだ青い子供なのだと思い知らされる。こんなにも浮かれて馬鹿みたいだ。あの人が道場に来なくなってから二年、たまにすれ違えればいいものである。最近はツイているのか帰りを師範に迎えに行くよう頼まれたり、保健室でばったり出会ったりするものの。年の差、というものを感じざるを得ない。同じクラスになることもなければ席替えで隣になることもない。当たり前なのになんだか悔しくって悔しくって、どうしようもない事実に奥歯をぎりと噛みしめたこともあった。けれど今日は「学校」ではないのだ。
何故二人きりで出かけることになったのかという理由として、近く中等部も高等部も修学旅行というものがある。自分は京都、彼女は沖縄へと。土産は何がいいかと連絡したところ、どうしたことか買い物に行きたいから終末空けておいてよという素っ頓狂な返事がきたのだからそれはまあ本当に驚いた。息が止まるというのはこういうことなのだなあと。別に電車に乗っていかなければ行けない距離に彼女と出かけたことがないわけではない。ただ自分には多くの兄弟がいて、必ず一人や二人は一緒だったのだ。特に鯰尾と骨喰は彼女と年が近しいということもあってかよく揃って遊びに出た。それが今日は自分だけ、というのだから気分が高揚しても致し方あるまいだろう。いるかもわからない神様にありがとうと言いたくもなるだろう。
家の兄弟が例外なく通うことになっている道場主の娘。彼女は自分の一番古い記憶の頃から存在する。三つ離れた、しかも異性であったが同じように武道を嗜み、どちらかと言えば男勝りであった。喧嘩して泣かされたし逆に泣かしもした。それでも二人で育ち笑い離れることはなかった。昔からなんとなく、意識はしていたのだと思う。優しく強くいつだって真摯に向き合ってくれるあの人を。はっきりと恋愛感情を自覚したのはセーラー服姿を見てからだった。普段着でスカートを穿くことなんて滅多に無かった彼女の、すらりと覗く健康的な白い足から目を逸らした。「どうかな?」なんて照れくさそうに訊かれたのを今も鮮明に思い出すことができる。女なんだなと、改めて目の前に突き出された気がした。そうすれば転がるのはもう早いこと早いこと。ランドセルを背負ったガキが一丁前に恋い焦がれる姿はなんとまあ滑稽な事だったろう。無論阿呆のように周囲に漏らしたことはないが、身内にはバレバレだったのかもしれないと思うと顔から火が出そうだった。
そうこう考えているうちに駅に着く。真っ白なワンピースにカーキーのジャケットを羽織る姿を藤色の瞳が捉えた。瞬間、スマートフォンの画面を見ていた顔が上がる。ばっちりと合ってしまった視線に「大将、」呼べば彼女は眉を下げながら笑った。
「薬研、急にごめんね。ありがとう」
「いいや、別に。俺っちも近々買い物には行こうと思ってたし、気にすんな」
「修学旅行中って私服でしょう? 私あんまりセンスがないから見繕ってもらいたいなと」
「……女の服装なんてわからんぞ?」
「うん、いいの。薬研がどっちの方が好きか選んでくれるだけで、いいんだ」
行こうと手を差し伸べてくる。躊躇うも直後重ねた。にこにこ歩き出す彼女に自分はまったく男として見られていないのだろうなあと溜息を吐き出す。
「その代り夕飯付き合ってくれよな、大将」
「うん、勿論」
それでも単純なもので心拍数が上がっていた。横顔を眺めながら嬉しいと、思った。