「覗き見とは悪趣味だな、大将」
学ラン姿の少年は少女を追いかけ走ってきたというのに息一つ乱してはいなかった。しゃがみ込み黙ったままナマエはアスファルトへと視線を落とす。もうすぐ冬が来るというのに一匹の蟻が這っていた。はあ、後ろから溜息が聞こえる。耳を塞いでしまいたい。なんと答えればいいのか、わからなかった。よかったねとからかい交じりのおどけた返事をすればいいのか、胸が痛くて死んでしまいそうなのだと縋ればいいのか。正解が見えない。だって、自分たちの関係はあまりにも不明瞭だった。ぽとぽと降っては地面を黒く濡らす雫に、今日の天気予報は雨だったかと狼狽える。
「大将」
気づけば彼は彼女の目の前まで来ていた。同じように腰を下ろすと、やや乱暴にナマエの目元を拭う。漸く雨ではなく自分の涙だったのだと合点がいった。どおりで冷たさを感じないわけだ。ゆっくりゆっくり顔を上げれば、どこか呆れたような表情を浮かべる薬研がいる。心臓が掴まれる。痛い。彼は口を結んだまま、少女の言葉をひらすら待ち続けているようだった。まだ遠くないグラウンドから、野球部の大きな声が聞こえる。「わたし、」喉の奥から、絞り出すように。彼の肩に手を置き制服を掴み、情けなく歪んだ顔はせめて見せまいと再度下を向いた。
「誰にも、取られたくない」
名前は紡げなかった。これが彼女の今持てる精一杯だった。顔が火照っているのがわかる。鼓動が加速しているのがわかる。ぐちゃぐちゃな頭の中でたった一つを外に連れ出すのが、こんなにも困難を極めるなんて知らなかった。一回目は逃げた。紋付き袴を着る彼への初恋を自ら捨てた。幸せな後姿を見つめ、それでいいのだと思った。涙一つ溢しやしなかった。だのに今は、馬鹿みたいだ。彼が愛を告白されているのを聞いてこんなにも切ない。彼は優しい。特別に優しい。それは自分が師範の娘で幼馴染で一番近いところに位置するから。それなのに足りないと、心は幼子のように泣くのだ。願わくば彼も同じ気持ちでいてほしいと、欲を覗かせるのだ。繋いだ手の温度をどうか特別に置いてほしいと。
「ナマエ」
呼ばれたそれが、自分を指すものなのかどうにも見当がつかない。まるで異国の言葉のように感じる。それほどに彼が彼女の名前を口にするのは久しぶりだった。「ナマエ」二度目。あのころとは違う大人びた彼が、呼んでいる。ああ、男の子だ。瞳の中に呆けた自分を見たのが最後、華奢な体の中に抱き寄せられる。露が制服を濡らした。
「好きだ、ナマエ」
「……やげ、」
「ずっと、好きだったよ」
慈しむように髪を撫ぜてくる右手を、しっかりと抱きとめてくれる左腕を、ずっとと言ってくれる優しい声を。何の見返りも求めず与え続けてくれた。それなのにただ「わたし、」と返すことしかできない。
「俺は今までもこれからも、あんたのものだ」
「……わたしも」
「うん?」
「私も、薬研のものだよ」
「……そっか」
彼はくつくつ喉を鳴らし笑ってからぽつり「ああ長かった」と息を吐き出しながら言った。
普段通り手を繋ぎながら夕焼け道を並んで歩く。あの女の子はどうしたのかと遠回しに聞けば、躊躇いもなくごめんと答えたと言った。ずっと好きな女がいるのだと。耳まで真っ赤にしながら続けてナマエはずっとっていつから、問うた。我ながら馬鹿げた質問だと思った。薬研は珍しいことにうーんと悩ましげな声を上げる。
「わからん、覚えてない」
「えー」
「そんくらい長い間想ってたってことだ」
「……」
嬉しそうな顔しろよ、だなんて言ってくれなくたって少女はにやけそうになる顔を隠すので精一杯だった。頬の肉を噛んでいなければだらしくなくへらへらしていただろう。
彼はスクールバッグを背負いなおすと、呟く。本当に長かったんだよ。今より小さい時彼女は自分の兄を見ているのを知っていたし、年下だからとそう易々意識してもらえるとは思ってもいなかったし。握る力が強くなる。
「あんたはどうなんだよ」
「は……えっと、え?」
「俺だけ言うのは不公平だろ」
「あー……うん、わかんない。でも、傘持って、迎えに来てくれた日からかなあ」
久しぶりに会えて、普通に話せて、なんだかとっても嬉しかったんだよね。瞼を閉じ思い出すように。それから保健室で手当てしてもらったり、電子辞書を借りに来たり、修学旅行中に電話をしたり。眼差しも優しさも全て全て変わらなかった。本当に些細な事だったけれど。自分以外にこの温もりを与えている姿を考えたら、とんでもなく嫌な気分になった。好きとは驚くほど単純で難しくて。積み重なった日々を大事に抱えてくれていた薬研をたまらなく愛しいと思った。
「……これから、私も返していきたい」
「ん? 何を?」
「なんでもないよ。あーあ、でもあと一年しかこうして毎日一緒にいられない」
「ああ、進学は東京にするってさっき言ってたな」
「そう。なんとなく、やりたいことできたんだよね」
「ふうん。……まあ、追いかけてやるよ」
えっ、驚きに見開く双眸ににんまり笑顔。十余年のながーい片思いだ、たった三年がどうしたっていう。しっかり勉強して、剣道も頑張って、身長を抜かしてもっとちゃんと大人になった時には。きっと自信をもって彼女の名前を。
「楽しみにしてろよ、たーいしょ」
「ああっ! また大将って呼ぶ!?」