金曜日は結局彼氏の家に泊まらせてもらった。会社を休んだ上にアポを取らず、突然来た私を理由も訊かずに入れてくれたのだから、本当に優しいと思う。顔色が悪いと心配してくれるところを思い切って押し倒した。ただ何も考えたくなかった、なんて頭の悪い理由。普段は受け身も受け身な私の行動に心底驚いたとでも言いたげな表情を見て、えらく興奮した。自分では気づいていなかったけれど、存外変態だったのかもしれない。その日三週間ぶりにしたセックスはコンドームを使わなかった。生は初めてだったけれど、もうなんだかどうでもいいやという気分だった。0.02ミリ越しとは違う肉の感覚に集中する。どうせこの男と結婚をし、寿退社をし、子供を孕んで母となるのだ。それが幸せであり決められた道である。踏み外すようなことなんて絶対にしない。藤色を掻き消すように喘いだ。少々、わざとらしかったかもしれない。
そんなわけで自宅に帰るのは約一日ぶりである。ドッと疲れがたまっていた。精神的にも体力的にも。ぽすりとベッドに身体を預けると、すぐさま眠気が襲ってくる。何かやらないといけないことがあったような気がしないでもないが、明日早く起きて済ませよう。とろんと溶け出す意識。それを叩き切るようにチャイムが鳴り響いた「ピンポーン」。無機質な音に心臓がばくばく走り出す。いや、そんな、まさか。タオルケットを被り息を殺しながらインターホンに映る影を見る。瞬間、強張っていた全身の力が抜けた。それでも用心にこしたことはないと壁にかかる子機を取って耳に当てる。
「はい……」
「あっ、ナマエちゃん? 遅くにごめんね、ちょっと渡したいものがあるんだけど」
「……他に誰かいる?」
「え? 僕一人だけど、誰かに用事でもある? 呼ぼうか?」
「い、いい! 今開けるから、そのまま待ってて!」
きょとんとした顔を見せるも華奢な彼はそのままでいてくれたらしく、玄関を開ければひらひら手を振った。とりあえず立ち話でもしていて薬研くんに見つかったらだなんて考えるだけでくらくらする。中性的な少年の腕を引っ張って招き入れ、居間に通した。温かい紅茶を入れるから、言い残して電気ケルトに水を注ぎコンセントを差す。
「どうしたの? もしかして具合悪い?」
「うん……ちょっとだけ、気分が悪くて」
「えっ、じゃあ僕帰るよ! いち兄に言われてお菓子、持ってきただけだし」
「あ、いや、いいの。せっかくだから一杯だけでも飲んでいって」
眉をよせ不安げな顔つきをするも、彼は大人しく座りなおした。乱くんは一期くんと薬研くんの弟である。小学生までは見た目の愛らしさからか少女趣味をしていたこともあるけれど、今は線の細い美少年として高校でも人気高いらしかった。一度一期くんが乱はモテすぎて心配なのだと私に真剣な面持ちで相談してきたことがある。ブラコンめ。確かにこんなに可愛ければ構いたくなる気持ちもわからなくはないが。
十分もしないうちに沸いたお湯で紅茶を淹れ、ティーカップについだ。安い茶葉だったからか、あまり良い色ではなかった。ミルクで誤魔化す。
「いち兄が、この間迷惑かけたからナマエちゃんに渡して来いって。今日の夕方から合宿に行っちゃって、家にいないんだ」
「別に一期くんが気にすることじゃないのに……ごめん、ありがとう」
「ラインでもしてやって。僕からも言っておくけど」
はあ、思わず溜息が零れた。年下の、それも学生の子に気を遣わせてしまった。カップを両手で包みながら視線を落とす。それから貰ったばかりのお菓子を少しだけ二人で食べた。優しい甘さのクッキーの詰め合わせだった。三十分ほどお互いの近況報告をし合い、立ち上がった乱くんを玄関まで送る。
「ごめんね、すっかりお邪魔しちゃった」
「ううん、こちらこそ引き留めてごめんなさい。気を付けてね」
「……うん」
ひらりと踵を翻し背中を向ける乱くん。さて今度こそ歯を磨いて寝ようかな、なんて考えていたところにか細い声が届いた。ナマエちゃんこそ、気を付けて。氷のように冷たいそれに、ひたり、汗が一筋頬を伝う。暗闇でもわかる、青い目が私を射ぬいている。
「薬研兄に、気を付けて」
言葉に詰まっていれば彼はにこりと笑って「またね」去って行ってしまった。一人取り残された私は急いで施錠し、チェーンをかけ悪い夢なら覚めてくれとしゃがんで頭を抱え込んだ。