ガンガン痛む頭を押さえながらキッチンに移動すれば、薬研くんが新聞を片手にコーヒーカップを傾けていた。人の家でなにをやっているんだこいつ。しかし眼鏡姿を見るのは本当に久しぶりだと思う。私の気配に気づいたのだろう、彼は振り返って苦笑する。「随分とお寝坊さんだな、ナマエは」なんて、君の方こそ高校はどうしたんだ。高校三年生、受験生だろう。それでも問い質す気にはなれず、へたりと床に座り込む。下着すら身に着けていなかったために、お尻が酷く冷たく感じた。最悪だ、もう。さめざめと泣きはじめる。大学を卒業してから、取引先に罵られようがお局にいびられようが涙を流したことなんてなかったのに。混濁する意識の中昨日の事を思い出す。何度も繰り返し見る昔の夢から起きたら薬研くんが馬乗りなっていて。その先は、あまり思い出したくない。
「昨日、どうやって、入ってきたの」
「二階のカギが開きっぱなしだったぜ、不用心だな。俺っちだったからいいけど」
「帰って」
「そいつは無理な話だ」
にこにこ玩具を与えられた子供のように、笑う彼。椅子からすらりと立ち上がり、近づいてきたと思えば目の前でしゃがみ込まれる。背中を伝う冷や汗に声が出ない。下手に抵抗したところで今のこの体格差だ、目に見えていた。この間のように首を絞められでもしたら今度こそこの世とおさらば、なんて事態になるのではなかろうか。無理。嫌だ。酸欠で停止してしまいそうになる頭を必死で回転させていると、今度は俺が質問していいか、薬研くんは言った。真顔だった。藤色が鈍く光っている。
「一昨日は家に帰らず、どこに居た」
そんな、死刑宣告みたいに。知っているくせに。薬研くんは馬鹿じゃない。子供でもない。私が婚約者の家に行ってどんな行為に及んだのかを既にわかっているのだ。それでもって私の口から聞きたいのだ。畜生。何故こんなにも心臓をズキズキ傷めなければならない。私は××さんを愛しているし、生涯寄り添うことをこれから誓い合う。こんなに年の離れた子に振り回されてはいけない。あの約束はたんなる幼子に付き合っただけのごっごだと、言わなければならない。例え私の中に彼の「ケッコンしてくれ」という呪いがいつだって存在し、つい半年前までそれを爪の垢ほどでも信じ馬鹿げたことを考えていたとしても、だ。……あれ?
「……」
頭がおかしくなったのかもしれない。と思った。私は何を信じ考えていたというのだろうか。そんなことあるはずない。あっていいはずがない。覚えはしていた。心の隅に置いてもいた。それでもいつか自分は彼でない人と結婚するのだろうと、それでもって薬研くんも可愛らしいもっと年の近いお人形のような女の子を捕まえるのだろうと。事実そうなったではないか。同じブレザーを纏う少女と彼が玄関先でキスを交わしていて、勝手に絶望して、ちょっといいなと気にかけていた上司に告白されて。それで。
「ナマエ、」
「薬研くんが、裏切った癖に」
気付いたら呻くように絞り出すように。それこそ呪詛のように。
「薬研くんは、モデルみたいな、お人形さんみたいな、大事な女の子がいる癖に」
いい年をしてわんわん喚いている自分に、恥ずかしいとすら思えなかった。ただ許してほしいとだけ願った。薬研くんが言った「ケッコンしてくれ」をずっとずっと信じ祈ってきたのは自分の方ではないか。もうやめてよ。七つも八つも離れている女に、構わないでよ。きっとあの人のことを君以上に好きになれるの。そうに違いないの。優しくてかっこよくて私のことを一番に想ってくれる、あの人を。だなんて、かっこつけのポーズ。瞬間、抱きしめられる。耳に唇が触れる距離で、囁かれた。
「ナマエ、結婚しよう」
嗚呼、もう。