何もなくなってしまったなと、駅のホームに設置されたベンチに座りながら、三月の空を仰ぐ。愚かしい話だ。十二月の半ばに、婚約を破棄した。人の心は移り変わるからなあ、どこか諦めたような悲しげな笑みを浮かべ彼はぼやいた。俺の告白を受けてくれても、結婚の約束をしてくれても、君はどこか別のところを見ていた気がするよ。そう言って。本当に意味の解らないくらい優しい男の人だったから、私には勿体なかったから。だから、ちゃんと真実を伝えた。七つも年が離れた、高校生の子供をずっと好きだったのだと。驚いたような、汚物を見るような目をしてくれた。それが唯一の贖罪であり彼からの赦しだった。都合の良い解釈だとも、思う。××さんは婚約破棄の理由こそ周りに告げなかったものの、同じ会社の同じ部署ともあればあることないことをたくさん囁かれた。お金に目がくらんだとか、私が浮気をしていただとか、実はバツイチだったとか。アハハハハ。針の筵。鶴丸ですらデスクに顔を張り付けて、声をかけてはこなかった。
二月の下旬に、会社を自主退職した。婚約を破棄してからすぐに上と取り合ったために、すんなりとはいかなかったがなんとか辞めることが出来た。せめて迷惑は最小限にと、引き継ぎもしっかりと済んでいる。同じ部署の上司も同僚も部下も、私のことを引き留める人はいなかった。当たり前だろう。こんな女、いなくなった方が風通しが良くなる。ただ、最終出社日にまたもや不健康そうにファストフードの紙袋を抱え、残業に入ろうとしていた鶴丸は、何を思ったのか階段ですれ違う際に私の名前を呼んだ。何も言わずに金色の目をじっと見つめ返す。嫌悪もそれに近い類の感情も含まれていない双眸に、彼もどうしようもなく良い奴だなあと内心苦笑する。
「なあ」
「なに」
「本当に辞めるのか」
「うん」
身体が資本なんだから、食事はしっかりしたものにしなよ。捨て台詞のように吐いて、さようなら。一段、二段、三段と降りたところに訊ねられる。ぴたりと止まる足。
「以前君が俺に聞いた、十もそこそこ離れているってやつは、××先輩だったのか。それとも、」
なんと聡い男だろう。その問いかけに応えることなく、ただ曖昧に笑ってから彼に再度背中を向けた。言わなくたってもう、正解を導き出しているのだろう。今度こそ鶴丸が私を呼び止めることは、なかった。
昨日、単身赴任で北の方にいる父に会いに行った。婚約を破棄したこととその理由を告げ、おまけに会社を自主退職したと説明した。冗談だろうと笑っていたが、私がにこりとも返さなかったことに絶句した様子だった。正気なのか、それにうんと頷く。父はあの人を大層気に入っていたようだったから、ショックも尚の事なのだろうと他人事のように思った。親不孝もいいところである。家の鍵を渡したと同時に、家族の縁は切れた。呆気ない。が、当然の事だろう。二十五年間過ごした居場所は既に綺麗に掃除し終え、最低限の荷物だけを大きなキャリーに詰め込んであとは売り払うか捨てるかしてしまった。
寒い、赤くなった両手を摩擦熱で温めようと擦りあわせる。これからどこに行こうか、あまり考えていなかったけれど南の方がいい。なにも持ち合わせていない私が、凍えないくらいの。すとん、隣に誰かが座った。ゆるりと視線を向ける。
「待たせた」
「……うん」
遅いよ、なんて以前の私からは考えられないくらいの甘い声。薬研くんは小さく笑いながら悪いとだけ言った。制服姿じゃない彼は、ずいぶん久しぶりな気がする。まるで対等になったように感じる。そんなわけがないのに。
数日前までの彼と同じブレザーを着ていた、玄関先で口付けを交わしていたあの女の子は委員会の後輩らしかった。何度かそういう行為をしたのは否定しないけれど、あんただってそうだったろう。薬研くんは言った。どうにも私がとっかえひっかえで無いにしろ数人と交際していたのが気に食わなかったそうだ。それに本番で失敗してちゃ格好がつかないからなと、そっぽを向かれる。呆れた、このくそマセガキ。すけべ。
「随分荷物、少ないんだな」
「薬研くんの方だって」
「部屋見つけてから、揃えた方がいいだろ」
「まあ、そうだね」
あの後私は彼のプロポーズを受け入れた。あんな状況下に置かれ初めて、薬研くんをずっとずっと好きだったのだと気付いた。馬鹿だ、阿呆だ。これが全てを無くしても求めた結果である。一期くんには哀れむような顔をされた、そりゃあそうだ。それどころか一発くらいは殴られる覚悟も、日を跨ぐほど罵られる覚悟もあったというのに。大事な弟さんを誑かしてごめんなさい、ふざけた台詞だが私の方は大真面目だ。
「行くか」
ホームに滑り込んでくる鉄の塊。冷たい風が顔を撫でる。彼はすっと立ち上がるとポケットに突っ込んでいない方の手を、私に差し出してきた。ああ、何もなくなってしまったわけでない。唯一がある。何にも代え難かった唯一が、どれを犠牲にしても傍に居てほしかった人が。温もりを握り返すと、私たちは鈍行の列車に乗り込んだ。
おわり