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「体育祭?」

「うん!A組とB組、C組が縦割りに分かれて戦うんだけどね、すごく盛り上がるんだって!」

「で、『棒倒し』ってのの大将に沢田が選ばれた、と」

「うん、そうなの。お兄ちゃんが強引に決めちゃったみたいなんだけどね」



 3日間ほど風邪を装って、久々に大きな仕事を片付けてきたあたしは、学校へ来るなり笹川に1枚の紙を押し付けられた。サルビアが読み上げるその紙には、並盛中学校体育祭と題して日程や種目などが細々と書かれている。
 並盛中の体育祭は1年の行事の中でもビッグイベントで、毎年生徒たちも張り切るらしい。その中でも、クライマックスに男子によって行われる棒倒しは一番のメイン競技なのだということだ。



「あの沢田がね……笹川のお兄さんとかの方が適任なんじゃないの?」

「そのお兄ちゃんが、総大将より兵士として戦いたい、なんてわがまま言うから」

「……ああ、なるほど。それで沢田に決定したわけか。最近あいつ目立ってるからなあ」



 あはは、と呆れた顔で笑っているだろう笹川には見えるはずもないが、あたしの瞳の中でサルビアは大爆笑していた。それもそうだろう、その組ごとに最強の男が大将になるのが普通のその競技に沢田が大将として出場するのだ。
 今までの行動やその実力では、どう考えても沢田に大将が務まるわけがない。



「……で、あたしには何をしろと?」

「あ、ううん、別に何をしろってことじゃないんだけどね、一緒にツナくんを応援しようって思って!」



 お願いっ!と手を合わせて美少女にお願いされてしまえば、正直断りにくい。でもその応援とやらの相手がつい最近敵だと判明した沢田なのだ、笹川の想いを無下にすることも出来ないけど少し複雑な気持ちだった。
 正直言うとあたしには体育祭なんてものはどうだっていいわけだ。自分のクラスが勝とうが負けようが、何か見返りがあるわけでもないのだし。



[なんか面倒なことになってきたな……]

《ま、たまには一休みして、学生らしく行事でも楽しんだらどうだ》

[……それもそれで気が重いなあ]



 笹川からもらったプリントを丁寧に折りたたみながらため息をつく。ただでさえ仕事を終わらせたばかりで疲れているのだ、これ以上余計なことはしたくないし今だって早く家に帰って体を休めたい。
 しかし笹川はそんなあたしの心中など知る由もなく、更なる爆弾を投下するのだった。



「あ、そういえば種目を決めたときにせんちゃんいなかったよね?100m走の代表になってるから!」

「……え、ちょ、はあ!?」

「せんちゃん野球とか上手だし、運動出来そうだねってクラスの皆から推薦されたんだよ!頑張ってね!」

「……え、いや、嘘でしょ……?」

《ハハハ、まあ頑張れよー!》

[嫌だ……なんでいちいち目立たなきゃならないようなことを……!]



 職業柄滅多に感情や思ったことを表に出さないあたしもこのときばかりはどうしても感情を抑えきれず、声を張り上げてしまった。唐突すぎて考えもまともに纏まらない。



 *
 *
 *



「……は?君がクラス代表で走るってわけ?」

「だからそうだって言ってるじゃん。風紀委員の権力でどうにかなんないの?」



 見回りを終えて応接室に帰って来た雲雀に、ここぞとばかりにあたしは愚痴を漏らしていた。この学校で目立つことを極力避けたいのに体育祭でクラス代表などになってしまっては元も子もない。
 でもそれは単に目立つからという理由だけではない。昔から逃亡や身を潜める生活をしてきたせいか足が異様に速くなったのだ。生き延びるために習得したその能力が、まさかこんなところで使われることになろうとは思いもしなかった。

 勿論手を抜いて走ることぐらいいくらでも出来る。だけどまだ風紀委員会に入りたての頃、雲雀に追いかけられて校内を逃げ回ったことがあった。自分の足の速さを知る雲雀を前にして手など抜いてみたらどうだ、一瞬で咬み殺されるのは間違いなし。



「別に、面白そうだしいいんじゃないの?」

「何も面白くないんだってば。全校に名前が知れ渡るようなことは極力したくないのに」

「そんなに嫌なら、僕が運動委員に取り合ってあげてもいいけど」

「じゃあぜひそうして」

「その代わり、貸し1ってことで好きなときに僕と闘ってもらうことになるよ。それでもいいなら」

「それは丁重にお断りしますぜひ出させてください」



 本当に上手くやりこめられたものだな、と思う。元より断れば彼にそんな条件をつけられることは目に見えていたのだけど。
 しかし彼にそう言われてしまって断れないのは、やはり記憶の中の兄の効果が絶大なのだろうか。



「……面倒だなあ」

〈……ま、お前が走りゃあ1位を取れるのは確実だろうけどな〉

「とりあえず、期待してるよ神谷」



 楽しそうにそう言い合う雲雀とサルビア。つい最近知り合ったばかりのはずなのにどうしてこうもこの2人は息が合うものだろうと思いつつ、その和やかな雰囲気に思わず口元を緩めてしまう。鴉と人間が楽しそうに話すなんて、普通は考えられないことだから。
 あたしは、サルビアと雲雀が揃ってしまうとどうにも勝てないらしい。









 体育祭当日。100mの選手として走る前に、あたしはジャージを着たままで学校の見回りをしていた。

 体育祭など行事の時は学校の中ががら空きになるので、注意して見回りをしろと雲雀に言われているのだ。見回りといっても雲雀のように力で処理をするわけではないから、問題があればノートに書いておきそれを伝えるだけ。
 両親の仕事の都合で一時期イタリアにいた雲雀は、日本語とイタリア語、そして英語をかなり自在に使いこなせるらしい。だからいつも見回り後に見せるノートは、イタリア語で書いてあっても問題なく読むことができるという寸法である。正直それはありがたい。

 見回り中、特に何も問題がなかったため今は応接室に向かってのんびりと歩いている所だった。



「……暑いなあ。そろそろ涼しくなってもいい季節なのに」

〈ま、ジャッポーネは四季が風とかによって微妙にずれたりするからな〉

「……よくそういう知識持ってるよねサルビア」



 応接室の扉を開き窓枠に座る雲雀の姿を確認すると、ノートを机の上に置く。彼は窓からじっと、空を見つめているようだ。



「……何見てるの?」

「別に。今日は、体育祭日和な空だなと思って」

「……うん、確かに今日は空気も澄んでるしいい天気だね」



 こんなあたしでも、青く澄んだ空が広がるような天気だと気分が晴れて清々しい気持ちになる。彼の隣に立ち、同じように外に顔をあげて空を仰いでみた。

 澄み切った青空とゆっくり流れる雲。視力のある時、最後に見た青い空を思い出し大きく深呼吸をする。応接室から眺めることのできるグラウンドからは、盛り上がる生徒たちの声が聞こえてくる。



「全校生徒が集まるとすごい人数だね。さすがにこんなに離れてちゃどれが誰だか分からないよ」

「物を認識する能力って、限度があるの?」

「視力を失う前に見たことがある物だったら認識できるけど、人の顔とか初めて見る物は認識できないよ。だから、その人が取り巻く独自の空気を読んで、1人1人覚えてるってわけ。まあ、雲雀の場合はもうそんなことしなくても雰囲気とかで分かるけどね」

「……じゃあ君は、僕の顔もサルビアも見えていないわけか」

「……あたしがもし雲雀と会ったことがあるっていうなら、顔を思い出せば話は別だけどね。サルビアは見たことあるから分かるし。ああでも今のはそういうわけじゃなくて、人が多すぎて特定するのが面倒なだけ」

「面白い能力だね」

「能力というか生きるための知恵かな。この学校には初めての物が溢れてて案外楽しいよ」

「へえ。ああ、見回りお疲れ様」



 雲雀から労いの言葉が聞けるなどとは思っていなかったため、呆気にとられた。なんか変な顔でもしていたのか、あたしの頭を軽く小突いた雲雀は窓枠から降りて自らの執務机に座る。
 何やら今日は少し、雲雀の様子がおかしいみたいだ。



[ねえサルビア、今日の雲雀なんかいつもと違くない?]

《そうかあ?オレには、いつもと同じように見えるけどな》

[やけに今日は無気力って言うか……]



 さっきまで雲雀の座っていた場所に腰掛け、机に向かう彼の後ろ姿を見つめて悶々と考えを巡らせる。
 彼がふとした時に空を見つめているのはよくあることなのだけど、今日はいつもと何かが違う。しばらく考えてみたところで、ある1つの答えに辿り着く。



(今日は9月21日……ああ、そうだ。確かこの日は雲雀の両親の、命日だ)



 千都から預かった資料や聞いた話では確か、今日がその日だったはずだと思いだす。
 彼だって人間だ、自分の両親が亡くなった日にいくら体育祭を見ていたところで楽しい気分になんてなれるはずもない。あたしの場合は、父さんと母さんをこの手で殺してしまった日が自分の生まれた日なのだから尚更。彼に同情してしまう。



「……ねえ、雲雀」

「……何?」

「今日だけ、だったら……1つくらい、言うこと聞いてあげてもいい、けど」



 ふと口をついて出た言葉。でもそれが今のあたしが彼に出来る精一杯のことだった。
 雲雀はしばらくびっくりしたように動きを止めていたが、ふっと笑みを漏らして再び机上の書類にペンを走らせる。



「……そうだね、考えておくよ」

「うん、そうしておいて。そろそろ時間だし行こうかな」

「一応、君の走り見ておいてあげる」

「別に見なくていいよ。どうせ1位取るし」

「ずいぶんと自信過剰だね。まあ、君らしくていいと思うけど」



 珍しく笑いながらそう言う雲雀の横をすり抜けつられて笑いを飛ばす。しかし応接室の扉を静かに後ろ手に閉めてから、顔に浮かべていた笑みは一瞬にして消えた。
 あの人は、あたしにも似てる。何を思っていても、自分の感情をほとんど外に出さないところがそっくりだと思った。



「つらいなら、無理して笑わなくてもいいのにな」



 *
 *
 *



「神谷さん、1位おめでとう!」

「……お前、案外すげえんだな……」

「神谷って足速いのな!陸上部のエースに勝っちまうなんて!」

「ん?ああ、ありがとう。そう言う山本も、さっき陸上部に勝ってたでしょ」



 100mのレースを終えて宣言通り1位を取ってきたあたしは沢田や山本、獄寺、そして笹川たちに囲まれるようにして立っていた。
 雲雀に咬み殺されるのを避けるために取った1位だとはいえ、なんだかんだ言ってトップに立つのは嬉しいこと。自然と生まれた不思議な高揚感から緩む自らの頬。この時ばかりはコンタクトレンズではなく鴉の姿で木の上からレースを見ていたサルビアも、嬉しそうにしているのが伝わってくる。
 でも、いつまでもこの話題を引っ張るのも面倒だ。あたしは即座に話題を切り替える。



「で、確か沢田が棒倒しの大将になったんだっけ」

「そうなんだよ、本当にどうしよう……」



 頭を抱えて悩む沢田に苦笑いを浮かべながらも、内心では男なんだからしっかりしろなどと思ってしまうのは隠す。仮にもマフィアのボス候補なのだ、しっかりしてもらわなければ困るというのに。



「まあ、沢田が弱くても喧嘩強そうなの他にもいっぱいいるんだしいいんじゃない?ほら、獄寺とか」

「てめー、何勝手なこと言ってやがる!」

「おい、獄寺……!」



 沢田が弱いと言ったことに対して怒ったのだろう、獄寺が懐からダイナマイトを取り出す。また面倒なことになる前にそのダイナマイトは軽く足でふっ飛ばして見せた。呆気にとられている獄寺を余所に、何もなかったかのように服についている砂をパンパンと払い落す。



[さて。もう競技ないし、とりあえず下校時間まで寝てようかな]

《え、せっかく棒倒し面白そうなのに、見てかねーのか?》

[どうせ負けるんだろうし、いるだけ無駄でしょ]



 木に止まったままのサルビアと会話を交わしながら、とりあえず睡眠場所を確保しようと校内へ戻る。空調の効いた応接室を訪れてみるとそこに雲雀の姿はなくて、あったのは1枚のメモだけ。



〈見回り行ってくる、だとさ。風紀の兄ちゃん、お前が来るってこと分かってたみてーだな〉

「ほんと、よく分からない人だなあ」



 字が書いてあるだろう部分をゆっくりと撫でつつそのメモをポケットに仕舞うと、ふかふかのソファに体を沈めた。
 応接室はいい具合に冷房がきいていて、火照った身体の熱を冷ましてくれる。その心地よさに導かれるようにして、あたしはゆっくりと目を閉じた。



 見回りを終えて応接室に帰ってくると、ソファーの上で神谷が気持ちよさそうに寝息を立てていた。どうやらだいぶ深く眠っているらしく僕が近づいても起きる気配はない。

 彼女が僕やひなのが片足を突っ込んでいる世界のことをよく知っている人間だと分かったのは、もうそれほど最近のことではない。子どものころからマフィアというものがどんな仕事なのかは分かっているつもりだったし、彼女がマフィアを嫌っているということも朧気ながら理解している。目が見えないせいで、警戒心が人一倍強かったりすることも分かる。
 だからこうして応接室で無防備に寝顔を晒しているということは、いくらか彼女は僕に信頼を寄せてくれているということなのだろう。きっとその中には、僕に過去の記憶を掘り起こさせてしまったという罪悪感が含まれているのだろうけど。



「……別に、君が気に背負うようなことじゃないのにな」



 寝息をたてる彼女の額にかかる髪を払いながら、呟く。感受性が豊かなのか、他人の苦しみを自然と共有してしまうのかよく分からないけれど、僕の闇を彼女が自分のことのように抱え込んでしまっているのは分かっていた。

 きっと彼女は、僕なんかよりよっぽど裏の世界のことを知っているんだと思う。いったい今までどんな世界で生きてきたのか、どういう経緯でマフィアを憎むようになったのか、彼女はそれを話してはくれない。だけどあの華奢な体の中に随分と深い闇を抱えているように思う。
 視力のない目で僕を見つめる視線はいつだってどこか寂しげで苦しそうだから。



「各代表の話し合いにより今年の棒倒しはA組対B・C合同チームとします!」



 けたたましく学校全体に鳴り響くアナウンスの音。視力がないせいでほかの感覚器官は敏感なのだといつしか言っていたが、おそらく聴力も動物のように鋭いのだろう。彼女は熟睡状態から目を覚ましたらしく目をこすっていた。ソファの背もたれに座る僕に気づいたのか、欠伸をしながら体を起こす。



「……ひ、ばり……今なんか放送流れた……?」

「なんだか面白いことになってきたよ」

「……一体何が起きたの?」

「B組とC組の大将がA組の沢田綱吉に倒されたから、B組とC組が合同で戦うんだって」

〈おっ、そりゃー面白いじゃんか!なぁなぁせん、早く外に見に行こうぜ!〉



 興奮するサルビアとは裏腹に、未だに眠そうな目をこすりながら寝起きで覚醒しきっていない頭を働かせつつゆっくりと言葉を発する神谷。
 どんな人間も睡眠欲というものは強いのだなあと思いつつ、僕はソファーにへばりついてまだ眠たげな顔の彼女の腕を引っ張る。当然男の力で引っ張られれば華奢なその身体は自然とソファから立ち上がらされるわけで。グラウンドではこれから随分と面白そうなことが起きるようで、そのまま神谷の腕を引っ張ると応接室から出て校庭へと歩き始める。



「ちょっ、雲雀、どこ行くの……!?」

「いいから、ついてきなよ。あんな楽しいこと、参加しないともったいない」

「楽しいこと……まさか雲雀……!」

「ふふ、これだから時に弱いだけの草食動物は面白いんだ」



 僕の考えることが読めてさすがに眠気も吹っ飛んだのだろう、神谷は先ほどから僕の肩の上でにやにやしているサルビアを空いている方の手で殴る。
 ぎゃあぎゃあと文句を言いだす彼を余所に、僕は細い腕を引っ張って昇降口への道を歩いていくのだった。



 *
 *
 *



 昇降口で靴を履きかえてグラウンドへ向かうと、B組とC組が倒されてしまった大将の代わりを誰にするかの討論が開かれていた。

 B組大将の押切という男もC組大将の高田という男も、ともに各組の最強の人物。そんな人間が倒されてしまった今、大将が務まる人物などそう簡単には見つからないらしい。それが分かっているからかB組もC組もしばらくの間大将決めに戸惑っているようだった。
 そんな光景に笑みを抑えきれず、神谷の腕を引っ張りながらどんどんと歩く。どうやら久しぶりに、楽しそうなことが起きそうだ。



「ほらね、面白そうなことになってきたでしょ」

「もしかしなくても雲雀、BC連合軍の大将やるつもりでしょ」

「分かってるなら話は早いね。それに、沢田綱吉に会いまみえればあの赤ん坊にも会えるかもしれないし」

「……ああ、リボーンのことか」



 正直、あのリボーンという赤ん坊には驚かされた。強い者と戦うことが好きな性分だからということもあるけど、あの小さい身体の何処にあれだけの強さを秘めているのか初めて彼の戦いを目にした時からとても気になっていた。
 でも正直言えば今一番の興味の対象は赤ん坊ではなく僕に手を引かれるまま後ろをちょこちょこと着いてくる彼女にある。早く彼女と戦ってみたい、その気持ちは日に日に強くなっていた。そんな気持ちを抑えつつ、校庭に制服のまま足を踏み入れ、討論を続けるB組とC組に声をかける。



「あ、ヒバリさん……と、神谷さん!?」

「……どうも」



 最近何かと校内でいろいろなことが起きているが、神谷は真面目に仕事をこなしてくれるし事ある毎に起こる面倒事の対処もしてくれる。
 目立つのが嫌だと言い張っている彼女が風紀委員の1人であることはここ最近でほぼ全校に知れ渡り、彼女もようやく諦めたのか素直に腕章をつけるようになった。名前まで憶えられてしまったわけだけど、何故だか本当に嫌がっているみたいだし申し訳ないかなと思わないわけでもない。

 しかし今はそれはどうだっていい。改めて彼らを見上げるが、体格差では明らかに僕のほうが劣っていた。身長も筋肉量も今目の前に立っているB組やC組の彼らのほうがよっぽど上だ。でもそんなことは関係ない。正直、ただでさえ人数の少ないA組に負けるなんてことは有り得ないだろうし、勝つのは楽勝だ。でも僕の目的は勝つことではない。
 ただ、あの赤ん坊ともう一度戦ってみたい。楽しめさえすれば、それで良かった。



「……まったく、破天荒な委員長だなあ」



 神谷の呟きを小耳に挟みながら棒の頂上へ昇る。そんな僕を追いかけるようにして、サルビアが、真っ青に澄んだ大空へと羽ばたいていく。黒と青のコントラストは、思ったよりも眩しいものだった。
 棒の上に真っ直ぐ立って目を閉じた。まだ残暑の厳しい時期だけど、こうして風を感じると気持ちのいいものだなあと思う。神谷はそんな僕を見上げるようにこちらへ視線を向ける。するとどこかから神谷、と彼女の名前が呼ばれたのに気付いた。

 確認するまでもない、その声はあの赤ん坊の声。



「神谷、ちょうどいい所に来たな。A組の大将はツナの代わりにお前がやれ」

「………は?」



 ゾウの着ぐるみを被った赤ん坊の放ったその爆弾発言に、彼女は言葉を失っていた。まあそれもそうだろう。本来この棒倒しというのは男子生徒による競技で、女子が参加するものじゃない。しかし彼女の強さはもうすでにこの学校では有名になっている。反対する者なんていないだろう。
 嬉しそうな表情を隠しきれない沢田綱吉に、彼女を睨みつけている獄寺隼人。山本武ですら楽しそうな顔だ。クラスメイトや2・3年のA組の生徒も神谷が風紀委員であることを知っているため文句は言わない。

 なんだかさっきよりも面白い展開になってきたみたいだ。



「ねぇ、神谷」

「…………っ……!」



 名前を呼ぶ。僕の声に反応しびくりと肩を揺らす彼女。ゆっくりと棒の上を見上げる光のないその視線は、ゆらゆら、揺れている。



「さっきさ、君言ったよね?1つくらい言うこと聞いてあげてもいいって」

「確かに言ったけど、まさか今このタイミングで……?」

「学校行事だからね、戦えとまでは言わないけど、僕と勝負しようよ。こんなにいいシチュエーションはないと思うけど」



 僕と彼女以外の生徒からはただの鴉にしか見えていないだろうサルビアと視線を交わしながら言う。
 彼女が何故あれ程にも、僕と戦うのを拒んでいるのかは分からない。サルビアも理由を話してはくれないし、例え心境の変化があったとしても彼女が素直に話してくれるとも思わない。

 でも最近なんとなく分かってきたことがある。彼女は時々、僕を見て悲しそうな、寂しそうな顔をする。本人が自覚しているかどうかは分からないけど、あの視線は何かを怖がっているような、何かに縋りたいような、そんな眼だ。



(あの子は、何を抱えて生きてるのだろう)



 僕には彼女の気持ちが分からない。自分を犠牲にしてまで、自分の気持ちを押し殺してまで神谷せんという少女が僕を助けようとしてくれるのは何故なのか。きっと彼女は僕よりも、重くて深い何かを過去に持っているだろうというのに。
 そんなことをぼんやり考えつつ下を見下ろす。僕の視線を受け神谷は小さくため息をつくと赤ん坊に目線を合わせるようにしてその場にしゃがみこんだ。



「……分かった。大将、引き受けてあげる。そのくらいお安いご用だから『約束』のうちにいれなくてもいいよ」

「……そう」

「んじゃ神谷、頼むぞ」

「え……神谷さんっ、ほんとに……!?」

「ただし、女子ってことでハンデをちょうだいよ。あたしが棒から落ちずに5分経ったら、敵側の人数を30人減らして沢田と交代っていうのはどう?それでも雲雀たちが勝ったら、『言うこと』聞いてあげる」



 なるほど。となると、僕が勝つには手っ取り早く神谷を引きずり下ろすか、30人味方が減ったやや不利な状態で沢田を引きずり下ろさなければならないというわけか。なかなか面白いルールだ。
 特に反対する理由もないので頷いて見せると、赤ん坊はにんまりと笑った。

 おろおろする沢田を一瞥すると、深く息を吐きながら立ち上がり準備運動とばかりに手首や首を回す。ズボンの裾を膝あたりまでまくり上げ、そうしてからようやく棒を駆け上がり僕と同じ目線の高さまでやってきた。目が見えないのに、高いところが怖いとは思わないのか。いや、そんなことは思わないだろう。彼女にとっては視力がないことはそれほど大きな障害にはならないのだから。



「さて雲雀、一応言っておくけど武器は使っちゃだめだからね」

「当たり前でしょ、学校行事なんだから」



 神谷が愛用している武器は少し前に見せてもらった。確か名前を宵闇と言ったか、黒色が美しい不思議な金属製の扇だ。どうやらサルビアが姿を変えることによってその武器も強化することが出来るという珍妙な代物だ。
 当然と言えば当然だが、彼女はこの公衆の面前で武器を使うことなんて出来ない。何かあった時のためにいつも持ち歩いているらしいが、僕と違って神谷は最近転校してきたばかりだ。彼女が武器を使うところなんて見たのはこの学校ではせいぜい僕くらいだろう。

 第一彼女は僕やひなの以上にマフィアの、裏の世界のことを知っている。頭の切れる彼女のことだ、ここで武器を使ってしまえばこの学校にも数人紛れているであろうマフィアに狙われないとは言い切れない。そんな危険なことをわざわざしでかす馬鹿はいない。だから、最初から僕も武器を使おうなどとは思っていなかった。
 肩に感じる重みが、今は鬱陶しい。学ランを脱いでトンファーと一緒に下方にある木の根元に放り投げると、武器を手放したのが珍しく感じたのか全校生徒が目を丸くしているのが分かって少し可笑しい。サルビアが慌てたようにそれを追いかけて下降していく。



「直接あたしと雲雀が戦うわけじゃないんだし、こんなことで大切な『お願い』使っちゃったらもったいないでしょ」

「……まあ、そうだね。だったら僕からひとつ条件をつけさせてよ」

「…………?」

「もしこのハンデをつけた上でも僕のチームが勝ったら、後で僕と手合わせをすること。武器は使わない、肉弾戦で構わない。こっちが本当の『お願い』」



 神谷にとってもいい案なのではないかと思う。共に過ごしてきた日々のなかで何となく気付いたが、どうやら彼女は『お願い事』に弱いらしい。
 しばらく考え込んでいた彼女だったが、大きなため息をついたあと、強く頷いた。



「本当は肉弾戦とはいえ戦いたくなかったけど……自分で約束しちゃったことだしね」

「いつかその、戦わない理由くらいちゃんと聞かせてもらうから」

「……うん、時期が来たらね」



 僕の言葉に、神谷は顔をちらりとわずかに歪めて、地上を強く吹く風を嫌がるかのように肩を竦める動作をする。

 最近はだんだんその時々でとる行動によって、何を思っているのか、少しずつ彼女の感情というものが理解出来るようになった。顔を歪めたのは、不快な感情というよりは、不器用な彼女なりに謝罪の念を表している証拠だ。



「まあ、今はその話はいいや。とにかく、これで戦ってくれるんだね」

「雲雀が勝てばね。それに……あたしも、あなたを傷つけずに済む」



 本能的に分かっていた。きっと彼女は僕よりも強い。もしかしたら僕が武器を使ったとしても勝ち目がないのかもしれない。自分に自信がないわけではないけど、殺気というか彼女の纏う空気というものが、今まで出会った誰よりも強いことは分かっている。
 だからこそ、自分よりも高みにいる者を引きずり落とす感覚が快感に思える。本物の神谷せんと心置きなく戦える日は果たしてこれからやってくるのだろうか。

 どちらにせよ、これで彼女の強さをようやく自分の身で体感できる。これほど戦いを楽しみだと思えたのは随分と久々だった。大きく深呼吸をすると、彼女もまた安定感のないその棒の上にしっかりと立って呼吸を繰り返す。



「言っておくけど沢田、あたしが落とされても落とされなくてもどっちにしろいずれあんたに大将回ってくるんだからちゃんと準備しといてよね」



 下から空を仰ぎ見上げてくる沢田に、彼女はきっぱりとそう言い放つ。

 彼女がしてくれた、『今日1日なら僕の言うことを聞いてもいい』という約束。『僕と戦う』約束はしてないのに、自然と要求を汲んでくれるのは彼女の優しさだ。納得がいかないような表情をしている獄寺隼人や山本武たちは放っておき、僕は彼女を、彼女は僕を、しっかりと見据えて棒に立つ。



「さて。みんながしっかりしてくれないと沢田に代わる前に台無しになるからそこんとこよろしく頼んだよ」

「……か、神谷頑張れよーっ!」

「……まあ、そういう事だから。落とさないでね」

「は、はいっ、ヒバリさんっ!」

「それではこれより、A組とB組C組連合軍による棒倒し、開始!」



 アナウンスの声とともに、戦いが幕を開けた。



 *
 *
 *



 揺れる棒の上にずっと立っているのは、いくらバランス感覚の優れた人物であっても難しい。しかし恐怖も不安も感じずに凛と棒の上に立ち、時折引きずり下ろそうとする男どもを蹴り落とす彼女の姿は、それだけでも強いということが分かった。武器がなくても、身体の使い方そのものを理解しているのだろう。
 立っている場所が高いのと、自分の体重を支えるものが心許ないせいか、空を飛んでいるような感覚に陥る。直接拳を交えているわけではないが、彼女の強さが伝わってきて、身体が震える。

 きっと彼女と実際に戦えば、拳を交えれば、もっと楽しさを味わえるのだろう。何を仕掛けても動じない棒の上の僕らを、下から茫然と見上げてくる生徒たちのことすら気にならない。ただ今は、このシチュエーションを一時も無駄にせず大切にしたかった。



「ちょっとこれ棒倒しなんだけど分かってんの?早く雲雀を引きずり下ろしに行ってきなよ」

「……あっ、悪い悪い!」

「お前ら、BC軍に勝つぞーっ!」



 神谷の声で、下の生徒たちもようやく本来の棒倒しの意味を思い出し戦い始める。再び数人の生徒たちが僕の足を、彼女の足を引きずり下ろそうと棒によじ登ってくるが、もうそんなやつらのことなんか気にはならなかった。
 殴る、蹴る、そして時折棒の上で跳ね上がる。動きに合わせて揺れる神谷の髪の毛の合間から見えるその表情で、彼女が楽しんでいるのだということが分かった。思っている以上に楽しそうだった。笑顔だった。しかし真剣な目つきをしていた。



「……君と武器を交えて戦ったら、いったいどれほど楽しいんだろうね」



 下にいる生徒たちの動きに合わせて僕らの間合いが詰まったところで、小声で語りかける。声はしっかり伝わっていたようで、神谷ははっと顔を上げた。



「ただの学校行事とはいえ、なかなか面白いことをするんだね。ストレス発散になるよ」

「……君も言うようになったね」

「だって日頃の仕事でいろいろ溜まってんだもん。それを晴らす場ってものも必要だからね……っと」



 ひゅう、と一瞬強い風が間を吹き抜けた。その瞬間下から迫ってきた生徒を蹴落としつつ、彼女は咄嗟に目を押さえる。



「……どうしたの?」

「………目。痛い」

「………あ」



 掠れた笑いを浮かべた神谷。視力のない、目として機能していない彼女の瞳はおそらく通常より眼球自体が弱く乾燥しやすいのだろう。強い光の差す太陽のせいか知らず知らずのうちに目を痛めてしまっていたようだ。
 気付けばもうすぐ5分が経つ。沢田と交代する時間だ。



「……大丈夫なの?」

「うん、なんとか。さて、5分持ったし約束通りそっちの陣営から30人減らしてもらおうか」

「……はいはい。まあ、沢田が相手じゃ負ける気なんてしないけどね」

「……ふふ、分かってるよ」



 神谷がアナウンス席に向かって選手交代ね、と叫ぶ声を聞きながら、ふと気付く。
 30人減らしたところで、少し不利になったところで、元々の人数が多い僕らが負ける可能性は限りなく低い。向こうにいる獄寺隼人や山本武がこちらの陣営をどんどん減らしていっているが、早い話僕が棒から落ちなければ負けることはないのだ。



「……最初からそのつもりでハンデにもならないハンデをつけたの……?」

「……何のこと?」

「どうせ君、『言うことを聞いてあげてもいい』って言った時点で、そのお願いを僕が君との戦いに使うってことを予想してたんでしょ」

「んー、あー、もうばれたか……」

「……何で、そんなに素直なのさ。今まであんなに頑なだったのに」

「いや、まあ、それはさ……」



 言葉を濁す彼女に思わず首を傾げる。眼下ではまだ、喧騒が治まらない。神谷はその喧騒に言葉を乗せ、ある6文字の単語をその口からゆっくりと紡いだ。



「……!どうしてそれを……?」

「朝から、今日の雲雀はどこか可笑しいなと思ってた。それで思い出しただけ。戦ってあげてもいいけどさ、どうせならあたしも連れて行ってよ」



 ジャージについた砂埃を払いながら静かに語りかける神谷に、思わず俯く。彼女は気づいていた。というよりは、僕の話を隅から隅まできちんと覚えてくれていた。
 彼女は、『おはかまいり』と確かにそう僕に言った。今日は僕の両親が殺された日。2人の命日。それを分かっていて、話を僕に持ちかけた。



「……わざわざ、覚えてたの」

「記憶力はいいもので。早く終わらせてきてよ、あたしも暇じゃないんだからさ」

「……うん」

「暗い顔しない!応接室で残った仕事片付けてるからね!」



 半ば自棄になりつつ言って棒から飛び降り、沢田綱吉の肩を軽くポンと叩いた神谷は一時的に戦いの手を止めている生徒の間を縫って、校舎へ向かっていく。その後を追うようにして飛んだサルビアが一瞬こちらを向き、にやりと笑ったのが分かった。
 彼女の後ろ姿は儚かった。あんなに強いのに、まるで今にも消えてしまいそうなほどに儚かった。何かを背負っている彼女に、僕の言葉などただでさえ重い何かに更に重さを重ねるようなものかもしれない。それでも今はこの言葉を伝えなければいけないと、そう思った。



「…………ありがとう、せん」





(肉弾戦だとやっぱり『男』っていうことが有利になるね。さすがのあたしも焦ったよ)
(ま、相手を傷つけねーで戦うっつーのはお前だからこそのスキルだと思うけどな)
(そういうもんなのかな。素手で戦うのはあたしも苦手)
(でもよ、あれだけ戦うの嫌がってたくせにいきなり要求を受けるなんて、せんらしくねーな)
(今日はきっと、一番雲雀の心が脆い時だ、って気付いたから。少しでも和らげることが出来るなら、少しくらい自分の掟を破ったっていいと思った)


(……ほらな、やっぱりせんは優しいんだ)





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