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「いやぁ〜、可愛いわせん!スカートもなかなか似合うじゃないの!」
「ジェニファーさん、それ本心から言ってる?」
「当たり前よ!制服姿ってのも新鮮ねぇ」

 少女は、あまり着慣れない『制服』という名の衣服を身に纏っていた。
 珍しい瑠璃色の目は黒のカラーコンタクトで隠し、その目を隠すまでに長く伸びた前髪は桜の飾りがついたヘアピンで丁寧に纏める。プリーツの入ったスカートと赤いリボンは、ジェニファー曰く日本の学生にはお馴染みのものである。普段スカートというものを全く身につけないためか、せんは膝の辺りを纏うひんやりとした空気に身体を震わせた。

「懐かしいなあ。私の学生時代なんかリーザのせいで散々だったのよ」
「それもそうだったな……ってジェニファー、逆だろ逆」
「せん、楽しんでいらっしゃいね」
「あのな、楽しむために学校行かせるんじゃねぇぞ?潜伏と調査の為だ」
「分かってるわよ、私が提案者なんだから。でも、せんにとって学校は初めてなのよ?少しくらいはしゃいだっていいじゃない」

 せんは今日から、中学生になる。生まれた瞬間に両親を殺めたこと、物心ついた頃にはすでに殺しを始めていたことなど、様々な事件が災いして今まで学校に通うことがなかった少女は制服を着る体験など一生訪れないだろうと考えていたのだが、人生とは何が起こるか分からないものである。
 イタリアの裏社会に於いて、『請負屋のセーヌ=ヴェルベーナ』の名前は有名すぎるほど有名なものだ。本名を明かさず闇の世界で暗躍する彼女は、滅多に表の世界へ姿を現すことはない。
 しかし日本に滞在するようになってからというもの、請負屋はイタリアでの仕事のほとんどを断っている。『セーヌが日本にいる』ということは依頼主がいる時点で隠すことは出来ない事実であり、下手をすれば居場所や正体を探られるかもしれない。そのため、容易く探られないためにもただの学生に扮するのはどうかと発案したのはジェニファーであった。

「ところでリーザ、お前保護者でもないのにどうやってわたしを学校に入れたの?手続きとか必要なはずなんだけど」
「ああ、そりゃあ勿論いつもの奥の手を使ったに決まってんだろ?」
「…………ジェニファーさん、相変わらずだね」
「楽しかったわよ?リーザに化粧するのは!」

 リーザの言う奥の手というのは、美容師の資格を持っていてヘアメイクからコーディネートに至るまで自在にこなすことの出来るジェニファーの手によって、ハーフであるため日本人に近い顔立ちのリーザの顔を女性のものにして夜神せんの母親になりすますというものだ。
 リーザその美貌は、異性は勿論同性すらもすれ違えば思わず振り返ってしまうほど。せんは、リーザと出会った頃すでに目が見えていなかったためその美貌を実際に拝んだことはないが、鮮やかな桔梗の髪とスラリとした体躯は、例え目が見えなくとも長年一緒に暮らしていれば嫌というほどに思い知らされていた。
 その美貌の甲斐あって、ジェニファーの手にかかればどんな顔でも簡単に他人の顔に仕上げることが出来る。

(ジェニファーさんだって日系イタリア人なんだから、わざわざリーザにやらせなくてもいいのになあ)

 それはジェニファーの、美男美女好きの趣味のせいである。自分の手で元々美形のリーザの顔が更に美しくなるのが楽しくて仕方がないのだろう。
 リーザ=ライシェルという男は元々、イタリアのとある街に住んでいたただの青年だった。しかし両親がマフィアの抗争に巻き込まれて殺され、それ以来マフィアを憎むようになった。戦いの実力も兼ね備え、フリーの殺し屋として生きていくことも出来た彼がここにいるのは、ただひとつ、せんへの恩返しが目的であった。
 まだイタリアにいた頃、せんが持つ仙月の能力によって彼の命は助けられた。自らの命も運命もこれからの人生も全てを捧げると決めたリーザは、身寄りのない彼女とともに生きることを決めたのだ。
 一方のジェニファーは離婚して家を出ていった両親に棄てられたために、ずっと幼馴染であるリーザの家で暮らしてきた。幼い頃から大人びていて同い年ながらもリーザの姉のような存在だった彼女は、両親を殺され闇の中に堕ちてしまった彼をずっと支えてきた。故に、彼を苦しめているマフィアという存在が嫌いになったのだろう。

「リーザが言うことなんて真に受けなくていいのよ」
「うん、分かってる」
「部活でも勉強でも、勿論恋でも、仕事を完遂してくれるならあとは何でも好きにしていいんだからね!」
「おいジェニファー、せんが恋だあ?無理だろ、そりゃ」
「それはわたしが人の顔を認識出来ないことに対する皮肉と捉えていいかな」
「…………………悪い」

 気まずそうな表情をしながら咄嗟に口を噤むリーザに、せんは苦笑いを浮かべた。幼い頃から殺し屋として生きてきたために恋愛などする暇もなければそんな感情を教えてくれる人すらいなかったのだ。感情を知らない上に、人の顔を見ることが出来ない彼女は、恋愛とは人間の持つ醜く無駄なものだとすら考えていた。

「万が一自分に恋愛感情というものがあったとしても、相手の顔が見えないわたしがどうやって恋愛しろって言うのさ」
「あら、それは分かんないわよ?優しさとか、性格に惚れちゃうパターンもあるんだからねっ」
「性格が良くても容姿が醜い人の隣を歩くほどわたしは軽い女じゃないしそんなのプライドが許さないよ」
「うわあ、せんったら辛辣ねえ」

 恋の話になると底無し沼のように終わりが見えなくなるのがジェニファーである。せんが静かにため息をつきリーザの方へと身体を向けると、彼はいつの間にか母親に成りすますためにいつも使っているウィッグを被っているようだった。女装をしたリーザは何やら変なスイッチが入るのか、いつも以上にテンションが面倒臭くなるため気を付けなければいけない。この家の鉄則だ。

「くれぐれも言っとくけど、顔変えたからって絶対学校には来ないでよね」
「いいじゃないのよ!参観日とかあるし!」
「女の口調やめろ鳥肌が立つ。絶対来るな」
「もう、せんったら酷いこと言わないでよ!」
「………本気で気味が悪いからやめろ」
「………何なんだよ、このジェニファーと俺への態度の違い」

 リーザの呟きを一瞥しながら、せんは広いエントランスに座ってローファーに足を入れる。まだ黒く、艶のあるその靴は少女の足にぴったりと収まった。

「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃーい!リーザはとりあえず任せといて!」
「うん、よろしく」

 いじけているリーザを余所に、ジェニファーに見送られてせんは家を出た。中から怒鳴るジェニファーと嘆くリーザの声が聞こえてくるが、気にしないスタンスだ。ただでさえ派手な色の髪や抜群のプロポーションは人目を惹くのだから、少しはおしとやかにしてもらいたいものである。

〈せん、学校楽しみだな!前から興味あったんだよなあ〉
「正直わたしも楽しみだよ。今まで学校なんて行く機会なかったからね」
〈おお、珍しく今日は素直じゃねーか。やっぱそういうのに惹かれるとこ、せんも女の子っつーことだ〉
「サルビアそういうこと言うと捻り潰すよ」
〈それは勘弁だ。可愛いっつってんだよ、俺の言いたいこと汲み取れ〉
「そんなこと言っても、何もあげないからね」

 瞳の中にはめられたコンタクトレンズから聞こえてくる声に、言う。
 サルビアは今、コンタクトレンズになって瞳の中にいる。形状記憶動物であるサルビアの持つ特殊能力の1つで、コンタクトだけではなく武器などにも姿を変化出来る。視力のないせんの代わりに、同じ目線の高さで物を見ることの出来るサルビアのこの能力は、これまでに何度も彼女の役に立ってきた。

「心底、お前の能力には感謝してもしきれないくらいだな」
〈……突然何だよ?〉
「あくまでも、学校に行くのは潜伏と調査の為だからね。盲目だってこと知られて目立つの嫌だし」

 目が見えないとは思えないほど軽やかな足取りで、バッグを振り回しながら角を曲がる。目を失ったにも関わらずこうして普段と変わらぬ生活を送れるのは、空気と風と音のおかげ。せんは人物や物体を取り巻く風の流れ、空気の流れや温度変化、音の反射を瞬時に理解し行動しているというわけだ。
 また、目が見えないからか、視力以外の四つの感覚器官は常人より何倍も優れており、聴覚や嗅覚、触覚はかなり敏感なのである。

「雨の匂いがする。もうすぐ7月だね」
〈日本には梅雨っていって、雨が毎日みたいに降る時期があるらしいぜ〉
「つゆ?最近の雨はそれが原因だったってことか」
〈そーいうことになるな。お、学校見えてきたぜ〉
「あれが並盛中学校か」

 正面に見えてきた、やや古びた建物。この日本に潜伏して生きていくためにこれから通う、並盛中学校である。名前が微妙であるというのは心の中で留めておくことにする。

「はあ、なんか頭痛い……」
〈昨日も遅くまで勉強し過ぎたからじゃねーか?普通6年かかる勉強を3ヶ月でやり遂げたんだからよ〉
「記憶は殺し屋の必需品だしね。サルビアそろそろ会話切り替えて」

 学校へ行ったことがなかったために、実質日本の小学生が6年かけて勉強した内容を全て習得しなければならなかったせん。言わずもがな天才脳のジェニファー、情報屋らしくその脳に莫大な知識を詰め込んでいるリーザ、何故か勉強が出来る上に一番説明が分かりやすいサルビアに教わりつつ、ここ3ヶ月の間、仕事以外の時間帯にはとにかく勉強をして知識を叩き込んでいたのだった。

『なんか人いっぱいいる。とりあえずあの人ごみの中に紛れとこうか』
《だなー》

 せんはサルビアに、サルビアはせんに、お互いにしか聞こえない声で語りかける。
 お互いの脳を通して行う特殊な会話方法。これはサルビアが動物であること、せんの理解能力が視力を失ったことで高くなっていることから起こるテレパシーのようなもので、イルカやコウモリが仲間とコミュニケーションを取るための手段として使っている方法と似ている。使いこなせればなかなか便利な会話方法だ。

『ね、なんかいい匂いしない?』
《ん……?》

 人ごみに紛れて校門を通過すると、湿った梅雨時期特有の空気に混じり、優しくて甘い香りが漂っていることに気付いた。しかしもうすぐ7月に入るこの季節にそれが存在するわけがない。しかしサルビアが見たものは、せんが匂いで感じ取ったものは、間違いなく、満開の花をつけた大きな桜の木。
 季節外れの、狂い咲きの桜だった。

『……Oddio(驚いた)!こんな季節に桜が咲いているなんて』

 思わずせんの口から使い慣れた母国語がこぼれ落ちるほど、決して瞳に映ることのないそれは驚きに溢れた存在であった。
 狂い咲きの桜は、せんに幼い日々の記憶を想起させた。生まれたばかりの頃に、初めて人を殺した日に、吹雪の中で咲き誇っていた桜を。そして、日本にやって来た目的を。とある人物……生きているのかさえ分からない、未那月という名の姉と朧と言う名の兄の手掛かりを求めてやってきたことを。
 せんは首にかかっているものを、きょうだいとの絆を示す桜を象ったネックレスをしっかりと握りしめる。

『……見えないけど、分かるよ。綺麗だね』
《……ああ、そうだな》
『少し早く着きすぎたかな。しばらくここにいても大丈夫だよね』
《そうだな。季節外れの花見でもしよーぜ》

 枝を風で揺らし花びらを舞い上がらせる木の下で、まだほとんど何も入っていないバッグをクッション代わりにして座り込む。そして木に耳を押し当てて、ゆっくりと瞼を閉じ耳を澄ませる。日本にやってきたばかりの頃、任務先で見た桜の下でサルビアが言っていたことを思い出し、せんの口元が緩んだ。

〈知ってるかせん。木も、オレたちと同じで生きてるんだぜ〉
「……木が、生きてる?」
〈ああ。木にこうして耳を当ててみると、水の音とか、大地の響きとかが聞こえてくるんだ〉


 視力のないせんにとって、聴覚は一番といっていいほど必要不可欠なもの。この世界には多彩な音が溢れんばかりに存在し、その音の全てが、世界というものがどう鼓動しているのか、どうやって生きているのかを彼女に教えるのだ。
 清らかな水の音。こぽり、と地面の奥深くから沸き上がってくる水の息吹は、立派な桜の木を躍動させていた。

『どうやら、随分と昔からこの場所にある木のようだね。ずっとこの学校を見守ってきたのかな』

 日常的に不機嫌な時間の方が長いせんの機嫌が珍しくいいことに気付いたサルビアは、コンタクトレンズからさっと鴉の姿に戻ると、翼を大きくはためかせて木の上方へ飛び上がった。コンタクトレンズはもう1枚余分に重ねているため、日本人には珍しい瑠璃色の瞳が見られることはない。大きく息を吸って瞳を閉じると、せんは木に背を預けた。
 少しだけ、まだ目が見えていたときのことを思い出す。あの頃は姉や兄と3人でよく外で遊んで、桜を見てははしゃいでいた。幸せだった頃の記憶が、優しい匂いに混じって蘇る。

「こんなにのどかなのに、誰も桜の木に目をつけないなんて可哀想だなあ」
「何が可哀想なの?」
「………へ?」

 記憶に思考を巡らせながらぽつりと呟いた言葉に返答など当然求めていなかったのだが、それに反して頭の上から降ってきた声。驚いてその声の主を見上げたところで、せんはそれまで頭の中に流していた記憶の映像を思わず止めてしまうほどの衝撃を受けた。

 そこに立っていたのは、少年だった。顔こそ見えないが、自分を見下ろすその人物の纏う空気が、目が合った瞬間ぐわりと揺れたのが分かった。
 思わず驚いてしまったのは、その少年に既視感を感じたからだ。何故か覚えのある、空気を切り裂くような鋭い殺気と、一握の寂しさと、哀しみを感じたからだ。

(誰かに、似てる……?)
「何してるの?もうじき授業始まるよ」
「ああ、この学校来るの今日が初めてで。クラスとかも分からないから」
「……今日来る予定の転校生か。こんな時期に珍しいね」
「……そういうもんなの?」
「そういうもんだよ」

 イタリアでの長い生活のためかどうにも敬語という言葉を使うことが出来ず、いつものように砕けた口調で話しかけてしまうが、どうやら相手はそのようなことは気にも留めていない様子である。気付けば、出会い頭に感じたあの殺気や、寂しさや哀しさは息を潜めていた。

「……で、今木に耳なんか当てて何してたの」
「木の音を聞いてただけ、だけど」
「……木の音?」
「うん、そう。なんか……世の中のしがらみを洗い流してくれるというか、安心するんだ」
「世の中のしがらみって……年のわりに随分達観したこと言うね」

 そう言いつつも、少年はなにか布のようなものをせんの横に置くと、その上に腰をおろした。地面の上に敷くものが制服だと気付く前に、彼はゆっくりと木に耳を当て、目を閉じる。
 沈黙が続いた。しかし何故かせんは、その沈黙が嫌なものだとは決して思わなかった。

「……ああ、確かに音が聞こえる」
「そうでしょ?こんな季節に咲くなんて、なかなか忍耐強い桜なんだね」
「随分昔からここにある木らしい。長生きし過ぎて、だんだん咲く時期の感覚が鈍ってきてるんじゃないかな」
「だからこんな初夏に咲いているんだ」

 少年は制服のスラックスやワイシャツの袖についた土を手でさっと払うと、立ち上がって大きな桜の木を見上げる。その際、彼が木を見上げて笑ったような気がした。
 色が分からなくたって、花弁が見えなくたって、匂いが、優しさが、全てが安らぎを与えてくれる。彼が笑ったのも、目には見えないものを感じ取っているからなのだろうか。

「……こうやって、桜をゆっくり眺めるなんて久しぶりだ。朝も放課後も、忙しなくて誰も桜なんかに目を留めないんだ」
「…………」
「……鴉か。桜の色に映えるね」

 桜の木の上に止まるサルビアに気付いたのか、少年はしばらくの間じっと見つめていた。サルビアは仕事の度にせんの殺したマフィアの血液を体内に取り込んでいるため、普通の鴉に比べて身体のサイズはかなり小さいかわりに黒色が深い。まるで闇のように深い深いその色は、淡い桜の色に包まれて光って見えた。

「ああそうだ、転校生ならそろそろ職員室に行った方が……」

 木から耳を離して不自然さの無いよう声の聞こえてくる方を見上げ、目線が交差した瞬間、彼の言葉が止まった。突然ぐっと近付いた顔に思わずぎゅっと目を閉じると、目閉じないで、と声が降ってきたので恐る恐る目を開けば、何故か彼はしばらくじっとせんの顔を見つめた後、驚いた様子で立ち尽くしていた。
 人の顔を見て驚くなんて失礼だな。そう文句を言ってやろうと立ち上がったとき、彼がすっと、腕を掴む。

「……もしかして僕のこと、見えてない?」
「……え?」
「両目の焦点が時々ずれるし、目が合ってるのに『見られている』感じがしない」

 彼の言葉に、思わず驚いて目を見開く。そして、納得する。真っ直ぐとこちらを見つめてくる彼の目には、まるで全てを見透かすかのような洗練さがあった。

「………へえ、君の観察眼ってすごいんだね」
「………って、本当に視力ないの?コンタクト入れてるみたいだし、半信半疑だったんだけど」

 せんの両目は、通常の視力を失った人間とは違い、目としての機能は失っていない。特殊な手術で光を失っただけであるため、見ただけでは視力の有無など判別は不可能に近いはずだった。実際、初めてリーザやジェニファーに会ったときも、しばらく気付かれなかったくらいだ。
 見つめる、ただそれだけの動作で盲目であることを見抜いたのは勿論、彼が初めてだ。

「……はあ、まさか1日目で気付かれるとはね。あまり人に言いふらさないでもらえるとありがたいんだけどな」
「何で?」
「いや、何でって言われても……」

 殺し屋という正体を隠すため学生に扮しこの学校に通う以上、あくまでも普通の生徒として紛れ込むのが一番最善と言える。中学校とはいえ、ここにマフィア関係者がいないとは断定できないからだ。もし正体を見破られたら、それこそ餌食にでもされて、マフィアに関わらなければならなくなるのが目に見えている。
 しかしそんなせんの不安は、次の彼の言葉で杞憂に終わった。

「何か理由があってこの学校に来たみたいだね。何かから逃亡でもしてるの?」
「……………」
「まあ、別に黙っててあげてもいいよ。言ったところで何か僕に利益があるわけでもないし」

 彼は言う。悶々と考えを巡らせていたのが馬鹿みたいだ。出会った瞬間に感じたあの殺気から彼が只者ではないことがうかがえるが、マフィアかもしれないというのは考えすぎだっただろうか。途端に黙り混んだせんに対し、少年はひどく可笑しそうに口元を歪めクスリと笑った。

「ああ、そうだ。1つ忠告」
「……今度は何?」
「この学校の風紀委員長には、挨拶しておいたほうがいいよ」
「風紀、委員長……?」

 彼はそう言ってひらりと手を振ると、制服を残したまま立ち去ってしまった。忘れ物に、否わざと置いていったのかもしれないが、気付いたときにはもう遅く、彼の姿はどこにも見当たらない。

(……不思議な、人だったな)

 彼の気配が完全に消え思考力が正常に戻ったところで改めて思う。目が見えないことを見破る観察力の持ち主。果たして彼は一体、何者なのか。

「……サルビア、これどうしようか」
〈ま、後で返しに行きゃいいんじゃねぇか?それより、今の兄ちゃん……〉

 木の上から戻ってきたサルビアが言わんとしていることは分かる。潜伏しにやってきて早々遭遇した正体の怪しい少年は、果たして『ただの人間』なのだろうか。
 そんなことより、せんには気掛かりなことが一点あった。彼の纏う雰囲気が、自分の知っている誰かに似ていたような気がしてならないのだ。しかしいくら記憶を掘り起こしても、それが誰なのか判明しなかった。そのうちきっと思い出すだろう、せんは少年の残した制服を手に取り立ち上がる。

「……まあでも、悪い人ではない……のかな。ただ警戒するに越したことはないと思うけど」
〈だな〉
「はあ……あ、チャイム鳴ってる。行こっか」

 コンタクトの形に戻ったサルビアを目の中に戻すと、制服をシワにならないよう丁寧に畳み、薄っぺらいバッグに仕舞う。あれだけ印象的な人物だ、きっとそのうち必ず会うときが来るだろう。
 校舎に足を踏み入れると、コンクリート特有のひんやりとした空気が身体を纏う。サルビアが目の中で辺りをキョロキョロと見渡すが、人の気配はない。それも当然。今は朝のホームルームというものが始まってる時間だ。

『……リーザの奴、学校についた後何すればいいのかくらい教えてよね』
《ほんと、とんだ手間がかかるもんだな。手続きしただけかよ》
『しょうがない……誰か、人探すか』

 リーザのことを喋るとき口調が厳しくなるのはずっと昔から変わらない。何処に行けばいいのか分からずしばらくその場に立ち竦んでいると、激しく音を立てて目の前の扉が開き、その部屋から誰かが出てくるのが分かる。その人物に尋ねてみようかと歩みを進めた所で、せんは人ひとりを殺してしまいそうな鋭い殺気に全身が包まれたことに気付く。イタリアで何度となく感じてきた、鋭い殺気だ。

「……んだよテメエ」
「…………」
「チッ、黙り込んでんじゃねーよ。誰だ?」
「……わたし、今日転入予定の者なんだけど。職員室ってどこにあるか分かる?」
「……職員室ならこの廊下を真っ直ぐ行った突き当たりの部屋だ」
「ご丁寧にどうも」
「……ケッ」

 威嚇とも言える鋭い殺気を放ちながら、彼は立ち去る。先程と同様気配が消えたところで頭の中に、即座にとある人物の名前が浮かび上がる。
 スモーキン・ボムの異名を持つダイナマイト使いの少年、獄寺隼人。彼も最近まではイタリアにいたため、その噂はかねがね聞いていたところだ。実際に会ったことはないが、何度か仕事中に街中などですれ違ったことならあった。そんな危険なマフィアが何故こんな日本の平凡な学校にいるのだろうか。

『早速マフィアに遭遇って……ジャッポーネって治安いい国じゃなかったの?』
《もしかしたらお前が引き寄せてんのかもな》
『やめてよ縁起でもない。クラスにならなきゃいいんだけどなあ……リーザに一応教えとくか』
《とにかく、教えてもらったんだから行こうぜ》

 その後、案内通りに廊下を進み辿り着いた職員室で校長やら教師やらに長々と説明を受けている間、せんはたった数分の間に起こった出来事に思考を傾けつつも、これからの学校生活に思いを馳せていた。自分には縁がなかった学校というものに通えるのだと思うと、少し嬉しい気持ちになるのは仕方がないことだった。
 担任であるという教師に案内されながら、自分のクラスだという教室に辿り着く。僅かに開いたドアの隙間から漏れるざわめき声が外にまで響いていた。

『さあて、危うく本性が出ないように気を付けないとね』
《必要なサポートは任せろよ》
『信頼してるよ、相棒』

 心強いサルビアの言葉に返答して教室の扉を開けば、全員の視線が一気にこちらを向いた。ホームルームの間、せんはクラス中を見渡す振りをしながら意識を分散させる。新しい場所に身を置くとき、つい殺し屋の勘を働かせてしまうのは癖だ。

『……うわ、さっきのスモーキン・ボム、よりにもよって同じクラス』
《……あーあ、災難だなせん》

 先程出会ったマフィアの少年を見つける。他にマフィアらしき雰囲気を纏った人物はいないようだが、果たしてこのクラスにいても大丈夫なものだろうかと心配になる。しばらく黙りこくって考えていたせいか、目の中のサルビアに考えすぎだと怒られてしまった。
 ホームルームの途中、教師がせんの名前を黒板に書いた。そこに書かれた名前に違和感を感じてしまうのも無理はない。

「彼女は夜鳴零さん。アメリカからの帰国子女だ」

 教師のその言葉を聞いたクラスの面々がざわつき始めた。何故、日本人は帰国子女と聞いただけでここまで騒ぎ立てるのだろうか。外国語をすらすらと喋れることが羨ましいからだろうか。帰国子女の中には、母国語しか話せない人だってごまんといるのだ。

「じゃあ夜鳴、自己紹介を頼めるか?」
「アメリカから来た夜鳴零です。ずっと向こうにいて敬語にあまり慣れてないから、嫌な思いをさせることがあるかもしれないけど、よろしくお願いします」
「そういうことだ。まだ日本に慣れていないようだからお前ら気遣ってやれよ!夜鳴の席は一番後ろの空いてる席だ」
「はい」

 返事をして、肩の力を少し抜く。慣れない敬語を使うのはすこしむず痒い。
 『夜神』という姓は裏社会では有名すぎるほど有名な名前であり、変に詮索をされて正体に感づかれては困るからと、リーザが考えた仮初めの名前が『夜鳴零』という名前である。イタリアという国名も隠して適当な国の名前を口にする。英語は万国共通語で、書くのも喋るのもイタリア語並みに手慣れたものなので特に問題はないだろう。席についてバッグを机の横にかけ、せんはようやく一息ついた。
 やがてチャイムが鳴り、ホームルームが終わる。ぼんやりと教師の声を聞きながら窓の外に顔を向けていると、授業前のわずかな時間を使って『季節外れの転校生』とコンタクトをとるべく、クラスの面々が一気に周辺に押し寄せてくるのが分かった。

『あー、ジェニファーさんが言ってた転校生=質問攻めの方程式忘れてた』
《まあ頑張れよ。授業以外はオレも手助けしてやれないし》
『それはそうなんだけど……』

 男子も女子も、どのくらいアメリカにいたのか、恋人はいるのか、部活は何に入るのかなど様々な質問を見境なく投げかけてくるので、流すようにしてそれを聞いていたらしいサルビアはすっかりうんざりしてしまったのか、大きなため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだというのをこの馬鹿ガラスは分かっているのだろうか。

『……なんかもう、殺人衝動芽生えるんだけど』
《こらせん、頑張って抑えろ。んで拳を握りしめるな。お前だと本当に殴りかかりそうで怖えよ》
『……分かってるよ』

 うわべだけの付き合いになるだろう彼らに対してそこまで情を持つような面倒なことはしないと決めていたせんだったが、初対面のクラスの面々が一斉に1つの机の周辺に集まればさすがに恐ろしい気迫である。
 見境のない質問攻めにさてどうしたものかと困っていると、人波を掻き分けて2人の生徒が目前に現れたのが分かった。クラスメイトとの前に立ちはだかったその2人が、さしずめ救世主のように思えたのは一瞬の気の迷いであろう。

「ちょっとみんな、いきなりこれじゃ夜鳴さん怖がっちゃうよ!」
「そうよ、仮にも転校生なんだから、質問攻めはやめなさい」
(……あー、なんか助かった)

 その呼び掛けで、机の周りに集まっていた者たちは残念そうな声を出しながらもバラバラと自分の席へと戻っていく。
 彼女らの名前は笹川京子、そして黒川花というらしい。この、性格が違いすぎる2人がよく一緒にいるものだと若干失礼なことを思ってしまったが、敢えてそこは突っ込まないことにする。

『そういえばサルビア、朝会ったあの人、誰かに会った方がいいって言ってたよね?』
《確かフウキイインチョウ、だったか》
『それそれ。その人に会えばこの服返せると思う?』
《さーな。ま、挨拶しろってくらいなら偉い人なんだろうし、そうなんじゃねーか?》
『うーん……放課後にでも行ってみるか』

 1限目の授業が始まってからも、専ら考えるのは先程会ったばかりの少年と、彼が口にしていた『風紀委員長』たる人物のこと。どんな人物なのだろう。得体の知れない高揚感が、せんの中に沸き上がってくるのが分かった。

 △▽△

「あっ、夜鳴さんもう帰っちゃうの?」

 放課後。生まれて初めて体験した授業というものを何科目か終えて席を立つと、笹川がやってきてそう言った。この笹川京子という人間は聞いたところ学校のマドンナ的存在らしく、それに納得するだけの性格をしているとせんは感じていた。まだ一言二言会話をしただけであり、顔を見ることも叶わないが、それでもいい印象を持っていたところだ。
 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という日本の言葉はまさに、彼女のような人間にあるのだろうとしみじみ思った。黒川花も、性格にきついところがあるが中学生とは思えないほど落ち着いていて、芯が通った人物だった。

「あの、夜鳴さん」
「ん、何?」
「もし良かったら、今から学校の案内しようか?転校したばっかりで分かんないと思うし」
「それはいいわね。夜鳴さんさえ良ければ、私もついて行くわ」

 笹川に続いて黒川も言う。今日は仕事もなく暇潰しにちょうど学校内を探索してみようと思っていたところだったため、素直にその厚意に甘えることにした。机の横にかけてあったバッグを肩にかけ、そこでふと思い出す。

(……そういえば、あの人が言っていた風紀委員長ってどこにいるんだろう)

 しかしすぐに、校舎内を歩き回ればそのうち分かるだろうという結論に至り、せんは笹川と黒川に導かれて放課後の教室を後にした。

(学校って、こんなもんなの?)
(さーなぁ?ま、とりあえず楽しめばいーんじゃねぇか、学校行くの初めてなんだしよ)
(……うん、そうだね)





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