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〈せん、大丈夫か?魘されてたぜ〉
「……大丈夫。サルビアと会った頃の夢を見てただけ」

 コンタクト(に変身したサルビア)を外して冷たい水で顔を洗い、ヘアピンを止め直す。ずっと眠っていたと思っていたが、コンタクトから一瞬鴉の姿に戻ったサルビアは、どうやらせんが寝ていた間もずっと起きていたようだった。

〈オレとお前が会った頃か。懐かしいな〉
「そうだね。リーザがディーノの従弟だって知ったときは驚いたし、あんなんでも口は固いし仕事には忠実だからありがたいよ」

 昔のことを、とりわけ苦しかったときのことを思い出してもわけないと、いい記憶を引っ張り出しながら軽くサルビアと軽口を交わしたせんは、ワイシャツの袖で軽く顔を拭いてサルビアを目の中に戻し、部屋へ戻る。扉を開くと、頭の上から顔面に向けて何かが降ってきて、慌てて受け止めた。

「書類濡れるから、それで顔拭いて」
「感謝はするけどタオルは投げるものじゃないから。起きてたなら言ってよね」

 投げられたタオルで顔を拭くと、彼がため息をつくのがわかった。せんもため息は無意識のうちにつくことがあるが、雲雀も気苦労が絶えないのかしょっちゅう息を吐き出しているのを聞く。
 雲雀はちらりとこちらに視線を向けたけれど、すぐにペンを手に取り書類整理を再開する。

「……なんで今ため息ついた?」
「別に、君には関係ない。ため息なんて誰だってつくものでしょ」
「……まあ、それもそうか」

 はあ、と彼に続いてため息をつくと、机の上の書類に向き直る。
 せんは、文字を読むことが出来ない。自由に歩き回ることは出来ても、目の前の物がなんなのか判別できても、日本語は目が見えていた頃あまり使わなかったため習得することが出来なかった。書き慣れているという面で幼い頃からの母国語であるイタリア語や英語を書くことは出来るが、当然自分で書いた字を読むことは出来ない。授業中も、文字を読む必要のあるときはサルビアに読んでもらっている状況だ。
 風紀委員の仕事においても、字を書く仕事は当然出来ない。そんなせんが雲雀から任されたのは、書類をホッチキスでとめる作業である。よし、と意気込み仕事を再開する。静かな部屋にはカチリ、というホッチキスの音と、雲雀が机に向かって文字を書く音と、お互いの呼吸音が響いていた。

「委員長、おっしゃっていた者たちの処罰が終了しました」
「……そう、悪いね」
「えーと、草壁。今日もお疲れ様」
「はい。こんにちは、夜鳴さん」

 しばらく仕事を進めていると扉が静かに開き、副委員長の草壁がやってきた。彼は、どうしてこんな横暴な人の下についているんだろうと思ってしまう程勤勉で優しく、真面目な人物である。常識も備えているし、雲雀が一番信頼している部下だといっても過言ではないが、第一として雲雀の脳内辞書に信頼なんていう文字があるのかは分からないので黙っておくことにする。

「夜鳴さんこそ、今日もお疲れ様です」
「……どうも」
「草壁、コーヒー淹れて」
「分かりました。夜鳴さんも、何かお飲みになりますか?」
「あ、えーと……じゃあいつものレモンティーで」
「はい。少しお待ちください」

 一応出来るだけ敬意を表して丁寧に返事をすると、彼は職員室に繋がっている給湯室へ入っていった。やがてコーヒーの酸味のきいた香りと紅茶の香りが部屋の中に漂ってくる。

「入りましたよ。どうぞ」
「ありがとう」

 カチャリ、と手の中にカップが渡される。どうやら今日はアイスティーのようだ。カップの中から香るレモンのフレーバーがなんとも心地よくて、思わずいい意味でのため息をつく。
 草壁に初めて紅茶を淹れてもらったのは、笹川と黒川に校内案内をしてもらって、雲雀が風紀委員長だと知ったあの時だ。あの時飲んだ紅茶の味が自分好みだったので、仕事のときはたまにこうして淹れてもらっている。

 風紀委員に入ってしばらくしてから、せんは仕事を手伝ってくれている草壁に自分が盲目であることを話したのだが、彼は一切動揺を見せなかった。夜鳴さんはすごい方ですね、とだけ言って、必要以上に驚くことはなかったのだ。その話をしてからというもの、彼はいつも紅茶を淹れた後直接手の上にカップを渡してくれる。その小さな優しさはせんにとってはありがたいことだった。

(こういうの……鉄の心臓って言うのかな)

 雲雀にしろ草壁にしろ、普通盲目の人間が自由に動き回っていたら奇妙に思うはずなのだが、2人はそんな素振りを全く見せない。カップに口をつけると、甘酸っぱいレモンの香りが一杯に広がるのを感じることが出来た。

「そういえば雲雀、コーヒーってどんな味がするの?苦いものだって聞いたんだけど」
「飲んだことないの?別に、慣れればそうでもないよ。目も覚めるし」
「目が覚める?あ、じゃあ草壁、今度仕事が無いときに来るから淹れて」
「ええ、構いませんよ」

 何気ない会話を交わしながら冷たくて美味しい紅茶をごくごくと喉に流し込んでいると、カチャリ、と雲雀がカップを置く音が聞こえてきた。そして続いて、何かを羽織る音。十中八九雲雀だろうが、この時間だと見回りだろう。

「見回り行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃーい」

 学ランの裾を翻し、部屋を出て行く雲雀。それをひらひらと手を振り見送りつつ中身の無くなったカップを机に置くと、ホッチキスの作業を再開する。

「ずっと思っていたのですが、夜鳴さんはすごいですね。あの委員長に出会ったときからタメ口とは」
「外国生活が長かったせいで、敬語の使い方を知らないんだよ。母国語とはいえ日本語って難しいよね」
「それをこれほど流暢に話せるのは凄いことですよ。それにしても、夜鳴さんも大変ですね」
「そりゃもうこき使われて……あ、余所余所しく夜鳴さんなんて言わなくてもいいよ。雲雀だって呼び捨てしてるし」
「いえ、貴方のお陰で我々も助かっていますから」

 風紀委員に入る際、雲雀は女1人いれば委員の覇気が上がるから、なんてことを宣っていたのだが、本当だったようだ。それは単に、せんが書類仕事の手伝いをてきぱきこなすことで、効率が上がって他の委員も気兼ねなく校内の見回りや風紀を乱す者の対処に行くことが出来るという意味で。

「貴方も、大変な方に目をつけられてしまいましたね」
「……そうかな」
「貴方は強いのだと、委員長からお聞きしました。男であろうが女であろうが委員長は強い者と戦いたがりますから」
「……違うよ。わたしは、強くない」

 え?と、きっと不思議そうな顔をしているのだろうな、草壁は。とそんなことを考えながら、2杯目を入れてくれたカップを手に取りまたその縁に口をつける。

「もしわたしが雲雀と同じように、今まで何人もの不良を倒してきたくらい戦いとか喧嘩が好きだと仮定するけど」
「………と、言いますと?」

 草壁はさっきまで雲雀のいた場所に座ると、自分で淹れてきたのだろう、自らもコーヒーを口にする。コーヒーの香りと紅茶の香りが混じって、少し不思議な感覚がする。
 紅茶を飲みながら、思い返す。何故、せんが雲雀恭弥という人物に興味を持たれたのかということを。転校初日に盲目であることを見破られたこと、見切っている攻撃にわざと当たるフリをしたと気付かれたこと、それが大方の原因である。つまりそれはせんがボロを出したとか甘かったとか、そういうわけではなく彼の観察眼が驚異的に優れているということだ。
 それでも、彼がこの先どれだけせんとの戦いを望んだとしても、あくまでも一般人である彼と戦うことは出来ないし、第一戦う理由などどこにもなかった。

「まあ、わたしが喧嘩の強いヤンキー女子中学生だったとしても、何となく雲雀とだけは戦いたくないな」
「……どういうことでしょう」
「理由は言えない。けど彼とは戦いたくないし、今後一切戦うつもりもない。何か聞かれたらそう答えておいてくれればいいよ」

 カップの底に残った紅茶の最後の一滴を飲み込むと、ソファから立ち上がる。今日は裏の仕事はないが、ずっと座っていたせいか肩や腕に疲れがたまっているのが分かる。早く帰って風呂に入りたいところだ。気付けばせんの目の前の机には、ホッチキスでまとめ終わった資料が山のように積んである。かなりこれは頑張ったほうではないだろうか。

「じゃ、この資料を職員室に届けたら帰るよ」
「え、あ、夜鳴さん!」

 資料の束を腕に抱えたせんを、草壁が咄嗟に呼び止める。思わずその声に、扉の前で立ち止まって首を傾げると、草壁は何故か申し訳なさそうに声を発する。

「どうして、そんなことを仰るのですか?強いことは、決して悪いことではないと思いますが」
「………」
「これ以上強くなりたくない。そういう意味なのですか?」

 簡単なように見えて、それは難しい質問だった。一瞬、なにもない空を見つめてうーんと考えるような仕草をしてみるけど、答えはひとつしか思い浮かんでこなかった。

「まあ、目が見えないのに歩き回ってる時点で、わたしは一般的に強いの部類に入るんだろうね。それは自負しているし、強くはなくても自分が『弱い』だなんて思ったことはないよ」
「……?」
「だけどわたしが持つ強さっていうのは、生きる為に必要だったから自然とついただけの話。そうしなければ、目の見えないわたしはここまで生きて来れなかったから」
「……夜鳴さん、貴方はもっと、貪欲になってもいいのだと思います」
「そうかな。この学校には、強い人なんてそんなに必要ないでしょう。雲雀1人いれば、もう充分すぎると思うけど」

 この学校は、事実彼がいることで充分均衡を保っている。それを今更、高みを目指す必要だってないし、部外者がわざわざ梃入れするようなものでもない。草壁の問いに対して苦笑しか出来なくなったせんは、書類を抱えると静かに生徒会室の扉を閉めた。

 △▽△

「さて、仕事も終わったことだし帰るとするか」
〈今日は依頼来てんのか?〉
「いや、今日は連絡来てない」

 職員室に資料を置いた帰り、欠伸をかみ殺しながら昇降口へ向かう。いつものように下駄箱に手を突っ込んで靴を取ろうとしたところで、ふと異変に気付く。
 カサリ、という普段なら下駄箱からは聞こえないはずの音。靴の上になにやら紙のようなものが入ってるらしい。

「……なんだこれ。形からして封筒?」
〈……せんよー、これって世間体でいうラブレターってやつじゃねーか?〉
「………らぶれたー?」

 サルビアがせんの手の中のものを覗き込みながら言う。らぶれたーなるものが何のための物なのかせんにはまるで検討もつかないが、それが封筒だということは分かるので、手探りでテープをはがして中身を取り出す。

「サルビア、読んで」
〈えーっと……貴方に話したいことがあります。この手紙を見たら中庭に来てください、だってよ?ラブレターっつーか、お呼び出しだな〉

 ラブレター。恋愛の話が大好きなジェニファーがよく話していた話題の中に、そんな単語が出てきたような気がする。
 確か彼女は言っていた。ラブレターとか恋文というのは、好いている人に自分の想いを告げるために書くものなのだと。だけど、恋愛感情なんてものがどんなものなのかよく分からないせんには、そんなものの必要性や意味が理解できなかった。

「こんなことしたって無駄なだけなのにな。ねえサルビア、これ行ったほうがいいと思う?」
〈まあそりゃな。向こうはたぶん待ってるんだし?〉
「……じゃあ、一応行く」

 紙をもう一度封筒に仕舞ってバッグに突っ込むと、取り出そうとしていたローファーをもう一度下駄箱に押し込む。扉の間をすり抜けて昇降口に入ってきた風に背中を押されるようにして廊下を戻り、何度か曲がると、そこが中庭である。
 中庭を訪れるのは、笹川と黒川に校内を案内されたときと、初めて雲雀の戦いを目前にしたとき以来で、これで3回目。最近よく雨が降るせいでコンクリートの地面は少し湿っていて雨のにおいがする。

「夜鳴さん、来てくれたんだ」
「ん?」

 中庭に人の気配があったことには気づいていたけれど、まさかその人がお呼び出しした本人だとは思わず突然話しかけられて少しびっくりする。振り返れば、立っていたのはせんより少し背が高いくらいの、同じクラスの高城といったか、クラス委員の男子生徒である。

「突然こんな所に呼び出してごめんな。もしかして用事とかあった?」
「……え、いや、ないけど」
「そっか。もしそうだったら悪いことしたなと思ってさ」

 思いがけず親切な人だと分かって驚く。今時相手の事情をちゃんと考えてくれる人なんているのかと思うくらいだ。
 サルビアはさっきから終始無言だ。どうやらこの件に関しては助けてくれるつもりはないらしい。

「……それで、本題に入ってもいいかな」
「ああ、勿論。何?」

 聞き返すと、少し俯き黙り込んでしまった彼。どうしたのかと思いつつ待っていると、急に彼は顔を上げせんの右手首をぐっとつかみ引き寄せた。
 そうすれば、せんの身体は自然に彼に抱きしめられるわけで。咄嗟のことに、思わずその身体を突き放す。

「ちょっと、急に何!」
「……俺、夜鳴さんのこと好きなんだ」
「………は?」
「まだ転校してきたばかりだし、俺のことそんなに知らないと思うけど。ただ、夜鳴さんのことが好きだって、伝えたかった」
「………はあ……」

 返す言葉が見つからなくて、黙り込む。こういうときにどんな言葉を返せばいいのか、せんには考える余地もなかった。知る由もなかったし知る理由もないと今までそう思ってきたのだから。

《………大丈夫か、せん》
『……サルビア、これは何て返せば正解なんだ……?』

 『好き』という言葉を、これまでの人生で一度も言われたことがないと言えばそれは嘘になる。リーザやジェニファー、千都、サルビアなど、近しい者たちが、よく「もー、せん愛してる!」とか、「君のそういうところが大好きだよ」とか、そんなことを言うのでハイハイありがとうと適当にあしらって言葉。返していたが、これは、その好きとは違うものなのだろうか。

「……さん……夜鳴さん?」
「……ああ、ごめん何?」
「混乱、させちゃったかな」
「混乱というか……」

 悲しそうな表情を見せているであろう彼。だけどせんの心の中には、彼に対して申し訳なく思うだとか、そんな感情は微塵も生まれてはいなかった。
 だってあなたはわたしを何も知らない。わたしが、生まれてから今に至るまでどれだけの人間を殺してきたか、そしてどれだけの罪を犯してきたか、どれだけ人々に嫌われ逆に崇拝され敬愛され生きてきたかを知らない。そんなことを彼が知るはずもないしこれから知ることもないのだから、こんなことを言うのは理不尽で酷いことなのかもしれないが、今のせん言えることは、これしかなかった。

「君、高城っていったっけ」
「ああ、そうだけど」
「君はさ、もっと人を見る目を育てたほうがいいよ」
「……え?」
「わたしの外面だけ見ていても駄目。わたしのことを何も知らないのに、そういう言葉を気安く口に出すのはいけない。きっと君には、君のことだけを見て、君をしっかり理解してくれる人が現れるはずだからね」

 わたしは、誰かから愛されるような綺麗な人間じゃないのだ。それは、死神と言われ忌み嫌われてきた自分自身が一番良く分かっているのだ。
 だからごめん、と一言呟くと、彼が自嘲気味に笑ったのが分かった。それが分かっても尚、心が痛むことは微塵もなく、まるでサイボーグだなと思ったそのとき、中庭と校内を行き来するための渡り廊下から、声が飛んできた。

「あっ、夜鳴さーんっ!」
「夜鳴さんも、一緒に校門のところ行こうよ!」
「おお、高城もいるじゃねーか!」
「……えっと、みんなはA組の?」

 シリアス気味なムードをぶち壊すかのように飛んできた声に、再び振り返る。そこに立っていたのは数人のクラスメイトたちで、興奮しているのか顔が若干紅潮しているのが分かった。
 行こう行こうと腕を引っ張るクラスメイトたちだが、突然のこと過ぎて状況のつかめないせんたちは戸惑うことしか出来ない。

「ちょっと待って、どうしてそんなに急いでんの」
「え、さっきからみんな騒いでるのに神谷さん聞いてない?」
「聞いてないって……何のこと?」
「今ね、校門のところにモデルみたいにかっこいい人が来てるの!」
「…………は?」

 一瞬それだけか、と思ってしまうが、高城に対しても数人の男子が、同じように校門のところにめちゃくちゃ美人な人がいると話しかけているところを見ると、どうやらその訪問者は学校中を騒がせるような相当の美男美女らしい。
 しかし次彼女たちが発する言葉によって、せんのこめかみがピクリとひきつったのは言うまでも無い。

「あの浅紫色の髪の毛、地毛なのかなあ?すごい似合ってたよね!」
「背も高くてモデルみたいでかっこいいよねえ」
「あたしあの人見かけたことある!近くにあるイタリア語の教室で講師やってるらしいよ〜」
「………ちょっと待って。今なんて言った?」

 すべてせんにとっては聞き覚えのありすぎる特徴であり、思わず彼女たちに聞き返してしまう。
 彼女たちは確かにはっきりと浅紫色の髪、高身長、そしてイタリア語の教室の講師と言った。聴覚の優れたせんがそれを聞き間違うはずがない。そして高城ら男子のほうから聞こえてきた言葉に、更にその疑惑は確信に変わる。

「いや、ほんとに美人なんだって!めちゃくちゃ細くてさ!」
「なんかスーツ着てんだけどさ、眼鏡が似合う美人っていうか……」
「青みがかった髪も綺麗だったよな。クールビューティー的な?」
「……………」
《……………》

 せんが黙り込むと同時に、目の中のサルビアも一層黙り込む。
 間違いない。青みがかった髪や眼鏡とかスーツなどという特徴を、さっきの男の特徴とセットにしたら当てはまる人物なんて彼らしかいない。

「……ねえ、ちょっとそこまで連れて行ってくれないかな」
「いいけど……あ、夜鳴さんも興味あるんだ?」
「いや……ちょっと嫌な予感がね」

 興味があるとかではなくて、その2人が自分のよく知った人物としか思えないだけだ。こっちだよ、とせんの片方の腕を引っ張る彼女らだが、走りだそうとした足は再び高城がもう片方の手を引っ張ったことによって止まる。
 もう一度振り返れば、どこか寂しそうな雰囲気の彼。

「夜鳴さん、さっきの、どういう意味?」
「さっきの?」
「人を見る目を育てるとか、外面だけ見ていても駄目とか……」
「ああ、それ。言葉の通りだよ。君たちはせっかく『いい目』を持ってるんだからさ」

 そう言ってやれば彼は、いや、彼だけではなく周りにいる同級生たちは一斉にきょとんと訳が分からないような表情をした。
 今は、それでいい。いや、きっとこれからもそれでいい。夜神せんがどんな人間かなんて、そんなことを彼らが知る意味も機会もこの先決して訪れないのだから。

「……行こうか、みんな」
「……?うん、分かった」

 呼び出されてからそれほど時間は経ってないのだが、地面に染み込んでいたはずの雨のにおいは、いつの間にか乾いて無くなってしまっていた。
 クラスメイトたちに腕を引っ張られ校門まで走っていくと、そこには人だかりがあった。校門のブロック塀に背を預けつつ、ここまで人が集まってきたことはさすがに予想外の出来事だったのか、少し困惑気味の、例の美男美女。
 男の方はたくさんの女子たちに、そして女のほうはたくさんの男子たちに、有名人でもないのに写真撮影や握手を求められどうしようかとお互いでアイコンタクトを取り合っているのが分かる。
 それは言わずもがな、同居人のリーザとジェニファーであった。

「ほらほら、こっちこっち!」
「あの人たちだよ!かっこいいよねっ」

 ようやくせんの手を解放したクラスメイトたちは、隣でリーザを見つめながらかっこいいだのなんだのとぼやいている。遅れて後ろからやって来た高城や男子たちも、ジェニファーに見惚れているようだった。
 どうやらサルビア曰く2人は表の仕事帰りだという。外の仕事に行くとき、2人はおなじみのジェニファーのメイクで少しだけ顔を変えているらしいのだが、それでも変わらない人気ぶりはさすがとしか言いようがない。

《なんつーか……動物園のパンダ状態だな》
『何その例え。それより問題はなんであの2人がここにいるかでしょ』
《そりゃそーだけどよ》

 秘密裏にサルビアと言葉を交わす。2人一緒ということは、もしかしてここまで迎えに来たとかそんな理由じゃないだろうかと薄々思いつつ、もしそうだとするとこの場所に自分がいることを知られたら厄介なことになりそうだとも考える。
 そんな心配は虚しくも現実になってしまったわけだが。

「あ、せん……じゃなくて零。ようやく出てきたか」
「ちょうど仕事が終わったからたまには外食でもって思ったんだけど、なんか大変なことになっちゃった。それどころじゃなさそうね」
「………うーん、2人ともちょっと今は空気読んで欲しかったかなあ」

 知り合いであることをこの人混みのなかで知られたくなかったせんと、そのせんに視線を向けつつ苦笑いを浮かべるリーザとジェニファー。その途端当然周りに集まっていた生徒たちの目線は一気に一方向に向かうわけで。
 こういうとき、彼らがどんなことを考えているのかなんて言われなくても分かる。あいつらと知り合いなのか、どういう関係なのか。だいたいそんなところだろう。

「夜鳴さん、あの男の人とどういう関係なんだ?」
「………え?」

 そう後ろから声をかけてきたのは、高城だった。適当に兄姉とでも答えておけば誤魔化せるだろうと振り返れば、彼はどこか憂いを纏っていて、せんの頭を混乱させる。

《……今高城が抱いてる感情、お前に分かるか》
『……?』
《嫉妬っつーんだよ。言葉の意味くらいは分かるだろ》

 遥か昔から人間にとって『罪』とみなされてきた傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲の、七つの大罪のうちのひとつ、『嫉妬』。それは昔エストラーネオの施設にいたとき、未那月がせんに教えてくれた話だった。
 嫉妬という感情は、人間には誰にでもある、誰かを羨んだり僻んだり劣等感を抱いたりする感情のことを言うのです。せん、貴方は誰かを羨ましがったりしたことがありますか。未那月はあのときそうせんに問うた。私は貴方の強い志をとても羨ましいと思いますし、朧の冷静さが羨ましいとも思います。それはきっと嫉妬の一部分と言えるのかもしれませんね。そう言って笑った彼女の姿が、脳裏に浮かぶ。そう、確かあれはまだ視力を失う前の話だ。
 それらのことを総称して考えれば高城は、彼はリーザやジェニファーに対して、劣等感を抱いているとでもいうのだろうか。

「もしかして、あの男の人って……夜鳴さんの彼氏?」
「…………」
「あ、いや、違うなら、いいんだけど……」
「……はあ……何でどいつもこいつもわたしの平穏な学生生活を邪魔するようなことをするかなあ……」

 思わず愚痴るような口調になってしまいはっとする。それを聞いていた高城の雰囲気がいっそう暗くなった気がした。別にたかだかクラスメイトのひとりに聞かれたところで痛くも痒くもないのだが、気は重くなる。ああもう、だから感情などという抽象的なものについて考えるのは面倒で嫌いなのだ。

「……はあ。帰る」
「……あっ、うん。夜鳴さんまた明日ね!」
「うん。またね」

 ひとまずクラスメイトの女子には声をかけ、人混みをかき分けリーザとジェニファーの元へ歩み寄ったせんは、両手の拳を軽く両人の腹へ叩き込む(リーザには気持ち強めにだ)。

「ねえ、わたし怒ってるんだけど分かる?」
「ごめんなさい零。リーザが、ちゃんと零が学校で友だちと仲良くしてるか気になるって言うんだもの」
「わたし言ったよね、平和に学生生活を過ごしたいんだって。ふたりはもっと自分の容姿が目立つってことを自覚しなさい」
「……悪かったよ」
「……はあ、もういいや。さっさと帰るよふたりとも」

 せんがイライラしているのが分かったのか、先程まで2人に色めき立っていた生徒たちも、その色目を向けられていた両人も、思わず静まり返る。片手に鞄を持ち、ひらりとスカートを翻して自宅方向へと歩き始めたせんの後ろ姿をしばらく見つめていたリーザとジェニファーだったが、はっと我にかえると、慌ててその背中を追った。

 △▽△

 最近気になっていたコーヒーショップでコーヒーソフトクリームを買ってもらい少し機嫌が直ったせんは、家までの道を、リーザとジェニファー、そしてめずらしくリーザの肩に止まるサルビアの4人でゆっくりと歩いていた。高城の一件もあり変にイライラしてしまったことは自覚していたので、もののついでにせんは先程彼に言われたことを2人に問いかけてみる。

「へえ、お前告白されたのか」
「告白?」
「ああやって、好きだって気持ちを伝えられることだよ」
「ふーん。随分と物好きな人がいるんだなあとは思ったよ」
「さっきの言葉を返すようだけど、お前もその見た目を自覚した方がいいと思うぞ……」

 リーザの言うことには、ジェニファーもサルビアも大賛成である。まだ中学生という年齢ということもありあどけなさは残るが、同年代の子らと比べて大人びているせんは、身内贔屓を抜きにしても、『美人』な見た目をしているのだ。ジェニファーによってしっかりと手入れされている黒髪は肩口でしっかりと切り揃えられており、艶を失うことはない。日の当たらぬ施設で育ってきたこともあり、磁器のように白い肌にはニキビひとつなく、淡く色づいた桜色の唇や、しなやかに筋肉のついた細い腕、すらりと引き締まった長い脚、括れた腰など、彼女を形作る全てのパーツが、それはそれは美しいものなのだ。
 そして、幼い頃から戦場で刃を振るってきたこともあり、彼女の纏う雰囲気はどこか危険な鋭さを孕む。可愛いものや綺麗なものが好きなジェニファーが最も美しいと思うほどなのだから、せんもきっと男人気は高いだろうとリーザもサルビアも思っていたが、当の本人はその自分の容姿を目で見たことがないので、物好きなんてことが言えるのだ。少し、見事に玉砕した高城というクラスメイトを可哀想に思ってしまったのはここだけの話である。

「リーザもジェニファーさんも、よくわたしに好きだって言うけど、それとあいつの好きとどう違うのかがよく分からないんだよね」
「恋っていうのは大人になっても難しいと思う物なのよ。そりゃあせんが戸惑うのも当然よ」
「………そうなの?」
「ええ。例えば、彼に突然抱きしめられてせんは何を思った?」
「……びっくりしたし、なにするのこいつとは思ったかな」
「……ほんとお前そういうとこストレートだよな……」
「じゃあ、もし、抱き締めたのがわたしやリーザだったら?」
「……まあ、ふたりならいつものことだしね。安心できる相手だから、温かい気持ちになると思う」
「ん、そっか」

 せんも、まったく何の感情も抱いていない人と情のある人に対しての気持ちの違いはちゃんと理解してはいるらしい。
 ジェニファーは思い返す。リーザもサルビアも、そしてジェニファーも、今までせんに対して一方的な愛しか与えていなかったのかもしれない。彼女に見返りを求めなさすぎたのかもしれない。
 愛情や恋慕という感情を、せんはこれまでの境遇の中で理解する時間を与えられはしなかったし、持つことさえ許されていなかったのだ。だから、人を愛するという感情をせんは今日までずっと知らずに生きてきた。愛されることの喜びを知らずに生きてきた。

(でもそんなの、せっかくこの世界に生を受けたのに、勿体ないわ。あなたはこんなにも愛されているのに)

 自分たちがせんに対して持っている愛情を、彼女自身が理解するためには、誰かを愛する気持ちを自覚する必要があるかもしれない。でもきっと、自分たちの愛は、彼女に向けるのが当たり前すぎてしまっているのだろう。
 初登校日に、リーザはお前に恋愛なんて無理だろなんて言ったが、ジェニファーはそうは思わなかった。これから先、せんの心を抉じ開けてくれる人物が現れたら、きっとその人がこの子に、人を愛すること、愛されることの幸せを教えてくれるだろう。そう期待したかった。

「せん、貴方が私やリーザ、サルビアに安心感を持てるのは少なくとも貴方がちゃんと私たちを信頼して、背中を預けてくれてる証拠よ」
「………うん、そうだね」
「彼が一瞬でもあなたに向けた感情、それは『恋』。でも、私たちがせんに向けている感情は『恋』ではなくて『愛』。せんが、未那月さんや朧さんに向ける、この人が大切だって思う気持ちと同じものなのよ」
「……愛……?」
「わたしだって、恋と愛の違いなんて明確には分からないわよ。でもきっとせんにだって、この人を自分の手で幸せにしたい、この人とずっと一緒にいたい、そう思えるような人が現れるわ。だから、無理にこの人のことが好きだとか嫌いだとか、そういうのを決めつける必要はない。だって、恋をするのは自然なことだもの」
「自然?つまり、何の理由もないけど、いつの間にか好きになってるってこと?」
「そういうこと。だからせん、もしそんな日が来たら一番に私に相談してちょうだい。話なんていくらでも聞くわ」
「……ふふ……うん、分かった。ちょっと、気持ちが楽になったよ」
「お役に立てたみたいで光栄だわ」

 心なしか、さっきよりも晴れ晴れとした顔をしているせんにつられ、ジェニファーも笑顔になる。
 せんが恋をするには、相手の顔が見えないという障害がある。でも、例え目が見えなくたって恋をすることは出来ると、ジェニファーはそう信じていた。

「おーい、女子同士のコイバナもいいけど、俺たちもいるってこと忘れるなよ〜」
「ああリーザ、いたの」
「ほんっとお前、俺に対して辛辣な……」
「サルビア、こっちおいで。ソフトクリーム食べてみる?」
〈いんや、いつも色々分けてもらってるからな。今日は独り占めしちまえ〉

 和気藹々と言葉を交わしながら歩く3人(+1羽)の影が、夕日に照らされて長く長く伸びていた。

 △▽△

「そういやせん、例の少年について調べがついたぜ」
「例の少年……?ああ、沢田綱吉のことか」

 結局外食をすることなく帰宅し制服を脱いでソファーに深く座ると、リーザが愛用のノートパソコンを手に、反対側のソファーに座ってそう言った。
 数日前、同じクラスの山本武と沢田綱吉が屋上から転落した際、せんとサルビアが感じた死ぬ気の炎。聞こえた銃声。そしてサーベルに灯った白銀色の炎。それらの情報を元にリーザとジェニファーに詳しく調べてもらったわけだが、どうやら成果が得られたらしい。リーザに倣いジェニファーも自分のパソコンを片手にソファに腰掛ける。

「それで、結果は?」
「だいたいお前の読み通り。沢田綱吉は次期ボンゴレのボス候補だ。聞こえた銃声っていうのは、死ぬ気弾の使い手で間違いないな」
「いろんな所に潜って情報を集めてみたら、その正体も判明したわ。10代目ボンゴレボスを育てるため9代目ボスから日本へと派遣されてきた、殺し屋リボーン。それが沢田綱吉を、死ぬ気弾を使って死ぬ気にさせた張本人ってことね」
「……殺し屋リボーン……やっぱりね」

 せんが武器に灯す炎の色は、シルバーホワイト。先日受け取った虹色に輝く石を作った際に偶然生まれた炎で、それ以来仙月や月哉ら六花のリーダーたる存在はこの炎を長の証として引き継いできたのだ。仙月もまた、自らの武器であったサーベルに炎を灯していたらしい。
 シルバーホワイトの炎が生まれたのは、偶然ではあるが独立したものではない。大空のオレンジ、晴のイエロー、雷のグリーン、嵐のレッド、雨のブルー、霧のインディゴ、そして雲のバイオレット。仙月やせんの持つ炎は、所謂大空の7属性と呼ばれる7色の炎が何らかの変化を伴った結果らしい。これは、彼女のメモリーによって引き継がれた記憶だ。
 ただ、当時と違い現在は炎というもののの存在がマフィア間でもほぼ認知されていない。炎を武器に灯し戦う方法は仙月が生きていた時代には当たり前のようにあったのだが、それも時の流れと共にいつの間にか消失してしまった。故に現在炎の存在を詳しく知るのは優秀な科学者か、もしくはせんや千都のように過去の記憶を引き継ぐ者だけなのだ。

「サルビア、どうする?」
〈ま、とりあえず様子見だろ。ボンゴレのボス候補っつったら、殺しちまうわけにもいかねーし〉
「まあ確かにそうだけどよ……依頼が来たら殺すのか、せん」

 リーザの問いかけに、まさか、と呟く。何せボンゴレファミリーは、仙月と深く関わりのあるファミリーだ。何せ虹色に輝く『約束の石』と呼ばれる代物は、ボンゴレと、そして仙月が共に作ったもので、代々六花の中で何年もの間大切にされてきた宝物なのだから。だからいくらマフィアといえど、ボンゴレファミリーは容易に手を出していい集団ではない。
 勿論、ボンゴレが自分にとって全く関わりのないものだったら、依頼次第でボンゴレを潰すことだって可能かもしれない。ただ、ボンゴレに手を出せない理由はもうひとつある。

「サルビア、わたしこの間ディーノの話したよね」
〈ああ、したな〉
「キャバッローネは、ボンゴレと同盟を結んでるでしょ。だから迂闊に手は出せない。マフィアのディーノは好きじゃないけど、匿ってくれたやディーノやキョウカを困らせるわけにもいかないし、悲しい思いはさせたくない」

 そこで、せんはふとあることに気付く。今、全く頭の中に記憶として残っていなかった懐かしい名前が不意に口から出てきたのだ。そう、それは1人の女の人の名前。

「…………キョウカ……?」
「恭華がどうかしたか?あいつはディーノの……」
「……リーザ、その人苗字は何ていうか覚えてるか」
「あいつは日本人だったからな。確かヒバリ、じゃなかったか?」

 ヒバリ。雲雀。雲雀、恭弥。学生生活初日、せんが盲目であることを、瞳を見つめるというたったそれだけの動作で見破った上に、内に秘められた強さに興味を示した、朧に似た彼の苗字と一緒ではないか。

「ヒバリ、キョウカ……」
〈お前が言ってた、世話になった人ってやつか〉
「……思い出した。あの人に、弟に似てるとかいつか会わせてあげるって言われたことがあったんだ。たぶんわたし、昔イタリアで雲雀に会ってる」

 リーザやジェニファーの情報のおかげで点と点がようやく繋がった。これは随分と大きな収穫だ。案外恋愛云々で散々頭を使わされたのが脳にいい刺激を与えたのかもしれない。それだけは高城に感謝するとしよう。
 せんは小さく息を吐くと一旦自室に戻り、クローゼットの中を漁る。確かここに、仕事用でいつも使っているのとは違うローブと、真っ白な仮面があるはずだ。
 こつんと、手に当たる冷たい感触。それを引っ張り出せば出てきたのは顔を覆い隠す真っ白な仮面と、少し色褪せたローブ。

「……その仮面見るの、久々だな」
「……千都の所に行ってくるよ。色々彼女のことについて聞いてくる」
「あっ、じゃあ千都さんにお土産でも持っていってあげて。きっとろくにご飯も食べてないだろうから、急いでおにぎりくらい作るわ」
「ありがとう」

 ジェニファーはスリッパをパタパタと鳴らせつつキッチンへと駆け込んでいく。それを背にローブを羽織り、仮面をつけると、周りの空気が少しだけ冷めた気がした。

「やっぱ雰囲気変わるな。俺でもまだ慣れない」
「そんなに変わるものか?」
「いんや、大丈夫だ。単に、お前からそんだけの殺気を感じるのも久々だったなと思って」

 ごく稀に、せんはリーザやジェニファーの情報を頼らず、調査からすべて含め最初から最後まで自分だけで行動することがある。重に六花やヴェルベーナファミリー内部に関わる問題については、いくら夜神一族と関わりがある人物といえども、2人に首を突っ込ませるわけにはいかないこともある。
 誰の干渉も受けたくない場合にのみ、このローブと仮面を身につける。いつも仕事で使うローブはジェニファーが拵えたものだが、これは施設で未那月が身に付けていたもの。だから、特別な時にしか使わないと決めていた。
 リーザ曰く、これを身に付けた時のせんは、仕事モードでなくとも死神セーヌを彷彿とさせるらしい。

「今日は、依頼無い?」
「あるけど急ぎじゃない。今日の夕飯はお前の好きなパスタでも作って待ってる」
「分かった」
「ほらせん、おにぎり出来たわよ。これよろしくね」
「ありがと。じゃあ行ってくる。サルビアおいで」

 おにぎりを受け取って仮面を被り直し、サルビアを肩に招く。それから一度リーザとジェニファーを振り返って、2人が行ってらっしゃいと無言で言ってくれているのを確認してから、そのまま幻術を使って部屋の空気に溶けるようにして、せんは姿を消した。

 △▽△

「おやおや、これは随分と突然のお出ましだね」
「突然押しかけてごめん。疲れてるみたいだけど大丈夫?」
「ちょっと調べ物をね。どうぞ、あがって」

 部屋の前に到着しインターホンを鳴らすと、鍵を開く音に続いて、溜まった仕事を片付けていたのか、珍しく疲れた様子の千都が顔を出した。
 日本に滞在している千都が使っているこのホテルは裏社会専門のものではないが、この部屋はそのホテルの最上階に位置し、夜景を眼下に眺めることの出来る最高の部屋だ。何とも千都らしい。

「それにしても、監視カメラを潜り抜けるまでになったんだね。幻術の腕も一人前ってことだ」
「まだそれほど使い慣れないし、千都ほどじゃないよ。それより、今日は千都に聞きたいことがあって来たんだ」

 千都に促されるまま部屋に入りソファーに腰を掛けてから、仮面を外す。
 この仮面は、せんが幻術を使う際に能力を強化するためにつけているものである。幻術を使うときは、普段せんが周囲の情報を得るために利用している『空気』に邪魔されないよう、出来るだけ顔面を遮り集中力を高めるのだ。
 マントも脱いで仮面とともに机に置くと、日本のお茶が正面に置かれる。千都はイタリア生まれイタリア育ちだが、せんと同じ日本人。長くイタリアにいても大和心を忘れない日本男児である。彼は反対側のソファーに深く腰掛けると、お茶を啜って一息ついた。

「さて、質問だったね。僕に分かることなら何でも聞いてよ」
「それじゃあ、遠慮なく。千都は、雲雀恭華って人を知ってる?」
「ミス・キョウカ?勿論知ってるよ。せんがエストラーネオに捕われた後だったんだけど、偶然イタリアの大学で彼女と知り合ってね。お互い君のことを知っているって分かってから協力し合うようにはなった」
「………そうだったんだ」

 千都の情報によって、またひとつ抜け落ちていた記憶が1つ戻る。
 先代のヴェルベーナファミリーがどこからか漏れた情報によって抗争を仕掛けられたことで夜神の直系一族が崩壊し、逃げ出したせんを救った人物。傷を癒した代償に手当をしてくれた人物。それがディーノと、そして雲雀恭華という美しい女性だった。
 彼女は今キャバッローネの実質No.2の地位、つまりボスであるディーノの補佐的な存在にあるらしい。

「さっきリーザたちと話していて思い出したんだけど、当時彼女に、弟に会わせてあげるって言われたことがあるんだ。その後本当に会ったかは覚えてないんだけど」
「……ああ、そういえば彼女には弟がいたね」
「うん。で、そのときに会ってるはずの弟が、偶然にも今並盛中に通ってるわけ」
「並盛中って、せんの通う学校に?そっか、確か名前は『恭弥』くんだったよね」

 大学で恭華と出会い仲良くなったのなら、彼女の家族構成くらい知っていても無理はないだろう。

「恭華からよく恭弥くんの話を聞くんだ。せんの話をしているとあの頃の生活を思い出して、同時に弟のことも鮮明に思い出すことが出来るってさ。自分のせいで弟を苦しめた、だからもっと強くならないとって」
「……鮮明に思い出せる?長い間雲雀に会っていないってこと?」

 ふと、せんは彼の言葉に違和感を覚える。それはまるで恭華と雲雀が、あれから随分と長い間離れて暮らしているような口ぶりだ。

「恭華は、まだ今のせんくらいの年のときにその弟くんと一緒に日本からイタリアに引っ越して来たらしい。それからしばらくしてまた一家は日本に戻ったんだけど、1年もしない間に恭華は単身イタリアに戻ってきた。ディーノの補佐になってからはなかなか日本に戻れなくて、弟くんとは長い間会えてないって言ってたよ」
「……ってことは、雲雀は今両親と?」

 一口、お茶を啜りながら言うと、千都は首を横に振った。そして山のように仕事用のデスクに詰まれた書類の中から1枚の紙を取り出して、テーブルに止まって毛づくろいをしていたサルビアに見せる。
 ふわりと感じる炎は、死炎印。それが押されているということは、千都が差し出したその紙は正式にキャバッローネファミリーから提供された書類である証だ。それに目を通したサルビアは、ぞくりと身体を震わせ、驚きの声を上げる。

〈おい千都、これ、まじなのかよ……!?〉
「死炎印まで押されているんだ。前キャバッローネボス、つまりディーノのお父様から受け取ったものだよ」
「サルビア、何て書いてあるの」

 軽々しく言ってしまったが、サルビアの口から出たそれは、衝撃的な、それでいて残酷な事実だった。

〈雲雀恭弥とその姉、雲雀恭華の両親は2人の目の前で何者かによって刺殺〉
「……!?」
〈当時、弟の恭弥はまだ小学生。犯人の正体は未だ分からず。現場には犯人を示す証拠は一切残されておらず、犯人特定には時間がかかる……〉

 震えるサルビアの声。彼に初めて出会ったとき、何故あれほどまで寂しそうな悲しげな雰囲気を纏っていたのか、その理由がせんには分かった気がした。目が見えないからこそ気付いた、彼が持つ暗くて深い心の闇。その原因は幼い頃に両親を目の前で殺されたというショックからくるものだったのかもしれない。

「……どうして雲雀の両親が……?」
「彼らの両親は2人ともキャバッローネの力のある幹部で、ディーノさんのお父様にも相当気に入られていたそうだよ」
〈両親もキャバッローネだったのか〉
「雲雀一家はもともと並盛に住んでいたんだけど、両親の仕事の都合でイタリアに引っ越してきたらしくてね。確か、せんと恭華が出会った頃より少し前だと言っていたかな」

 思い出すように、一言一言、強く語る千都。

「それから数年経って、彼らの両親は日本を任されることになってまた帰国したそうだ。でもそれからすぐどこかのマフィアに殺された。恭華は真相を確かめるためイタリアに戻ったんだ」
「……だから、『鮮明に思い出せる』、か」
「それからずっと故郷の日本に帰れずにいるらしくてね。日本に置いて来た弟くんのこと本当に心配しているみたいだよ」

 重苦しい雰囲気が、部屋を満たす。

(なんとなく……だけど、雲雀が何であんに強いのか、何でああしてトンファーを振るうのか、分かった気がする)

 きっと彼にもせんと同じくやりきれない思いがあるのだ。幼さ故に、大切な人を救えなかったという後悔。大切な人がもう二度と自分から離れていかないようにと、強さを手に入れんとする足掻く焦燥感。自らの居場所を、テリトリーを奪われない為の自己防衛。彼、雲雀にとって、トンファーはその象徴なのかもしれない。

「絶対に雲雀と何処か出会ってるはずなんだけど、実験のショックで記憶が所々飛んでるみたい」
「ゆっくりと思い出していけばいいんだよ。焦らなくたって、本人に会う機会があれば思い出せることもあるだろうし」
「……そうだね。恭華さんやディーノは、近々こっちに来るような話はしてた?」

 問いかけに、サルビアから書類を受け取った千都は首を横に振る。

「いや、来日するなんて話は一言も聞かなかったよ。最近はせんの近況を恭華と電話で話したりしてるけど……」
「……そう」
「……どうかしたの?」
「出来るだけ早く、弟に会ってやってほしいって思ってさ」
「……そうだね。恭華も忙しいけど、少しでも休暇をとって日本に帰ってきてくれたら恭弥くんも安心するだろうし」
「……何年も肉親に会えないのは……雲雀も、恭華さんもつらいと思う。あの人も……独りぼっちなんだな」

 だからあの人は、ときどき自分を見て寂しそうに笑うのだ。
 冷めかけたお茶を啜って息を吐くと、不意に千都が手を伸ばして、そのまませんの頭をポンポンと軽く叩いた。彼なりに、お前が気にすることじゃないと励ましてくれているのは分かる。

「子ども扱いしないでよ千都」
「拗ねないの。ほら、折角の可愛い顔が怒ったら台無しだよ?」
「煽てても何もあげないよ」
「ふふ、せんの可愛い可愛い笑顔が見れれば、僕は何もいらないよ」
「……千都って、将来結婚して子供出来たら絶対親バカになるよね」

 日本に来て、これで何回目になるか分からないため息をつく。そんな彼女を他所に、さっきからサルビアは部屋の観葉植物に興味深々のようだ。
 音もなく歩み寄り、そんなサルビアの翼を思いきり叩く。グエッという声が聞こえたが、こういうときは基本的にそれほど痛がってはいない証拠である。気には留めない。

「サルビア、人の部屋の観葉植物に興味示すのはいいけど口に入れないで。食べるならせめてリーザのやつにして」
「えっ、せんそれちょっと違う……」
〈リーザんとこのは不味い!〉
「あのね、食べ物じゃなくてこれはあくまでも『観葉』植物だから。って、言ってるそばから……」
「こらサルビア、レギネなんか食べても美味しくないよ?ほら、お土産あるから」

 くだらないやり取りの後、お土産、と言う言葉にいち早く反応するサルビア。
 千都がビニール袋一杯につめてサルビアに差し出したのは、真っ赤に熟れたサクランボの実。何故かこれが昔からサルビアの大好物なのである。

「千都、よくこんなに……」
「いつも買い物に行く八百屋の人から多めに貰ったんだよ。日本のサクランボって、甘酸っぱくて美味しいよね」
(いつの間に仲良くなったんだろう八百屋の店主と)

 そんなことを思いつつ早く早くと忙しないサルビアに赤い実を1つ投げてやると、種までその嘴で砕いて飲み込んでしまった。基本的に鴉は雑食だが、サクランボを主食とする鴉など世界中を探しても彼しかいないだろう。

「あまりサルビアを甘やかしちゃだめだよ、千都。すぐ調子に乗る」
〈乗らねぇよ!千都、ありがとな〉
「いいえ、どういたしまして。僕より、せんのほうがサルビアを甘やかしてない?」
「……まあ、それはそうかもしれないけど」

 その時、ポケットに突っ込んでいた携帯が振動しメールを受信したことを知らせる。どうやらリーザからのようだった。
 素早くもう慣れた手つきで携帯を開いてメールを開くと、すかさずサルビアが添付された写真を見て、そして嬉しそうに翼をはためかせる。

〈おっ。さっき言ってたパスタ、出来たみたいだぜ〉
「へぇ、今夜の夕飯はパスタか。リーザの料理の腕は超一流だしね……僕も、お邪魔しようかな」
「悔しいけどリーザの料理はそこらの一流のシェフより美味しいからね。ああ、そういえばこれジェニファーさんから預かったんだ。きっと栄養採ってないだろうからって」
「ジェニファーちゃんが?そっか、わざわざこんなに……」

 重い話をしていたせいで忘れかけていたが、せんは慌ててジェニファーが作ったおにぎりを千都に渡す。彼は随分とリーザやジェニファーの料理がお気に入りらしく、嬉しそうに受け取った。きっと、明日には全て腹の中に収まっているだろう。
 写真見てたらお腹すいたなぁ、と言って千都は自分の腹をさすって見せる。たまに彼が見せる子どもっぽい彼の仕草に、思わずせんも笑みを零した。

 しかし、千都を連れて帰宅し、おいしそうなパスタを前にしても。せんの頭の中からは、雲雀恭弥の両親が彼の目の前で殺された、その事実がぐるぐると回り続けて離れなかった。

(……せん、どうしたの?食欲ない?)
(ん?いや、そういうわけじゃないんだけど)
(……ジェニファーちゃん、あまり気にしないでやってくれる?ちょっと、今日は考えることがたくさんあると思うんだ)
(……そうなんですか)

(いつもは誰が作ったものより美味しく感じるリーザとジェニファーさんの料理が)
(今日はやけに、無味なものに感じてしまった)




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