〈背景〉
此処は大きな時計塔がそびえ立つ、小さな村。
鬱蒼と茂る森の奥──居場所を追い出された者たちは放浪の末、不思議とこの村に辿り着く。
種族も年齢も異なるはぐれ者達が集う此処はいつしか、迷える牧人の楽園……
“アルカディア”と呼ばれるようになった。
そこにあるのは、ひとりの人間と、ひとつの魂の触れ合い。
〈配役〉♂0:♀1
少女 - Olga / オルガ:♀
アルカディアの教会に修道女として従事する少女。小柄で実年齢よりも幼く見られることも多いが、本人は特に気にしていない。あっけらかんとした性格で、大抵のことをすんなりと受け入れている。誰にでも平等に接するため、人間・魔物の両方から好かれやすい。
少女N:夜の帳に差し込む光。窓に近寄って見上げると丸く大きな月が出ていた。照らし出されたカーテンは灰色の影を纏ってなびく。…冴え渡る黄金が、ずっと私を見つめている。
少女N:引き寄せるように手を伸ばしても当然、光には届かない。月はいつでもそこにある。一体あとどれほど祈ったら、届くことが叶うだろうか。…ねえ、かみさま。かみさまは私のこと、見てくれているんでしょう?
◆◆◆
少女N:大好きなパパとママ。わたしの頭を撫でてくれる。大好きなパパとママ。寝る前に、おでこにキスをしてくれる。大好きなパパとママ。言うことを聞くと、やさしく抱きしめてくれる。大好きなパパとママ。ふたりのために、わたしは、いい子にしてるのよ。……大好きな、パパと、ママ。ふたりは、わたしのことが好き?
少女N:天蓋付きのベッドに寝転んで、天井を見上げている。隣に置いてあるテディベアの手を取って、ただじっと空を見ていた。ぼんやりと暮れていく空。そのうち一番星が瞬き始めて、暗くて寒い夜が来る。夜は嫌いだった。だけど、月は好きだった。私をいつも見てくれている気がするから。パパとママに遊んでもらえない寂しさを、紛らわしてくれるから。
少女N:この部屋には、お菓子も、おもちゃも、なんでもあった。きっと不自由だけがなかった。外の世界は危険なものがいっぱいだから、大人になるまで、この部屋から出てはいけない。たまに息苦しさを覚えたけれど、それが当たり前なんだと思った。抱き寄せたテディベアからは、ほんのりと石鹸の香りがした。そのまま静かに目を閉じて、深く息を吸って吐く。どこかでオルゴールが鳴っている。
少女N:しばらくして、ドアを叩く音がした。合図をもらったらリビングに向かわなくてはいけない。唯一、部屋の外に出られる時間は、すこし楽しみでもあった。すぐに起きて扉へ向かう。放り投げたぬいぐるみが、ベッドの下に転がり落ちた。
◆◆◆
少女N:1階のリビングは、暖炉の火が付いていて暖かかった。テーブルには豪華な食事が並べられて、美味しそうな匂いがしていた。この部屋で、パパとママと、さんにんで過ごしてみたい。その言葉を口にしたとき、ひどく叱られた思い出がある。わがままを言うとパパとママを怒らせてしまう。だから、ふたりをふきげんにさせないように、「いい子」でいようと決めていた。
少女N:キッチンに行くと、いつものようにエプロンをつけたママが立っていて、火にかけた小鍋をゆっくりかき混ぜていた。マグカップにお砂糖みたいなものが混ぜられて、手渡される。ホットミルクが入った、マグカップ。ほんのりと甘い香りがした。
ママ(回想):いい?オリヴィアちゃん。いつもみたいに“サービス”するの。できるわよね。
少女(回想):はい。わかりました。
ママ(回想):ありがとう、オリヴィアちゃんはいい子ね。
少女N:ママはそう言って、やさしく頭を撫でてくれた。ほんの一瞬だけれど、ママに撫でられると、暖かくてやさしい気持ちになる。私はそのマグカップを持ったまま、お客さんのところへ向かった。
◆◆◆
少女N:このお家には毎晩、知らない人たちがやってくる。前にパパが「宿屋」だと言っていたのを、聞いたことがあった。森の中にあるこの家の周りは静かだけど、夕方ごろには、いつも賑やかになる。お客さんはひとりのときもあれば、複数のときもあった。お客さんが多いとき、私は呼ばれなかった。お客さんが少ないときは、こうして“サービス”をさせられていた。お客さんがひとりかふたりのときは、大抵、奥の部屋に通される。そこで休んでいるお客さんに、このマグカップを持っていく。
少女N:ドアを叩くと、お客さんは扉を開けて私を招き入れてくれる。「こんばんは。“サービス”をお持ちしました」と言うと、それを受け取ってくれる。「オリヴィアが作ったの。おいしいから飲んでみて」と言うと、すぐにそれを飲んでくれる。しばらくすると、床に倒れて、動かなくなる。その物音を聞きつけて、パパとママがやってくる。「おりこうさんね、オリヴィア」と言って私を撫でる。パパは倒れて動かなくなったお客さんを抱えて、どこかに持っていく。ママは残された荷物を抱えて、どこかに持っていく。
少女N:そうしてひとり、私は部屋に取り残される。誰かが来たら「オリヴィアが遊んでいたの」と言う役目があったから。この部屋はお客さんのための部屋だから、遊ぶこともできず、ひとりでただ、ただ、じっと立って待っていた。
少女N:ママは言う。「オリヴィアちゃんはいい子ね。」
◆◆◆
少女N:次の日になると、そのお客さんはいなくなっている。パパも、ママもふたりとも知らないと言う。ふたりがうそをついていることを、わたしは知っていた。だって、お客さんをパパが運んで、その荷物をママが持っていったからだ。
少女N:ママは「いい、オリヴィアちゃん」とやさしいこえで言いながら、私の頭を撫でた。「オリヴィアちゃんが“サービス”を持っていくと、それを飲んだお客さんは、急に眠たくなっちゃうの。それだけなの」やさしいけど、こわい声。私はそれ以上何も言わなかった。口ごたえをすると、お仕置きされてしまうから。痛くて、ひどくて、熱い目には遭いたくなかった。だから私は、それ以上なにも聞かなかった。
少女N:ママは言う。「オリヴィアちゃんはいい子ね。」
(間)
少女N:ひとりのお客さんがやってきた。私は呼ばれて、“サービス”を持っていく。ひとりのお客さんがやってきた。私は呼ばれて、“サービス”を持っていく。ふたりのお客さんがやってきた。私は呼ばれて、別々の部屋に“サービス”を持っていく。ひとりのお客さんがやってきた。私は呼ばれて、“サービス”を持っていく。……こうすれば、私はいい子だから。──ねえ、かみさま。かみさまは私のことを、見てくれているよね?
少女N:ママは言う。「オリヴィアちゃんはいい子ね。」
◆◆◆
少女N:ある日、パパとママがけんかをしていた。パパは「やめた方がいい」と言っていた。ママは「やった方がいい」と言っていた。ふたりは話しながらキッチンを出て、リビングに向かっていった。キッチンに取り残された私は、小鍋でミルクが温められていることに気がついた。
少女N:私はママがいつもしているみたいに、そのミルクを温め直した。パパがいつも使っている青いマグカップと、ママがいつも使っている赤いマグカップ。ふたつを手に取って、それにあたためたミルクを入れる。ほんのりと甘い香りがする。瓶のふたを開けて、スプーンでひとさじいっぱい分をいれて、ていねいにかき混ぜた。瓶を、もとの場所にもどしておくことも忘れずに。
少女N:ちょうど戻ってきたパパとママが驚いたような顔をした。「ママのお手伝いをしたかったの」と言うと、ふたりは顔を見合わせた。ママは「オリヴィアちゃん、ありがとう。でも、勝手なことをしないのよ」と言った。かってにさわっては、いけなかったみたいだ。パパは私をやさしくキッチンから降ろすと「ありがとう、オリヴィア。今日はお客さんがいないから、これは私達が飲むよ」と言った。今日はお客さんがいなかったみたいだ。…おこられなくて、よかった。次からは、きをつけようと思った。
少女N:パパとママはさっきよりも落ち着いたようすで、ミルクを飲みながら会話をしていた。私はじっとそれを見ていた。“サービス”は今日、しなくていいの?──そう聞こうと思った瞬間だった。パパが苦しそうにうめいて、床にたおれた。「パパ?」ママは慌ててパパにかけよった。パパはうごかない。みるみるうちに青ざめていくママの顔は、みたことがないくらい、こわい顔をしていた。
少女N:何が起きたか、わからなかった。あたまがとてもいたくて、ぐらぐらする天井を見上げて、ようやく気付いた。ママのきれいな手が、わたしのくびをしめている。息ができなくてくるしかった。
少女N:ママはわたしに向かって叫んだ。「パパが死んじゃったじゃない!どうしてくれるの!…だから、だからあたしは、アンタを生むことに反対だったのよ!全部、アンタが生まれてきたせいよ!この悪魔、アンタなんか生まなきゃよかった!」
少女N:ごめんなさい。ごめんなさい。そう言いたくても声がでなくて、なみだがとまらなかった。ふと、急にくるしさがなくなったと思ったら、ママがぐらりと後ろにたおれた。
少女N:ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら、ふたりを揺すった。パパとママがたおれたまま動かない。パパ。ママ?どうして、ねたままおきないの。どうして?わたし、そんなに悪い子だった?
少女N:ねえ、おきてよ。パパ、ママ。わたし、もっといい子にするから。ねえ、ひとりにしないで。オリヴィアを、置いていかないで。
少女N:…ママは、何も言わなかった。
◆◆◆
少女N:次の日、わたしの部屋のドアが叩かれた。パパとママだ!とおもったけれど、ドアを開けたら知らない人が立っていた。みんな、同じ帽子と同じ服を着ている。お客さんはこの部屋を知らないはずだった。わからないでいると、ひとりのひとが、わたしと同じくらいの高さにかがんで「君は、オリヴィアちゃんかな」と聞いた。「はい、そうです」でも、なんでわたしのなまえを知っているのだろう?するとその人はわたしの手を引いて、家の外に連れ出した。
少女N:あか、あお、みどり。初めて出た外は、ふしぎな匂いがした。キャンディとか、チョコレートとか、そういうものみたいな匂いじゃなくて、ツンとする感じがした。きいろいおはなに、とりのこえ。あれは絵本で見たことがある!くるまって、こんなに大きかったんだ。知らない男の人は、わたしをくるまに乗せると、やさしい声で言った。「君のお父さんとお母さんは、遠いところに行ったんだ。」と答えた。なぜか、かなしそうな顔をしていた。
少女N:「宿屋に泊まりに来たお客さんから通報を受けてね。駆けつけたら、リビングでふたりが倒れていた。怖い話だが、キッチンに、毒入りの瓶が見つかってね。実は、……この宿屋に泊まった客に、行方不明者が何人かいる。もしかしたら連続殺人を怪しまれていたふたりが、一家心中を目論んだのかもしれない。こんな森の奥の宿屋だからね、経済難かと睨んでいたが……まあ、君は知らなくていいこともある。オリヴィアちゃん。君だけでも助かって本当によかったよ。」
少女N:……キッチンに、毒入りの瓶。わたしがふたりのマグカップに入れたあれは、お砂糖じゃなくて、毒だったんだ。「わたしがふたりを……」ころしたのに。ことばが、のどにつまって出てこなかった。「そんなに自分を責めなくていいんだ、オリヴィアちゃん。君を預かってくれる孤児院があるらしい。やさしいひとたちが、君をまもってくれるからね。」男の人はそう言った。
少女N:ちがうのに。ちがうのに。わたしが、パパとママを……。
少女N:大好きなパパとママを、オリヴィアが殺したの!
◆◆◆
少女N:それから私が連れて来られたのは、聖サントシロワ修道院というところだった。大きくて立派な修道院だ。周りは森に囲まれていたが、日夜、多くの人が訪れた。巡礼者に行商人、浮浪者に病人。私のように、行き場を失った孤児の面倒も見ているようだった。私が初めて修道院を訪れた日、司祭は笑顔で私を出迎えてくれた。
少女N:まだ幼かった私は、彼らをいいひとたちだと思った。「神は貴女に試練を与えましたが、いずれ乗り越えることができるでしょう。心身、清らかにいれば、必ず救いが訪れます」その声はとてもおだやかで、やさしかった。きっとそうであればいいと思った。ほかの修道女たちもみな一様にほほえみ、私を迎えてくれた。
少女N:司祭は言った。「大いなる愛徳のために、他者と協力し、重荷を負い合い、忍耐力を養うこと。Deus videt te non sentientem.(汝が感じなくても、神は汝を見ています)。さあ、沈黙し、祈り、労働を捧げましょう。肉体と精神を
少女N:朝3時の起床、夜8時半の就寝。1日に7回の祈祷を捧げ、空いた時間は農作業や酒類の醸造、病人の手当、読書に勤しむ。清貧、従順、貞潔の誓いを立てて、祈りと労働の日々を送った。
◆◆◆
少女N:しかしある時、私は見てしまった。作業部屋に戻る途中。荘園領主と司祭と司教が豪華な食卓を囲み、談笑に興じているところを。
少女N:「オリヴィア。駄目じゃないか、こんなところに来ては……だが、ちょうどいい。みなに紹介しよう。この子は年端も行かぬ頃に両親を亡くし、以後この修道院で仕えている。私たちの娘も同然です」「ああ、なんと可哀想な小娘。慈悲深い我々が富と恵みを与えてあげよう」「かくも世は無常なり。我らのお陰で君たちの人生がある。運命と我々への感謝を、ゆめゆめお忘れなきように」
少女N:「いいねオリヴィア。世の中には、知らない方がいいこともある。……今日見たことは、みなには秘密だ。聖職者の務めは、沈黙であること。わかるね?さあ、部屋に戻るんだ」そう言って司祭は、大部屋に戻っていった。
少女N:その背中に抱く激情すら、私は馬鹿馬鹿しいと思った。それよりも、信仰を裏切られたことに衝撃を受けていた。司祭は自分の地位と権力のためだけに、修道院を利用していたのだ。彼の言葉に、この場所に、愛も慈しみも存在しない。これまで捧げてきたすべてのものは、彼らの自己愛のために、ただ費やされていたのだ。
少女N:湧き立つ憎悪とは裏腹に、私の目から涙がこぼれた。確かなのは、回廊から差し込む眩しい月あかりだけだった。月はいつでもそこにある。…だが、どれほど祈っても届かぬだろう。……私の神は、もう死んだ。
◆◆◆
少女N:ある日、私は修道院を抜け出した。偽善者の説教ほど聞くに耐えないものはない。自分へと罰だとしても限界だった。この人生にもう、疲れてしまった。きっとこれが絶望というものなのだ。あてどもなく道を往く。死への隘路に縋るように、森の奥へと踏み入っていく。足を止めることはなかった。
少女N:私の足には無数の擦り傷と切り傷ができ、血を流していた。熱をともなう患部に、自身の生命力を感じる。私はいったい、なぜ生きながらえているのか。そう。そうだ。生まれてこなければよかったのに。どうしようもない運命を笑い飛ばしてやりたかった。それなのに、心を無視して涙が出てくる。なんのために生きているのだろう。なんのために泣いているのだろう。こんなことなら、いっそ魔物の餌になってしまおう。跡形もなく食われてしまおう。
少女N:そうして、鼻を突く泥臭い土の上に思い切り寝転んだ。見上げる空は、私が知っている空より何倍も広かった。燦々と輝く月が出ている。かざすように手を伸ばしても当然、月には届かない。…そんなことは、もうとっくに判っていたことではないか。愛など存在しないことも、神など居ないことも、運命に見捨てられたことも。もう、抱える望みなどひとつもない。──このまま、永遠に目が覚めなければいい。そう思いながら瞼を閉じた。
◆◆◆
少女N:どれぐらいそうしていたのだろう。遠くから鳴り響く鐘の音によって目が覚めた。いつの間にか気を失っていたらしい。昨夜は冷えたはずだったのに、ほんのりと身体は温かい。服には純白の羽が付いていた。鳥が私を此処まで運んでくれたのか。記憶と異なる情景に辺りを見回すと、白い墓石が並んでいる。おそらく此処は墓地だった。小さな獣のような魔物が近寄ってきて、しかし危害を加えてはこなかった。ただじっと、丸い瞳でこちらを見つめてくるばかり。匂いを嗅いで、頬ずりをして、戻っていくものもいた。
少女N:生きている。死んだも同然だった私は、魔物に囲まれ生きている。これは、試練か救済か。それとも、死ぬことも赦されないというのだろうか。この身を以て、贖罪を続けていけということなのだろうか?
少女N:ふと顔を上げると、見知った形の建物が立っていた。荘厳な屋根の天辺には、羽の生えた彫像が飾られている。両開きの扉をくぐると、そこは聖堂だった。行き着く先が教会とは何たる皮肉か。待ちわびた安寧に喜びを感じるはずの心は、疲労と絶望に擦り切れてしまって、もう何も感じなかった。
◆◆◆
少女N:聖堂内のいたるところに、紋章が刻まれていた。聖ジルベディオ大聖堂。この土地を護る
◆◆◆
少女N:月あかりの綺麗な夜だった。荒れた床に四肢を擲って天井を見る。色鮮やかな模様が浮き彫りに見えた。天使の形を象った七色のステンドグラス。月明かりを吸い込んで、光が水面のように波打っていた。
少女N:私は想像する。もし此処が水底だったなら、どんなにかよかっただろう?海の底に溺れることができたなら。心臓を突き刺され、鼓動が止まっていくのなら。毒に侵され、身体が蝕まれていくのなら。切り刻まれて熱にうなされ、この身が滅んでいくのなら。
少女N:……閉じた瞼に思い浮かぶ絶望は、希望のない私の心を慰めてくれた。──それからどれくらい経過したのか。数分、数秒、あるいは数時間かもしれない。正面から近付いてくる何かの足音で目が覚めた。身体を起こして、その影に目を凝らす。
少女:……犬?
人狼:……。
少女N:それは大きな狼だった。暗闇の奥から刺すようにこちらを見つめる鋭い眼光。頭から尾までを覆う赤茶色の毛が、逆光に輪郭をつくっている。私の体格よりも倍ほど大きい。しかし動く気配はなかった。…私には、彼の迷いが感じて取れた。行き場を失った者のみが知る諦念を、幸い私はよく知っていた。
少女:居場所を探してるの?似た者同士だね、私たち。
人狼:……。
少女N:だから私は手を伸ばした。彼を招き入れるかのように、両腕を大きく広げる。その牙を誘うように「こっちにおいで」と小さく言うと、ようやく彼は一歩を踏み出した。そのまま私の中に収まる。それでよかった。そのまま、私を噛み殺してくれたらいいと思った。瞼を閉じて、彼をやさしく抱きしめた。
少女N:そのときだった。肌を通して、生きた獣の体温を感じた。皮膚を覆う長い毛に、呼吸をするたび上下する肩。噛みつかれることも、吠えられることもなかった。ゆっくりと目を開けると彼の金色の瞳が、月あかりのように輝いていた。
少女N:彼の瞳の中で、私は確かに、まだ生きていた。彼は私を映したまま、ゆっくりと目を閉じた。その所作に釣られるように、私の瞼も降りていく。──…そして私たちは、寄り添い合うようにして眠った。
◆◆◆
少女N:次の朝。目が覚めたとき、彼はいなくなっていた。わずかな生命の重みと、温もりだけが残っていた。どうやらまた生き長らえてしまったようだ。昨晩、自分を映した彼の瞳が、ひどく印象に残っていた。満月のような色をした、鋭い瞳。物も言わず、静かに寄り添ってくれたこと。それは、僅かな正気を取り戻すのに充分だった。
少女N:私は沈黙し、祈り、労働を捧げた。肉体と精神を闊達に保ち、人としての揺るがぬ価値を損なわないこと。朝3時の起床、夜8時半の就寝。1日に7回の祈祷を捧げ、空いた時間は農作業や清掃、読書に勤しんだ。清貧、従順、貞潔の誓いを立てて、祈りと労働の日々を送った。
少女N:教会にはあらゆる人々が訪れた。彼らは自らの罪を懺悔した。私は彼らの話に沈黙し、祈祷を捧げた。…私は本来、人を裁けるような人間ではない。多くの人の命、両親の命を奪った自責の念を晴らすつもりは、毛頭なかった。私は
少女N:私の前ではすべての命が平等だった。どんな
少女N:ああ、神よ。彼らを憐れみ、救いたまえ。
◆◆◆
少女N:
少女N:彼の瞳が私を見ていた。居場所をさまよい歩く彼、求められるがまま、私は差し出す。その一瞬に瞬いたのは、救いへ導く月あかりのような色。
少女N:彼と出逢って、知らない歳月が過ぎていく。やがて、日々をともにする彼が私の居場所になった。紛れもない、私にとっての救世主。…そんな彼を、私の代わりになど絶対にさせたりしない。これは犠牲や対価などでは決してない。彼に捧げる、私の
少女N:冴え渡るような黄金が、ずっと私を見つめている。引き寄せるように手を伸ばす。…ようやく届いた月あかり。あたたかくてやさしいひかり。貴方は、…貴方だけは、さいごまで、わたしを見てくれていた。
少女N:貴方が見つめるまなざしが、私の名前を呼ぶ声が、触れてくれる体温が、…私の心に融けていく。…ねえ、リカルド。次に目が覚める時もきっと、貴方の隣に在れますように。
(終話)
融和性アルカディア - 第12.5話
少女: