――名前。
 広いお屋敷のなか、わたしを呼び捨てで呼ぶ男の人はひとりしかいない。
 だから、姿を見なくても呼んだのが誰なのか、すぐにわかった。
 くるり、振り返った勢いで高い位置に結われた髪がひるがえる。短く切ってしまえば結う必要はないのだけど。今のところその予定はない。
「博臣にいさま」
 お呼びですか。首を傾げて疑問をしめす。にいさまが、他の誰でもない名前に用事があり、こうして呼び止めるのはとてもめずらしいことだった。
「…泉姉さんは一緒じゃないのか」
 こくり、ひとつ頷く。もしかしてねえさまに用事があったのだろうか。それならば納得がいく。でも、にいさまのあてはこうして外れてしまった。
 せっかく来てくださったのにそれは申し訳ない。考えて、すこしでもお役に立てるならばと口を開く。
「ねえさまに、何かあれば掛けてと言われている番号があります」
 けれどにいさまはその言葉を受けて、良かったという顔ではなくはっきりとした苦笑いを浮かべた。
「その電話が許されるのは、どこを探しても名前だけだろうな」
「…?よく、わかりません…」
 出掛ける間際のねえさまを思い返しても、怒っているようには見えなかった。電話を掛けたくらいで怒るほど機嫌はわるくない、はずなのに。
「お前専用というわけだ。よかったな」
 それに俺の目的は泉姉さんじゃない、と博臣にいさまは言う。どういうことかわからなくて、無言でただただ見上げた。
「姉さんは…念のための確認だ。とりあえず名前に話がある」
「はい」
 にいさまと名前にはすこし距離がある。だから、首が痛くなるほど見上げなくていい。にいさまは、とてもとても背が高い。けれど、背だけではない。
「名前。お前にお見合いの話が来ている」
 ──名前なんかよりとても大人で、わたしの知らないことをたくさん知っている。それが、名瀬の当主になったにいさま。

 てん、てん、てん、まる。
 目をまるくするわたしと、なんとも言えない表情のにいさま。
 お互いの間に、沈黙が走った。

 お見合いがなんたるかは知っている。結婚する前にお付き合いする前に、人と人が知り合うきっかけとなる場。
 結婚を前提に、おつきあいしましょうって。そういうものだと認識していたけれど。
 …名前、が?
 わたしに、お見合いのお申し出が。
 わからない。
 お見合いと名前が結びつく理由。本来、関係ないはずなのに。だって名前は、みんなと血が繋がっていない。本当の意味で名瀬の人間にはなれない。それなのに。
「選ぶ権利は名前にあるが…どうだ?」
 どういう感情が含まれているのか、一切読めない眼差し。
 わからない。どうして名前に。
 まったくわからない。どうして。
 それでも、答えはすでに決まっていたから。
「ごめんなさい、博臣にいさま。…名前は、その申し出をお受けできません」
 頭を下げて言葉を待つ。どうして。疑問は尽きないけれど、なにひとつわからなくとも話は進むし、会話だって続くことを知っていた。
 しばらく無言を貫いていたけれど、ふとにいさまの雰囲気がやわらかくなる。
「だろうな」
 あっけらかんと言い放って、博臣にいさまは肩をすくめた。
「いくら俺でも受けるとは思ってないさ。無理に受けさせる気もない」
「え、」
 ならば、何故。
 疑問符ばかり次から次へと浮かんでいく。わからない。お申し出も、にいさまの行動も。
 押し黙っていると、にいさまはいたずらめいた笑みを浮かべた。
「形式上伝えただけだ。そんな怯えられたらお兄ちゃんは悲しいぞ?」
「…にいさま」
 こういうとき、他の方ならなんとおっしゃるのだろう。なにも言葉が出てこない名前は、どうしたらいいかわからない。

 瞳を伏せて、話が進むのを待つ。それしか方法を知らないから。
「例えばの話だが」
「はい」
「好きな奴が出来たら、いつか結婚したいと思うか?」
 ぱちり。
 にいさまの言葉は、いつだって名前の予想を超えていく。
 けれど、これも結論はとうの昔に出ていた問いだから。ふるふると首を振り、答えを返すまでにそう時間はかからなかった。
「いいえ。…名前は、どなたのもとにも嫁ぎません」
 折れない意思で言い切れる。
 どなたのもとにも嫁がない。それは、一生変わらない名前だけの誓い。
 嫁ぐことはない。
 願うこともない。
 望むことが、ゆるされた相手ではないから。
「そうか」
 博臣にいさまは、微かに苦笑を浮かべた。
「それなら、何処の馬の骨かもわからん奴に取られる心配はないな」
「馬の骨、ですか」
 にいさまのたとえはよくわからない。名前は馬と仲良くありません。
「まあ、結婚する気がないのだとしても構わん。俺は可愛い妹が幸せだと言ってくれたらそれで十分だからな」
 結婚。にいさまの言葉が頭の中を駆け巡る。
 おんなのこのあこがれ。
 それなら、"おんなのこ"のあこがれを夢見ることすら許されない名前は、わたしは、なんなのだろう。
 おんなのこではないのだろうか。
 いっそ、本当にそうならまだ夢を見ていられたかもしれない。わからない。
 何度考えても答えの見えない問い。わからない。…わからない。

 それでも、確かにわかることがある。
 にいさま。名前は、にいさまに謝らなければなりません。
 博臣にいさまと美月ねえさまに、謝らないといけないことがある。

 名前は、一生愛をつらぬきます。

 それは、名前だけの秘密。
 それは、名前だけの誓い。
 他の誰も知らない、名前だけの隠し事。
 ごめんなさい。…にいさま。
 そんな名前を、ゆるさなくて構いません。間違えていると知りながら、それでも愛を貫くのだから。
 まちがえたあい。それは、正す気になれない名前の罪。ただ、好きになってしまった名前の業。
 博臣にいさまと美月ねえさまの大切なねえさま。大切な大切な、ねえさま。
 謝らなければならない。けれど、言葉にしてはいけない。
 だから、この感情も名前だけのもの。罪悪感だけが昇華されるなんて、あり得てはいけないから。

 あいしています。誰にでもゆるされた、ひどく軽い言葉だったらよかったのに。そうしたら、一度くらい告げることがゆるされたかもしれない。
 言うつもりなんて、これっぽっちもないというのに。
 叶わぬゆめばかり、思い描いてしまう。

 にいさまは、しあわせなのですか?
 さっきとは逆に、こちらから問い掛ける。にいさまは驚いた様子も見せず、口を開いた。
「ん?…そうだな。泉姉さんがいて、美月がいて、名前がいる。だから俺は満足だ」
「……それなら、名前も、…です」
 にいさまは、しあわせ。にいさまの、しあわさ。
 泉ねえさまがいて、名前のにいさまねえさまたちがいて。だから、きっと、名前もしあわせなのかもしれない。

 しあわせって、なんだろう。

 人それぞれなんて、そんなのわからない。わからない、わからない。投げ出されても、応えられない。答えを持ち合わせていない。…わからない。
 だからお願い、にいさま。
 ──幸せの定義を、名前に教えて。

降りしきる涙