今まで生きてきて、自分をしあわせだと思ったことはなかった。恵まれている、とは思う。なぜなら、生きる場所も目的もはっきりと答えることができたから。でも、しあわせとはなんなのか。ずっと知らなかった。そんなこと、考えたこともなかった。
 ──むかしの、話。
「ねえさま、名前は買い物に行ってまいります」
 海が一望できるテラス。本を読む泉ねえさまに声をかける。ねえさまは物音ひとつ立てず本をテーブルに置いた。ガーデンチェアから立ち上がる所作でさえ洗練されていて、ほんのすこしみとれてしまったことはわたしだけの秘密。
「私も行くわ」
「はい、ねえさま」
 いつものように返事をすると、ねえさまは微かに苦笑を浮かべた。
「いつまであなたは私に従うつもりかしら」
 私はあなたが信じた"名瀬泉"ではないのよ、とねえさまは言う。意識しての発言ではなかっただけにすこし、黙り込んだ。けれど何度考えても答えは同じ。
「名前は、名瀬家のねえさまも、今のねえさまも、お慕いしています」
「…そう」
 すこし考えるそぶりを見せて、それでもなにも言わずねえさまは一度だけ頭をなでた。遠ざかる背中。追いかけるようにあとに続く。
 ねえさまがなにを考えていらっしゃるのか、わたしにはどうしてもわからない。


 *


 ねえさまは、実は金銭感覚がずれている。すこし、の枠には収まらないほど。おそらくだけど、物を選ぶ基準に価格は含まれていないに違いない。高級志向とは違う。安くても高くてもお値段にかかわらず、ほしいと思ったものを手になさる方。
 いつだって揺るがないから、どんな場所に居ようと凛と佇む姿は様になりすぎていた。それは今日も例外ではなく。
「何を買うの?」
「名前は夏用のカーテンがほしいです」
 手を伸ばすと、水色のワンピースがふわりと揺れた。冬用に買ったカーテンは生地があついから、夏には不向き。これから梅雨を経て日増しに暑くなっていくから、その前に揃えておきたかった。
 ぐるりとあたりを見渡すねえさまは、特にこだわりがないらしくなにも言わない。
 わたしとしては、ドレープはカーテンで用意して、水色のカラーレースをバルーンシェードにしたい。キッチンにはウッドブラインドもいいかもしれない。そのために妖夢石を売ったお金、貯めたから。
 好きなものを好きなように選べる。それは今までにない経験。ねえさまと二人、暮らすようになったからこそ叶うゆめ。

 買うものを決めてレジに向かうと、書類を書くことになった。配送手続き、らしい。けれど、わたしが書くより早くねえさまがペンを取って記入する。あ、と驚く暇もない。
 端正な横顔。視線を紙に据えたまま、ねえさまは問いかけた。
「名前、取り付けは?」
「します」
 二人だけのお城だから、できる限り知らないひとを入れたくない。それはねえさまとわたしの共通意識。もっとも、ねえさまがどうお考えなのかはわからないままだけど。だからわたしにできることはわたしがやる。
 見ている間にあっさり手続きと支払いを終え、買い物は無事終わってしまった。手際の良さはさすがねえさまとしか言いようがない。


 *


 帰り道、ふと名前を呼ばれて立ち止まった。カーテンは配送を頼んだから荷物は増えていない。
 お呼びですか、声には出さず様子をうかがう。
「名前」
 ふたたび名前を呼ばれて、ねえさまを仰ぎ見た。いつも通りうつくしく微笑んでいらっしゃる。
 周囲に人はいない。それもそのはず、このあたりに住んでいるのなんてわたしたちくらい。人が通るはずがない。
「おいでなさい、名前」
 ねえさまが言う。導かれるままに近づくと、突然浮遊感がおそってきた。ひっ、と目を閉じてそばにあるあたたかさにしがみつく。
 不安定さに慣れ、うっすら目を開ける。いったいなんだったのだろう。

 ──飛び込んできた光景に、絶句した。

 近い。ねえさまが近い。ほんとうに近い。同時に浮遊感の正体も判明した。
 抱きかかえられているのだ。
 カップルが時折していそうな、そうではないような、わからない。ただ、わたしはねえさまによって抱えられていた。
「ね、ねえさま…!?」
 とっさに握りしめていたねえさまの肩から手を放す。がくんと体勢が不安定になり、すぐさまねえさまに支えられた。
「暴れると落ちるわよ」
 やんわりなだめられて、ぴたりと動きが止まる。動きを止めたことでばくばくと鳴り響く鼓動が伝わってしまわないか、顔がまっかに染まっていくのがわかった。
「ねえさま、名前は歩けます…っ」
「ええ、そうね」
 あ、あの…と単語にならない言葉が洩れていく。すこしでも負担にならないようように自分で支えようとすると、ねえさまがくすりと笑うのがわかった。それすらも間近すぎて心臓にわるい。
「大人しくしてなさい、そういう気分なんだから」
「…はい」
 おそるおそる力を抜く。常日頃武器を振り回しているからかびくともせず、ねえさまは歩みを進めていた。
 いつもより高い視界、近い距離。普段見ることのない高いところからの景色。なにより、そばにねえさまがいらっしゃるのだと思うと無性に安心して、気が抜けたような笑みを浮かべてしまう。
 そんなわたしをみてねえさまが笑った。かつてみんなの前で浮かべていたのとは違う、やさしい微笑み。ねえさまが笑ってくださるのがうれしくて、ふふっと今度こそ笑顔が洩れる。
「あなたはそうやって笑っていなさい」
 ねえさまが、やさしい声でそう言った。

 今まで生きてきて、自分をしあわせだと思ったことはなかった。恵まれている、とは思う。なぜなら、生きる場所も目的もはっきりと答えることができたから。でも、しあわせとはなんなのか。ずっと知らなかった。そんなこと、考えたこともなかった。
 ──むかしの、話。

 つらくても、さみしくても、生きるのをやめてしまってはいけないのだと知った。そのあとに見える未来は、しあわせに満ちているかもしれないから。
 今のわたしは、誰がみてもこう言うのだと思う。
 しあわせです、と。 

涙に寄り添ひて