雪が融け、寒さほころぶ春の日だった。

 近付くなという圧力をこれでもかという程に撒き散らす後ろ姿。普段よりずっと小さく見える背中に声を掛ける。ここからは判断できないけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない。そうではないかもしれない。
 なんにせよ、笑ってはいないだろうなと思った。かと言って静かに落ち込む彼女は想像がつかない。想像したくないだけだと言えばそれまでだ。
「馬鹿だねぇ」
 努めて出したいつも通りの声色は、本当にいつも通りと言えるものだっただろうか。舌打ちしたい衝動はぐっと押し込めた。動揺が看過されるといいのだが。言動ひとつ取り繕えないとはアイドルが聞いて笑わせる。
「……うるさいわよ」
 不機嫌そうに振り返った彼女は見るからに参っていた。俺の調子に違和感を覚える余裕などどこにもなさそうで。自分を保つのにいっぱいいっぱい。それでもかろうじてと言うべきか、泣いてはいなかった。
 言葉を省いても成り立つ会話。それは自分たちが積み重ねてきた数年間の最たる功績と呼べるだろう。
 顔を見れば言いたいことは大体伝わるから。考えていることは凡そ読めるから。そうやって互いの理解者を自負することにももう慣れた。
 けれど。
 どんなに意思疎通が取れていようと、別の個体である限り100%を汲み取ることは叶わない。現に彼女が俺の考えを当てることは不可能だ。何があろうとも絶対に当てられない自信があった。
「何しに来たのよ、いずみ」
 胡乱げな眼差しはともすれば他人を竦み上がらせる類のものだろう。慣れすぎた自分には一切関係ない話だけれども。
「お馬鹿さんを迎えに来てあげたの。感謝してよねぇ?」
 惚れたのだと言っていた。
 惹かれたのだと言っていた。
 好きで、好きで、どうしようもなく好きなのだと。あの男の作る曲が世界で一番好きなのだと笑っていた。俺とて理解できない感情ではないからわかる。自分のことのように、あるいはそれ以上に誇らしげに語る彼女が嫌いではなくて。
 それが恋なのか、愛なのか。問う必要はなかった。問うても無意味に傷つけるだけ。どちらでも良いのだ、惚れ込んだことに変わりはないのだから。
 目の前の彼女は、あの男に惚れてしまったことを後悔するのだろうか。今はそんなこと考えられないかもしれないけれど、いつの日か。好きになってしまった自分を悔いることがあるのだろうか。後悔しないだろうな、と思う。後悔しないでほしい、と願ってしまう。
 恋なんてものは面倒だと、こういうときに痛感するのだ。次から次へ理想の押しつけが生じてしまう。生じる理想に際限がないからこそ手に負えない。
「迎えなんて頼んでないわ」
 予想通りの返答には薄く笑ってしまった。わかりやすい。彼女なら絶対にそう言うだろうという自信があったから、返す言葉はとっくに用意してあった。意外でもなんでもない話、彼女はとてもわかりやすいのだ。
「俺がそうしたかっただけ。悪い?」
 畳み掛けるように問えば、ほんのわずか目が瞠られた。そんなに意外だっただろうか。……そうかもしれない。けれど仕方ない話だろう。
「……悪くは、無いけど。らしくないわね」
 肝心な彼女がこの調子なのだから。それにしても気まずそうに目をそらすだなんて芸当、一体どこで覚えてきたんだか。
 決まり悪げに呟く彼女の様子こそらしくないだなんて、わざわざ指摘するほど無粋ではない。今だけは見ない振りしてあげる寛大な心に感謝するべき、とは思うけれど。
 彼女には言えないことがある。
 絶対に言えない、残酷な現実。俺とあいつの内緒の話。
 一生仕舞って伏せて生きていく代わりに、抱える秘密のひとつを明け渡してしまおうか。こっちの秘密は俺だけのもの。生かすも殺すも俺次第なわけで。困らせることこそあれど、傷つけることも泣かせることもないと知っていた。
 困ればいい。気が紛れるなら。少しでも逃げ道が作れるなら。
 いくら砕け散った恋心の前でうずくまったところで、傷は癒えてくれない。叶わないならやめてしまえばいい。壊れたものは二度と同じ形には戻らない。他でもない彼女が知らないはずがない。
「あのさぁ」
 微妙な距離をあけ、彼女の双眸が自分を向くのを待つ。
 なに、と薄いくちびるが動いた。新色のリップを買ったのだと最近機嫌良さそうにしていたけれど、男子の割合が圧倒的に多いこの学校でよく毎日手を抜かないものだと賛辞を送りたくなる。自分たちが着飾るのは当然だ、身体が商売道具なのだから。惜しみなく全神経を集中させ、全力を費やしてコンディションを整えるべきだと思っている。けれどプロデューサー科である彼女の装飾は、あえて冷たい言い方を選ぶなら自己満足だろうに。一体、何人が彼女の努力に気付いているのか。例え気付かれなくとも、それを理由に止めることなど有り得ないのだろう。だからこそ俺は。俺、は──。
 否、そんな理由は完全に後出しだ。始まりなんてわからない。きっかけなんて覚えていない。気付いたらそこに在り、抑えるのに苦労するようになったのだ。自在に操れる類のものなら一瞬で消し去ってしまっただろうに。
「……もう、やめたら?」
「は?」
 訝しげに細まる瞳。
 俺たちが、何故言葉での対談を止めないのか。それは言葉なしでは伝わらないことまで伝えたいと願うからだ。伝えられることは余さず伝えてしまいたい。そのために会話は必要不可欠だというのなら、駆使することも厭わない。余計なお喋りなんて趣味じゃないというのに。
「生きづらいでしょ、そういうの」
 負けず嫌いでプライドが高くて誇り高い女の子。自分にも他人にも妥協したがらなくて、掛ける言葉がきついものだから誤解されやすくて。実は密かに友達がいないことを気にしている子。
 そんなこの子の在り方がいつだって嫌いではなかった。一度気付いてしまえば、もう、歯止めは効かなかった。
 わからないでしょ、俺の考えていること。俺と彼女は別個体、異なる考え方を持つ人間。言わなければわからない。けれども裏を返せば、言いさえしたら伝わるのだ。受け止める受け止めまいに拘らず。
「いずみ」
「だから、」
 反論しかけた彼女を制するように言葉を被せる。聞かないよ、だから聞いていて。そのあと望むなら好きなだけ言わせてあげるから。
「……だから、俺にしておけばって言ってんの」
 ひゅ、と息を飲む音がした。
 結局彼女は何を言おうとしたのだろうか。いくら言い終わろうとも言葉が紡がれることはない。
 身動きすることなくこちらを凝視してくる彼女をそのままに、大きなため息を吐いた。決めたのは俺だけど、今までの甲斐甲斐しい努力が一瞬で水の泡だ。
 頭の隅、どこか醒めたところでほらねと思う。
 彼女は知らなかった。わかっていなかった。そんなこと、ずっと前から知っていたけれど。今更ショックを受けることでもない。
 あいつに惚れていたことは知っている。本人から聞く前から察していた。だから圧し殺してきたのだ、決して気取られぬよう。この反応はそんな涙ぐましい献身の成功を意味していることに他ならない。若干腹立たしい感は否めないものの。
「……何、なんで」
 石像化から解放された彼女は混乱しているらしい。とはいえなんでと言われても。理由があれば何かが変わるというのか。そうではないだろう。
「理由を言えば納得するわけ?」
 試すように言えば、いいわ、と常より小さい声で制止の声が掛けられた。頬が、目もとが赤く染まっている。それだけで気分が良くなるのだから男なんて本当に単純だ。見たことがない表情なだけに心が満たされた気さえしてしまう。
「……馬鹿だよねぇ、ほんと」
 あいつも、彼女も、そして俺も。みんな馬鹿としか言いようがない。けれど馬鹿と一緒にいるためには馬鹿になるしかない。そんなこと、随分前にも考えた気がする。あれはいつのことだったか。
「その……そうだわ、いずみ。夢の国に行きましょ?」
 何を言い出すのか突然。赤くなった頬をそのままに、彼女ははにかむように笑んだ。……やっと、笑った。
「いいけど。しばらくは忙しいから予定合わないんじゃない」
「それでいいわ。……そのときまで、……そのときも、その、私のことを好きでいてくれたら……そしたら、もう一度言って」
 ──夢の国で。
 突きつけられた"お願い"に思わず頭を抱えたくなる。何を言い出すんだかこの子は。人の告白を勝手に保留にしておいて、もう一度言えとは何事だ。しかも場所指定付きで。
 ……ああ、そうだった。
 以前彼女と二人、夢の国に行ったことがあるんだった。あいつや彼女、そして何より俺を馬鹿だと思ったのもその時だ。何が悲しくて恋人でもない相手と二人で行くんだと呆れたことを覚えている。
「……俺に何させるわけ」
「い、いやならいいわよ!?」
 わたわたと慌てる様子は思い返しても物珍しくて、面白いものを見た気分になる。どちらかと言えば振り回すタイプの彼女が自分の手で振り回されているのはなかなか悪くない。これは新しい発見だ。
「いいよ、予定が空いたらね」
「……空けてくれる?」
 さすがに当然でしょ、とは言えなかった。そんな言葉を素直に告げられるほど純粋には生きていない。俺にもプライドというものがあるわけで。
 少しは失恋のショックから立ち直れただろうか。少なくとも、今の彼女が塞ぎ込んでいないだけ良しとしておこうとは思うけれど。
 伝わっているならそれでいい、だなんて聞き分けのいい振りをした。繋ぎ止められるならそれでも構わない。気持ちの切り替えに時間を要することなんて、恋愛経験の薄い俺でさえわかることだ。
 例え告げる日が来なかったとしても幸せになって欲しいと願える相手だから。笑顔でいて欲しいと思うくらいには絆されきっている相手だから。
 昔から綺麗なものは好きだった。
 そんな俺にとって、綺麗なものそのものである彼女を眺めていることに苦労は伴わない。
「……ねえ、いずみ」
 ふと、何かを思い出したかのように彼女は俺を仰ぎ見た。
「ん」
 続きを促せば、なんとも言えない表情を浮かべた彼女が訊いてくる。
「美しくない私になっても、愛してくれる?」
 途端、脳裏を過ぎるやりとり。どうして覚えているのか。お互いに。
「……馬鹿じゃない、ほんとに」
 誰が馬鹿か。そんなの決まっていた。恋は叶わないからこそ美しいだなんて、八つ当たりのように言葉を投げつけた過去の俺以外に誰がいるというのか。

愛し心に来るゆきげ