ぱちり。

 音が聞こえそうなほど目覚めは快適だった。
 眠ったのが遅かったわりには倦怠感も薄い。目覚めのいい朝だなあ、と、そう言いたくなるほどには目が醒めていた。
 今日の天気はどうだろう。せっかくいい気持ちで起きたのだから、晴れていたらいい。
 そう考えながら窓を見ようとして──身動きが取れないことに気づいた。ようやくそこまで現状把握が追いついたというのが適切かもしれない。ここは私の部屋ではないし、私一人で眠っていたわけでもない。そうだった。徐々に昨夜の意識が鮮明…とまではいかずとも、よみがえってきた。
 顔をあげると視界に入る黒色。彼をかたちづくるその全てに、一瞬、呼吸の仕方がわからなくなるような錯覚を覚えてしまう。こうやって朝を迎えるのは何度めかわからないというのに。全く以て懲りないことだ。
 まるで外敵から私を守るように引き寄せて、覆うように、包むように、眠っているうつくしいひと。
 私よりずっと寝起きがよろしくないひとだから、今この時間も眠りに就いていることは何ら不思議じゃない。ときどき寝過ごした場合はこのひとの方が起きるのも早いけれど、でも、今日の数少ない一日オフに起きる必要はどこにもないわけで。だから、眠っているのはいい。
 でも。
 ずるいなあ、と思うのだ。いつもならひたりと前だけを見据えている意思の強い眼差しは、長い睫毛に縁取られた瞼の裏に隠れている。大きなライブも無事終えて、ようやくひと息付けるかなというところ。だからかもしれない。いつもよりやわらかく、無防備な寝顔はどんな宝石よりうつくしい。この世のものとは思えないほどに綺麗なのだからずるいのだ。
 起きているときも、眠っているときも、一瞬たりとて惹きつけては離してくれない。
 かっこいいなあ。
 こころの内に秘めたはずの言葉は、もしかしたら声に出ていたかもしれない。どっちでもいい。これくらいで起きるようなひとではない。
 抱え込むように伸ばされた腕にそっと触れ、ゆっくりと身体から離していく。名残惜しい気がするけれど、私はもう起きないとだめだから。だから仕方ない。
 今の私は知っている。望めば、いつだって伸ばされる指があることを。だから寂しさこそ覚えても、再び与えられるぬくもりに想いを馳せることが出来るのだ。そんなことすら知らなかったかつての私に根気強く、それはもう本当に根気強く教えてくれたのはこのひとだった。
「…名前?」
 身じろぐ気配とかすかに漏れた常より低い声。寝起きだと誰が聞いてもわかる。笑いながら挨拶と返事をし、ベッドから立ち上がった。起こすつもりなんてなかったのに。今日はどうしたんだろう。
「アラームなしでこんな時間に起きるなんて、珍しいですね!」
「…今、何時…」
 声を掛けたはいいものの、まだ半分は眠りから覚めていないとみた。もちろんそんなこと言ったら起きていると返ってくるに決まっているので、素直に現在時刻を告げる。眠たげにとろんと微睡むむらさきが、時間を聞いた途端きゅっと細まった。
「…早い」
 それだけ呟いて恨みがましく見上げてくる表情が本当に大好きで。不満そうなその理由は起きたのが私のせいだからとか、私だけ目覚め快適なのが納得いかないだとか、そのあたりだろうなあと目星をつけてみる。あのひとのように察することは出来ないから、まだまだ手探りだけど。理解していく過程すら、幸せのひとことに尽きるのだ。
 このひとが、始さんから王様になるまでの短い時間。私だけに許された特権だ。
「私はお仕事ですからね!」
 そうか、と返される言葉があまりにも眠気を含んでいたから、まだ寝てていいですよと言おうと思ったのだけれど。着替えようとシャツのボタンに手をかけて、思わずそんなことは頭からすっかり飛んでしまった。
「ちょっと始さん、あまりにも痕付けすぎじゃないですか!?」
 思わず抗議の声を上げる。始さんの目がちらり、私の上体に向いた。起きていなかったら揺さぶってでも尋ねていたかもしれない、と思う。なかにはどこにつけてるんですか!?と問い質したくなるものもあって、さすがに悲鳴にも似た声が漏れた。知っていたけれど。知っていたけれど!限度ってものがですね、あるわけですよ。聞いてますか?
 身体中に散らばる紅い痕、って言葉で説明するとたった一文なのに、実際はそれだけじゃ済むわけなくて。
 所有印とも言われるものを付けられるのが嫌いなわけじゃない。むしろ好きでもあるのだけど。意外と付けたがりなのだ、このひとは。気分にもよるだろうけど、そういう気分の日はとことん付けて満足そうに笑うから、絆されるしかない。…何度もいうけれど、所有されるの、嫌いじゃないし。じゃあ何が不満かって。
「私はひとつも付けられないのに、ずるいじゃないですか!」 
 始さんばかりずるい。何度目かわからない『ずるい』が零れた。ずるい。ずるい。ずるい。聞いてますか、と頬をふくらませる私に始さんは──ふ、と笑った。
 あれ?と思う。これは予想外かもしれない。朝からうるさいって逆に怒られるくらい考えていたのに。
 そうしておねむの王様は普段の何倍もゆるく、やわらかく、微笑んで。
「だったら、お前も付けるか?」
 俺だってお前に付けられるなら悪くない。と。
 いともたやすく、爆弾を投げつけた。
 ……、……はい?
 反射的にだめだ、と脳が危険信号を出す。始さんの言葉がぐるぐると渦巻いて、とりあえず、先に。先程の見解、謹んで訂正させていただきます。
 始さん、半分どころか9割ほど眠りから覚めていませんね。起きてるの1割どころかそれにも満たないかもしれません。
 自分がどんな爆弾発言をしているのか自覚もないのだと思う。だからこそ飛び出た言葉ではあったのだろうけど。
 そうして悲しき哉、私は自分のことをよく理解していた。始さんのファンたる私は、どんな寝言であっても冗談であってもそれに是で返せない。アイドルにスキャンダルは御法度。世の中何が起こるかわからない。見えないところに付けたとして、絶対に見られないという保証はどこにもないのだから。そんなの普段なら誰よりもわかっているはずなのに。寝惚けているから、限りなく理性が働いていない状態に近いから。だからこそ限りなく本音に近い言葉であることを正確に汲み取った上で、勢いよく毛布を被せた。
「もう、早く寝てください!おやすみなさい!」
 重い、というくぐもった文句は聞かぬふり。始さんが悪いから仕方ない。どうせしばらくしたら二度寝に戻るのだ。寒くて風邪を引くよりずっとマシということにして、赤くなった頬を隠すように着替えを手に取った。
「…始さん、ずるい」
 着替え終わった後、そっと様子を伺えば聞こえてきたのは規則正しい寝息。わかりきっていたそれに、覚えたのは安心と残念の矛盾めいた感情だった。いいけれど。今日はグラビの王様は休業だもん。…そう。今日は始さんオフだから、寝かせておきたいし。これ以上は私の心臓が持たないし。
 言い聞かせるように呟いて、さくっと自身にメイクを施す。こだわりが強い方ではなかったけれど、始さんが化粧品のCMに出るからといってこのシリーズ集めたんだっけ。発色も持ちもいいから今となってはお気に入り。すっかり愛用してしまってる。
 後は部屋を出るだけとなったその時だった。
 ふと、閃いてしまった。それはささやかないたずらと呼べるものかもしれない。
 鞄をドア近くに置いて、布のかたまりに忍び寄る。始さんの寝起きがよろしくないことも、そう簡単に起きないことも、…たまには例外もあるけれどあれはあくまでも例外であって基本的には起きないからそういうことにしておいて、始さんが朝を苦手としていることはおそらく他のひとよりもよくわかっているから。
 遮光カーテンのせいもあってか毛布を取り上げても起きる様子のない始さんに、ちょっぴり可愛いいたずらを仕掛けてみることにした。
 元はといえば、始さんが言ったことだもん。
 お邪魔しますね!とすこし前まで自分がいたその場所にもぐりこみ、一度だけ息を吐いて。相変わらずうるわしい彼は、寝ていても、白いシャツすらも様になっているからさすがだと思う。本当に、うつくしいひと。
 その白いシャツの、向かって右側。始さんにとっては左側の、胸より少し下あたり。ゆっくり、唇を押し付けた。
 …もちろん、お化粧をしていたので、唇には口紅が乗っている。というか、そうじゃなければ意味がない。
 たっぷり時間を置いて離せば出来上がったのはキスマーク。発色のいい口紅は、相変わらずの発色の良さを発揮して白いシャツを唇の形に染めてくれた。
 これならスキャンダルにもなりませんし、いいですよね、始さん!
 気づいたときの反応が気になるだけに見れないのが残念で仕方ない。でも、不思議と心は満たされていた。始さんも私に痕を残すとき、こういう気持ちだったのかな…なんて。違う気がしますけどね。私はそう何個もつけませんし。ひとつで十分です。
 私がいたずらを仕掛けているなんて夢にも思っていないであろう始さんは、相変わらず眠ったまま。どうせならわかりやすく頬につけておけばよかったかなと思わないでもないけれど、でも。どうせなら心臓のほうがいい。そうして、なかなか落ちなくて苦労してくれたらいい。その間、私のことを考えていてくれるんでしょう、なーんて、わがままですよね。
 今度こそ部屋を出て、誰にも見られないようにと鍵まで掛けておいた。ばかにするようなひとはいないって知っているけれど、こんな子供じみた戯れ、見られたら恥ずかしいじゃないですか。

 それじゃあ、行ってきます。
 おやすみなさい、始さん。

くれなゐの戀と愛