こんこん、ノックを数度。自分の部屋なのにノックをして入るのは、傍から見たら些か疑問を覚えるが。理由があるのだから仕方ない。そもそも見られなければ問題ないのだ、こういうのは。ドアノブを回せば見慣れた自室が目に入る。電気が消されたそれは時間が示す通り真っ暗で、人の気配を感じさせない。
居ないはずはないだろう。一直線に寝室に向かえば布団にくるまる物体一つ。予想はしていたものの、本当に寝ているとは。随分とはしゃいでいたから疲れたのだろうか。ベッドサイドの電気を付け、縁に腰掛ける。掛け布団を捲れば姿を現す寝顔にふ、と口許が緩むのを自覚した。…慣れてくれたな、と思う。
無防備な寝顔も、こうして布団に潜り込む気安さも、俺だけが手に出来ているのだと──言い切れないところは多大にあるが、それでも。手を伸ばそうと足掻かなければ手に入らなかった物だ。それを得ている今が、許されている現状が…俺は、嬉しいのだと思う。そう。言い表すならば嬉しい、のだろう。
燦然と輝く何物より、色鮮やかに万象を映し込む紅を見ている方がずっと良い。寝かせてやりたい気持ちを一度追いやり、艶やかな髪に触れる。俺のためだと公言していた通り努力に努力を重ねた彼女は、何処を取っても上等で手が行き届いている。本人の自覚はないようだが、十二分すぎる程に可愛い、のだ。
己の魅力に気付くべきだと思う反面、無邪気なままでいて欲しいとも思う相反する気持ち。それは宝物を見せびらかしたいのと同時に鍵を掛けて仕舞い込みたくなる衝動に酷似している。二律背反の感情。「……名前、起きろ」自分の物とは違う柔らかな色を包み込むように揺さぶれば、小さな唇から声が漏れた。
あーだうーだと言葉にならない声を零す名前は、それでもうっすら眸を開く。途端、常ならば鮮烈に輝く紅が微睡むようにとろんと揺れた。今日は珍しく覚醒まで時間を要すらしい。目線を合わせて再度名を呼べば、たどたどしい口調で俺の名が返ってきた。誘うように腕を伸ばせば、目が、指が追い掛けてくる。
さながらひらり舞う蝶のようで、眼前に在るのになかなか掴み取れないところも良く似ていた。強引に不用意に摘み取れば、鱗粉を無くしたそれと同様地に落ちてしまう。彼女の持つ輝きは人の輪に在ってこそ保たれる。だからこそ、この限られた時間は俺の得た特権だ。本人は逆だと力説しそうな気もするが。
起こすため、頬を両手で包み込む。普段きらきらと燦く真っ直ぐな光はとても好ましく、それが隠れてしまうのは勿体無い。とはいえ、この眠たげにゆらり融ける双眸を間近で眺められるのは俺だけだろう。希少さを覚えてしまえば捨て難い。…もう少し、か?ぐっと顔を近付ける。──瞬間、真紅が瞠られた。
ばちりと音を立て覚醒した名前が、反射的にか俺から逃れようと身を捩らせる。力を入れていないに等しい両手はあっさり離されたが、それだけでは済まないのが名前だ。余程動揺したらしい。「う、わっ」端まで転がり、勢い付いたまま大きく傾いで落ちかけた身体。すんでのところで引き止めた。何とも危ない。
「始さん!」数分前のふわふわした雰囲気を払拭し、耳まで赤く染めた名前が抗議する。「綺麗の暴力です!」…言っていることは、正直理解できない。こういう時の言葉に深い意味はないのだと、軽く流して宥めるため口を開いた。「おはよう、名前」「あ、…おはようございます」素直な彼女は表情まで素直だ。
「あ、…寝ててごめんなさい」肩を落とす名前に気にするなと伝えれば、おずおずと頷かれる。「このまま寝かせてもよかったんだが…それだとお前が嫌がるだろう」あのまま放っておくと明日の朝、騒ぎ立てるのは目に見えていた。「寝てる場合じゃありません!」何度も首を縦に振り、起きてよかったと言う。
何処に隠していたのか小さな包みを取り出し、手許で軽く揺らした。「クリスマスですからね!始さん、プレゼントですよ!」こういう時の手際の良さと言うべきか、流れの作り方は流石に上手い。大人しく受け取れば心底嬉しそうな笑顔。…可愛い、だろう。「ありがとな」「始さん、開けてみてください!」
言われるがまま包みに手を掛ける。すると鮮やかな赤色が視界に飛び込んだ。同じ色を持つ彼女はにこにこと眺めている。「始さん、私が付けていいですか?」ふと思い立ったのか、真紅が煌いた。「ん、頼む」動いちゃダメですからね、と釘をさす名前。…真剣なのはわかるが、この近さは恥ずかしくないのか。
さっきとの態度の違いに笑いを噛み殺せば、振動が伝わったのだろう。早速お叱りが飛んできた。「…出来ました!」俺からは見えない。が、満足そうな反応を見るに悪くはないらしい。彼女の感性は信頼するに値する。「最初はびっくりしたんですけど、似合いますね」欲しいもの、を告げた際の話だろうか。
何が欲しいと問われた俺は、物を告げず色だけ指定した。何でも良いが真紅がいい、と。紫の間違いじゃないか散々聞き返された後、彼女はがんばって見つけますねと笑ったのだ。言葉通り頑張って探してくれたのだろう、俺に似合うものを。イメージカラーに紫を持つ俺は、それでも鮮やかな紅が欲しかった。
「どうして赤なんですか?似合いますけど、珍しいですよ」じ、と俺の耳に視線を定めたまま名前が問う。──鈍感。気付け馬鹿。言いたいことを押し込めて、さぁなとあしらった。「当ててみろ?」挑戦的に笑えば、きょとんと瞬く紅がより不思議そうに首を傾げる。「教えてくださいっ」…言えるはずがない。
「言わない。春に聞くのも禁止」奥の手を禁じられた名前は今度は不満そうだった。「えー!」そもそもあいつがそんなことまで知っているわけないだろう。察されたらそれはそれで腹が立つ。というか絶対言うな。普通に考えて他人に言う内容じゃない。これ以上は無しと乱雑に頭を撫でることで反論を封じる。
何が欲しいと以前俺が訊いた時、名前は「私ももらっていいんですか?始さんからもらえるだけで、なんだってご褒美ですよ!」といつも通り笑った。それが酷く気に入らなかったことを覚えている。欲がないと言えば聞こえがいいが、つまり期待していないのだ。結果、俺は俺の好きにすることを選んだのだが。
与えるだけ与えて満足している彼女に、はたして俺はどうやって渡そうかと画策する。何食わぬ顔で先程与えておけばよかったか。それとも今渡すべきか。いや、そうするくらいならばもっと。新鮮な飾りに夢中な名前は、一切気付いてくれる気配を見せないから。少しばかりの意趣返しくらい、許されるだろう?
「──名前」呼べば当然のように応えが返される。…可愛い、のだ。愛しさと呼ぶには拙いそれを、壊してしまわぬよう柔らかく握り込む。「これは、もらったから」神妙に頷く眩しい色が、違う色に染まるところを見たい。欲が叶えば次の欲が、延々と尽きることなく生じる欲望など彼女は知らないままでいい。
大切にしてやりたいのも、泣かせたくないのも本当だ。嫌なら嫌と言えばいい。拒絶することを怖がらなくていい。そんなことで、嫌いにならないから。「…お前も、俺への贈り物でいいのか?」窺うように言えば──意図を理解したらしい。本人も自覚しているように赤くなりやすい体質だから、すぐわかる。
ぎゅっと裾を握りしめ、真っ赤に染まった名前は言う。「…あ、あのですね、始さん!」続きを促せば、意を決したように小さな唇が言葉を紡いだ。「…お給料の、三ヶ月分ですよ」意味を知っていると仮定して、それは俺の台詞じゃないのか。返事の代わりに小柄なその身を引き寄せた。──大切に、するから。
名前が相当頑張ったであろう贈り物か、はたまた名前本人に向けてか。大切にする、大切にさせて欲しい。美しいだけが恋ではないが、美しさもまた恋なのだ。俺を褒め称えるお前の方が、俺にとっては。と、流石に言わないが。腕の中でずるいと呟く彼女に反論するなら、一つ。──お前も十分にずるいだろ、名前?
抵抗しないということは是と判断して良いのだろう。彼女の場合、相手が俺だというだけで何でも受け入れようとするきらいが有る。そうではなく。もっと慣れてくれたらいい。もっと強欲に、貪欲に、傲慢に求めてくれたらいい。我儘を自分に向けてくれたらいい。それを唯一、ただ俺だけが許してやりたい。
* * *
──疲れて眠る彼女に、そっと唇を寄せた。肌に散らばる朱色はこの際見なかったことにして、そっと布団を被せてやる。しばらくは起きないだろうし、俺も眠い。朝から聞かされるであろう文句や照れ隠しへの対応は明日考えるとして、身体を休めることを優先させよう。いつも掛ける目覚ましも必要ない。
俺に付けることは決して許されない印を、彼女には遠慮なく残すことが出来る。それに甘えてやり過ぎるのだが…まあ、文句は受け入れよう。付ければ付けるほど増えていく色は、俺の手であるからにして病み付きになる。そこまでして俺のだと宣言したいのだろうか、根本的に人との距離が近い人間だからと。
一度、訊かれたことがある。「私、何色が似合うと思いますか?」と。その時なんと返したかは忘れたが、今ならば迷いなく色の名を告げられるだろう。願いや望みを託した一つの色を。現に、似合っているのだから。朝になれば陽を浴びて、光を反射させる事だろう。見られるならば早く起きるのも悪くない。
淡い色より深い色を。飾るなら眩い程の紅に釣り合う色で。彼女が努力を重ねているのは知っている。だから見合う俺で在り続けたいと思えるのだ。女性らしさを増した左手の先、数えて四番目。絡めて見遣れば闇に紛れて大人しく鎮座している紫。……ほら。やっぱり、給料三ヶ月分は俺の台詞だっただろう。
本物はまだ渡せないが、いずれ本物を用意出来るように。その時まで手を離さないよう、掴み続けて居られるように。形なくしたまま愛を誓える程、人の感情は単純でも単調でもない。だからこそ俺は関係に名前を付けることを望み、今もまた物という明確な形で愛を印すことを選んだ。──安心、させたくて。
所有の意味が込められていないといえば嘘になる。とはいえその後の扱いをどうするかは名前次第。わざわざ指を選んで嵌めた意図は察して欲しいがそれはあくまでも今だけの話であり、人前では外してくれないと困る。せめて伝わればいい。名前の想像以上に、そして名前が俺を想う以上に、俺は名前が好きなのだと。
伝える努力は、する。…伝わらないのは困る。我慢させることが多いだろうに、不自由な思いをさせてばかりだろうに、一切責めることなく待っていてくれる奴だから。せめて、返してやりたいと思う。…本当に、返させて欲しいんだが。──愛すから、愛される覚悟を持て?安らかな寝顔に愛を一つ、囁いた。