挨拶のような軽い調子で紡がれる言の葉。内容はいつだって似たようなもの。繰り返し繰り返し唱えられる其れはまるで呪文だ。受け止めることも返すことも出来ないまま、どう応えるが正解か未だわからずにいる。重い意味を持つ言葉をいとも容易く口にするのはやめてほしいと思うのだが。何度言ったところで聞き入れられたことは一度もない。
昼間は暑く、朝夕は若干冷える。
着ていく服に悩まされるこの時期は嫌いじゃない。嫌いではないのだが。
今日の服装は失敗した。風が強いと聞いていたから厚めにしたものの、実際は湿気のせいでひどく生温かった。おかげで暑くて暑くて仕方ない。嫌な暑さだな、と思う。
そういうわけで不快な気持ちから解放されるべく、さっさと涼みたかった。空調が効くまで時間が掛かるであろう自室と共有ルーム、どちらがいいかほんのすこし考える。結果、すでに誰かが温度を整えてくれているであろう共有ルームに足を運ぶことにした。
そこまでは良かった。
まあるい瞳が帰寮した俺を捉えた瞬間、きらりと輝く。しまった、こいつがいた。自分の判断ミスを恨んでももう遅い。確かに部屋の温度は丁度良かったが、それを差し引いても自室のほうが何倍もマシだっただろう。
来る、と咄嗟に身構えた。
「始さん! お帰りなさい!」
「……ああ」
疲れている時にこのテンションと向き合うは無理だろう。そうでなくとも無理だというのに。我ながら随分と素っ気ない声が出てしまった。
どうにも俺の気配に目敏い紅はテレビに夢中になっているかと思えばそうでもないらしい。蜂蜜色が動きに合わせて揺れた。流しっ放しの番組には見向きもせず、彼女──名前は楽しそうに見つめてくる。
名前。何故か出会って以来、毎日のように俺が好きだと言ってきかない……正直、理解出来ない存在だ。
苦手だった。
真っ直ぐに向けられる視線も、軽い調子で言われるその言葉も。本音を言えば捉えたくなかったし、聞きたくなかった。いくら感情を向けられたところでどうしようもないから。
「今日もかっこいいですね、お仕事お疲れ様でした!」
ぐ、と疲労感が伸し掛る。息をするように褒めてくる言葉のどこに重みがあるのか。言われ慣れた自分にはもう分からない。何をしたってかっこいいと言うのなら、素敵だと言うのなら。何をしたって変わらないではないか。それは何も見ていないのと同じだ。そもそも褒めろだなんてひとことも言っていない。褒めて欲しいわけでもない。
「お前は無駄に元気だな」
皮肉を込めて言えば返ってくるのは変わらない笑顔。それどころか先程より楽しそうに見える。
……どうにも理解出来ない。
理解出来ない存在は一階上で暮らし始めた住人だけで十分だというのに。
思えばあいつとこいつは似ている気がする。だからと言って何かを思うわけでもないが。理解の出来ない、得体の知れないものはどうにも好きじゃない。
そんなことを考えているなど露知らず、名前は当たり前のように笑って言った。
「始さんを見られましたもん、それはもう元気ですよ!」
喩えるならそう、胸の奥に石を詰め込まれるような感覚。何故、そういうことを当然のように言うんだ。思うのは勝手だ。アイドル業に従事する以上、自分がファンからどう見られるか全く無知というわけにはいかない。自分の存在がファンに元気を与えているのなら誇らしいとさえ思う。だが、それを面と向かって言われると困るのは事実だ。
これが握手会なら良い。心から嬉しいと思えるし、ありがとうと純粋に気持ちを返すことが出来る。
けれども。仕事が終わった後の自分にそれを告げて、この女はいったい何を求めているのだろうか。全く以て分からない。ファンサービスでもしろということか?
「……。」
返事をすることを諦めてソファに近付けば、察した彼女が立ち上がる。別に場所を譲れと言ったわけではないのだが。
視線で察したのか、やはり名前は楽しそうに笑った。
「私がいたら始さん、休めないでしょう?」
「自覚があるなら控えろ」
咄嗟に切り返す。分かっているならやめろ。彼女にいくら好意を投げつけられたところで望むように応えられはしない。何を言われようと応えられないのだから言わないでいい。告げられたところで困るだけだ。
ぐったりと疲労感を覚えたままソファに沈むと、名前が顔を覗き込んできた。そのささやかな仕草にすら煩わしさを覚えて睨みつける。意に介した様子のない名前はこれまた軽い調子で言い放った。
「だって、好きなんですもん。やめたくてもやめられませんよ」
はあ、と重いため息が零れる。
彼女の告げる好きが理解出来ない。何故、重い言葉を軽々しく口に出来るのか。まるで無機物にぶつけるかのように。それとも彼女にとって俺という存在は物と同等なのだろうか。それはそれで腹立たしいことこの上ない。アイドルとしての『睦月始』ならまだいい。けれど仮にそうだとして、そうじゃない時間の俺に告げるのはルール違反というものじゃないのか。人を何だと思っているのか。次から次へ沸き上がるのこの感情は怒りか、それとも呆れか。
口にしたのは心に浮かんだものとは別の言葉だ。
「……やめたいと思っているのか?」
だったら是非ともやめて欲しい。見返りを求めない愛情とやらはひどく不透明で理解に苦しむのだ。そんなことを思いつつ訊くと、名前はきょとんと瞬いた。かと思えばすぐに笑顔に戻る。
「いいえ! ふふ、私、もう戻りますね!」
「……そうしてくれ」
これ以上の会話は徒労だろう。打ち切るようにリモコンに手を伸ばすと彼女は大人しく遠ざかる。気配が離れていくことに思わず安堵してしまう。もう、訳分からない言葉を聞かされずに済むのだから。
わからない。
好きと言われる意味が。何もしていないというのに、勝手に好かれる理由が。本当に何もしていないのだ。いつの間にか現れて、顔を合わせる度好きだと言われて。どうしろというのだろうか。何を求められているのか。
何を意図して告げているのかすら掴めないのだから大きなストレスにしかなり得ない。裏があるのだとしたらそれは一体何か。分からないことが苛立たしい。分からないものを毎日のようにぶつけてくる彼女すらも腹立たしい。
何故、あいつは好きと言うのだろうか。
理解の及ばないまま言われ続けるこちらの身にもなれと言いたくなる。嬉しいはずがない。笑えるはずがない。
求めていない好意など、返せない好意など、息が詰まりそうで、苦しくて、遠ざけたいだけの存在だ。
砕散せし恋しき寶