初恋、だったのだろう。
今となっては告げることのない、告げるつもりもない幼い真実。
伝統ある寺の息子として厳しく育てられた俺と、由緒正しき家柄で生を受け、徹底的に躾られた彼女。
決められた規則の中が俺の世界だった。
そんな時出会った、同い年だという少女。
洗練された佇まい。彼女は、次期当主としての風格を当時すでに持ち合わせていたように思う。
聞けば、境遇が自分とよく似ているではないか。
当時幼かった俺が恋をするにあたって、理由はそれだけで十分だった。
* * *
敬人、アイドルが泣くわ。
端的な言葉は彼女らしいものの、理解するにあたって必要な情報が含まれていない。何を言っているんだこいつは。
胡乱げに視線を返すと、名前は意に介した様子もなく淡く笑んだ。
「アイドルらしからぬ表情をしていたから。らしくないわ」
「昔を思い出していただけだ」
そう、と気にすることなく名前は言う。答えた此方が拍子抜けするほどの反応の薄さである。もっとも、何年も続けば慣れたものだが。
一般生徒が次から次へ帰宅する中、俺と名前は大量の書類を抱えて生徒会室に向かっていた。
性別やら腕力、その他考慮すべきところを考慮した上で俺が多めに引き受けたはいいものの、腕が吊りそうな重さにはため息の一つもつきたくなる。無論、そんな展開は断固回避しなければならない。隣にいる女が悠然と微笑むのが目に見えているからだ。大体、力仕事は不得手なんだ。こういうのはもっと、いかにも得意そうな──そう。例えば。
「…鬼龍か神崎が居ればいいものを」
「そうね、次からは呼びつけましょうか」
適役に違いない同じユニットメンバーの名を出せば、あっさりと言葉が返ってくる。本気か冗談か掴みあぐねて、一瞬間が開いた。いくら猫の手も借りたい忙しさとはいえ、さすがにそんなつもりはないのだが。
「言っておくが冗談だ」
「ふふ」
念の為釘を刺すと笑い声が返ってくる。お前、英智に似てきたぞ。とはいえ、指摘したら途端に笑うのを止めるだろうからあえて無言を貫くことにした。
歩幅が違うにもかかわらず決して遅れを見せない彼女は、相手に気取らせることなく常に俺達アイドルを支え続ける影の功労者だ。有能なプロデューサーであることを疑った過去は一秒たりとも存在しない。名前の実力は誰よりも間近で助力を仰いでいる俺が良く知っている。
だが、いくら有能であろうと決して完璧ではない。それもまた、何年も関わりを持ち続けている俺が知っていることのひとつだ。
* * *
生徒会室には誰の姿もなく、しんと静まり返っていた。重いだけの書類を机に置き、手馴れた様子で電気を点ける名前を横目に空調のスイッチに手を伸ばす。おそらく今日も帰りは遅くなるだろう。常温のまま済ませられる仕事量ではない。
「ヒーローショウですって」
企画書に目を通した名前が笑う。ヒーロー。その単語に不本意ながら何処のユニットが提出したものか、リーダーの顔とともに答えが思い浮かんでしまった。その予想は間違っていないことだろう。
「また英智に切り捨てられるぞ。…いや、その前に俺が切り捨てる」
「あの子の校正力が試されるわね」
俺達は基本的に仕事に私情を持ち込むことを良しとしない。判断基準は公平に基づいていると自負している。どんなに理解に苦しもうとも、却下する理由がなければ認める次第だ。…あくまでも俺達は、だが。英智はまた別だ。あいつが黒と言えば白も黒になる世界。普通を求めるだけ労力の無駄だろう。
Ra*bits、UNDEAD、2wink。
聞き覚えのあるユニットの名前が記載されている書類は、そのユニットの個性を正確に表しているように思う。
企画を通すには、俺達生徒会の許可が必要だ。故に俺達は全ユニットの活動を把握、管理することが出来る。必要とあらば支援することともある。学院の権力が集結している生徒会は、理にかなったアイドル活動を成功させるための努力を惜しまない。本来、どの生徒もアイドルになる為にこの学院に入学するのだ。そう、本来は。
無造作に置かれた企画書。一つ一つ目を通す。時間は掛けていられないが、適当に流すことは許されない。
まずRa*bits。奴らは初心者ユニットとのことだが、その内容も比較的易しいものだ。ほとんどの部分を仁兎が書いているからかまともな方ではある。時々全員で書いたように字の癖がバラつくが許容範囲内だろう。ただし天満、お前は落ち着いて書け。読めん。
次にKnights。書いたのが月永じゃなくて良かったと心底思う。この筆跡は瀬名だ。おかげでわかりやすいのだが…まあ、奴は素行に問題があるものの、あの中では適任と言う他ないだろう。瀬名以外で考えると鳴上か。企画内容も手堅く、妥当なところだと考える。Knightsのイメージに沿った内容はあらかた瀬名だろうが、時折意外性をもって持ち込まれるのは…鳴上が絡んでいるのだろう。
UNDEADはあの人…朔間さんが書くだけあって書き方に不備はないのだが。如何せん内容が突拍子もない。巫山戯るなと一蹴出来ないだけに厄介だ。時々書き殴ったような字があったり字に見覚えがあったりするのは大神と羽風だろう。羽風はともかく、大神が出す企画書は意外にもまともだ。音楽馬鹿は伊達じゃないということだろう。
2winkは企画そのものに不足はないものの、書き方がふざけすぎていて一回か二回は突き返すが常だ。何より度し難いのは、わかっていてやっているところだ。この腹立たしさ、間違いなく朔間さんの影響を受けている。かと思えばふとした時に非の打ち所がない書類を仕上げてくるのだからやれば出来るのか。最初からやれ。
* * *
何時間経過しただろうか。
すっかり辺りは暮れ、夜の帳が降りている。仕事に没頭しすぎると時間がわからなくなるものらしい。時計に視線を走らせると、生徒会室に入った時より短針がいくつか動いていた。
「…時代は変わったのね」
素早く資料をまとめながら彼女は呟く。【DDD】があり、革命と呼ばれる事件を経た後。【S2】が各ユニットに委ねられるようになってから俺達の処理する資料量が一気に増えた。かつて自分が描き上げた道筋を大きく逸れ、全く別の形で夢ノ咲学院は動き出した。これは、そういうことだろう。それが良いことなのか悪いことなのか、答えが出るのはこれからだ。
「後悔しているのか」
深く考えず、思ったまま問うてみる。名前は数度瞬きを繰り返し、薄いくちびるを開いた。
「英智が笑っているわ。…それだけで、充分よ」
そうか、と口許に弧を描く。同じ質問を受けたとして、俺は全く同じことを言うだろう。
──英智が健やかに笑っている。それだけで充分だと。
俺達の中心は、いつだってあいつだった。
どんな時も思い付きで行動し、かと思えば無慈悲なまでの策略を巡らせる。目的のためなら手段を選ばない男だ。裏から手を引くのは朝飯前、欲しいと思ったものはどんな手を使ってでも手に入れる。
味方ですら利用し、振り回し、酷使する。俺達の思惑も都合も一切考慮されることはないのだ。
だが、あいつは──英智は、それでいい。
英智に向けられる悪意を分散させるために作られたユニット『紅月』が、『fine』を支え続けるように。英智という輝きを反射する月になるために。俺は、俺達は、英智のために心を砕き続けるだろう。例え、他の誰があいつの存在を否定しようとも。
それでいい。
あいつに向けられる悪意から、あいつを守り続ける。それは強制された義務ではなく、俺の意思だ。
……そして、願わくば。
* * *
そろそろ切り上げるか、とペンを置いた。かたん、静謐な空間に音が響く。小さな音でもこの場においては十分だ。
「名前、帰るぞ」
立ち上がり、書類が減ったことで随分と広くなったデスクに背を向ける。こうして帰りが遅くなった日に、家まで送るのは俺の役目だった。自然な流れでそうなったのだから、いつからと言われてもよく思い出せないのだが。少なくとも、この学院に入学する前からだったように思う。
「お疲れ様、敬人」
あとを追って立ち上がった名前は簡単にデスクを整理し、鞄を取った。その手際の良さは流石と言うべきか。かといって褒めることはせず、戸締まりを確認する。名前は大人しく後についてきた。
鍵を返してくると背を向けたまま言い放ち、暗くなった廊下を一人、歩む。暗がりに女を一人置くのはどうかと思ったが、まあ今更かと振り向くことはしなかった。どうせ学院内だ、危険などあるはずもない。女扱いをしろと喚くような人間でもないのだ。構わないだろう。
彼女は、英智に惹かれていた。いくら色恋事と縁がなさそうと言われる俺でもわかる。英智もまた、彼女に特別性を見出していた。本来名前の隣にいるべき男は俺ではない。あいつだ。ただ、英智に長時間の仕事はさせらない上に適材適所として俺の方が事務処理に向いている。だからこうして二人、遅くまで仕事を片付けて帰るのだ。
「…失礼します」
椚先生のちくちく刺さるお小言を無言で受け止め、予定通り鍵を返却し。用事は済んだとばかりに彼女の待つ昇降口へ向かう。一気に疲労度が増した気がするが、言っても詮無き事だ。受け入れるしかない事柄に反発するのはそれこそ無駄骨だ。何せ今に始まったことではない。…あの、屈辱の【S1】からこうなのだ。慣れる他にないだろう。
昇降口に明かりはなく、月光が辺りを照らしていた。明かりのない中、自分の靴箱を探すことに最初は苦労したものだった。今となってはこんなにも容易いというのに。
靴を履くと、かすかな笑い声が耳を打った。この場で笑う人物など、心当たりは一人しか存在しない。
「敬人、疲れてる。たまには私が叱られるのに」
ひと足先に昇降口に着き、俺を待っていた名前だ。
笑みを含んだ声音と裏腹に、案じるような色の瞳と目が合った。聡い彼女は何故俺が毎回鍵を返しに行くのか、そこで何が待っているのかを正確に察している。身内の贔屓目なしに、英智を認めさせるだけの器量を持ち合わせているのだ、この女は。
「…いや、構わない。俺にさせてくれ」
一人で背負うなと言いたいのだろう。指導されることが多い俺達は、あの人の持ち得る棘を的確に理解している。だからこそ、一人で受け続けるなと。
その気遣いを断ったのはくだらない、男の維持のようなものだった。されど安いプライドで彼女の顔が曇らずに済むならば、決して無駄とは思わない。それは誰が為でもなく。そう、俺が決めたことだ。
ついでとばかりに口を開く。何でもないことのように、努めて静かに。
「名前。いくら英智が笑おうと、その隣で貴様が笑っていなければ意味がない」
珍しく目をきょとんとさせた名前は、常より幼く見えた。その表情が、幼さが、ひどく懐かしい。昔は俺もあいつも、名前も紛うことなく子供だった。そして彼女は子供の頃、それはもう俺や英智が手を焼くほど泣き虫だった。転んでは泣き、英智の容態が悪化するたび泣き、喧嘩するたび泣き。それが一切泣かなくなったのはいつからだっただろうか。…本人は、涙が涸れたのだと笑んでいたものだが。
「…ええと、さっきの続き?」
上手く飲み込めなかったのだろう。戸惑うような眼差しに、ほんの少し気分が上昇した。この幼さは、俺が英智が見てこそ真価を理解できるに違いない。ああ、本当に懐かしいものが見れた。じわり、笑みが滲む。
答えを待つような瞳にはあえて応えず、さあな、と適当を装ってあしらうことにした。構わないだろう、このくらい。散々手を焼かされて来たのだ。…そして、これからも焼かされるのだろう、お前達二人には。
こうして隣に並ぶ彼女の手を、引こうとする存在がある。本来在るべき道へと正すように、有無を言わせぬ力を以て。
されどどんなに強い力が掛かろうと、彼女は彼女自身の意思で手を取るのだからなんという茶番だろうか。必要なのは制すための圧力ではなく、心を表す言葉だというのに。
俺や仲間と共に『紅』を身に纏う彼女は、いつの日か、あいつの色である『白』に染まる日が来る。それは、名前にとって最も幸福と呼ばれる記念すべき日だ。
その時の俺は、躊躇わず手を離すことが出来るだろう。否、その前から手を離しているのだろう。俺が不要になったのだとは思わない。むしろ、難あるあいつらに俺の存在は必要不可欠だと断言出来る。あいつらと俺は幼馴染みだ。これからもずっと、何年経とうと関わりが途絶えることなどあり得やしない。相談だって乗ってやろう、限度にもよるが少々なら惚気も聞いてやろう。
沢山喧嘩して絆を深めていくお前達のため、心を砕き続けてやろう。それは間違いなく俺の望みだ。やめろと言われようとやめるつもりは毛頭ない。俺がどんなにやめろと言っても聞き入れてもらったことはないのだから、許されない謂れはない。自分勝手なのはお互い様だ。
そうして来たる日の俺は、心から笑っているに違いない。──おめでとう、と声を掛けてやるのだ。
そうしたら、泣き虫だったかつての彼女が見られるかもしれない。その時は英智も泣いていふのだ。泣いている愛しき幼馴染み達を見て、俺は、盛大に笑ってやろうではないか。
どうだ、見たことか。
俺の描くシナリオにはハッピーエンドしか用意していないんだ。精々、覚悟していろ。