あつい、と花衣は声を洩らした。
 心底恨めしげな視線がじとりと寄せられる。無言の訴えを受け、オジマンディアスは此れ見よがしにとため息を吐いた。
「貴様、それでも余のマスターを名乗る者か」
「名乗っていても暑いもの、溶けてしまうわ……」
 花衣にとって暑さ寒さとは他人に洩らすべき弱さではない。何事も冷静に、平常に。如何な外的要因が己を苛もうとも揺るがない強い精神こそが月詠の理念であり、暑さに怠けた姿を人前に晒すなど論外もいいところだ。そんなことは当然のように理解している。それでも暑いものは暑い。生業を等しくする界隈で名を馳せた魔術師一族の末裔として、一族を背負う身となった今でも花衣は人間なのだ。どんなにはしたない恰好だろうと、花衣以外に誰もいない――ただし自身のサーヴァントは除く――ならば、すこしくらい気を抜いたところで咎められる謂れはない。
「あなたは平気? さすがはエジプト出身ね」
「余は太陽も同然。暑さに堪えるはずもなかろう。謂わば余こそが陽の灼熱を与える存在なれば!」
 大音量で流し込まれる宣言に、ううん、と花衣は1度寝返りを打つ。わかる。言っていることはわかるのだけれど。
「……夏の間だけ霊体化してもらおうかな」
 非現実的な考えが思わず口をついてしまうくらい、暑かった。
「ほう?」
 すぐさま不穏な声音が返ってきたので撤回する。何も八つ当たりをしたいわけではない。不興を買いたいわけでもない。ただどうしようもなく暑い。オジマンディアスもわかっているのか、ひどく不満げな視線を向けてきた以外には文句のひとつも言わなかった。珍しい。不敬、という彼の口癖が飛んでこないとは。
 家に帰りたい、と徐々に明確さを失い朧になっていく記憶の中の故郷を想う。なんならカルデアでもいい。空調設備が整っているところならば。

 レイシフト先が灼熱地獄だった。
 ……ということは、往々にしてままある展開だ。むしろ快適な環境であることが数としては圧倒的に少ない。なんせ、現代のような技術が存在する前、神秘がまかり通る紀元前――古代に飛ぶこともあるくらいなのだ。
 だから仕方ない。仕方ない、のだけれども。
「……ファラオ、暑いわ」
 陽射しを避け、オジマンディアスの陰にかくれるように身をひそめても暑さがまとわりついて離れない。
 オジマンディアスは思案する。人間たる少女を灼き尽くさんとするこの暑さは、神王にとって堪えるものではない。彼にとって太陽のもたらす灼熱とは至極当然の齎しであり、決して厭うべきものではないのだ。とはいえマスターから魔力のバックアップを受けて現界している身である。彼女の不調は可能な限り避けたいと考えていた。
「ふむ。余の固有結界を展開しても良いのだが」
「! そうしたら、日が避けられるわ! ああでも、……アーキマンとレオナルドに叱られるかしら」
 実際、為そうものなら叱られる程度では済まないだろう。頭の片隅では理解していながらも、暑さに茹だった思考では誘惑に負けてしまいそうになる。
「ふん、凡人と賢女か……勝手に言わせておけ」
「……いいわ。カルデアに戻ってから、涼むもの」
 どうにか誘惑を振り切り、花衣は口を閉じる。暑さのせいだろう、動くのがひどく億劫だ。
 手の甲を額に当て、深く息を吐くという気だるげな仕草はオジマンディアスをもってしてもあまり見かける光景ではなく、普段の花衣の様子を考えると違和を抱くに充分だった。
「花衣よ」
「なに?」
 名を呼ばれ、無防備に見上げた少女の頬を固定する。ぐっと顔を寄せたことで固まる花衣をそのままに、オジマンディアスは至近距離のまま目を細めた。
「ふむ。やはり顔が赤いな……体調不良か?」
「え、え? ううん、そんなことは、だ、大丈夫。すこし暑さにやられただけだから」
 花衣らしからぬ歯切れの悪さに疑念が浮かぶ。も、本調子でないことは見れば明らかだ。身体を離し、横になるよう促した。
「よい、赦す。しばし身体を休めよ。そなたの調子が余の魔力に影響するが故、不調は赦さぬ」
「そうね……すこし休むわ。そうしたら、暑さから気を逸らせるだろうから」
 渋るでもなくあっさりと受け入れ、言うと同時に横になる。花衣とて自身の違和感に自覚はあったのだ。熱中症という単語が脳裏を過ぎったものの、考えるのが億劫で微睡みに身を委ねることにした。そういう難しい話は後でいい。オジマンディアスの手だろう、ゆったりと髪をなでられる感覚がとても心地よかった。

 ざく、と砂を踏みしめる音。
 微睡んでいた花衣がぴくりと反応をしめす。起き上がろうと身じろいだのを片手で制し、オジマンディアスは金の眼で気配元を睨み付けた。
「何用だ、余は休息中である。火急でないならば控えよ。邪魔立ては何人たりとも赦しはせぬ」
「あ、ごめんなさい。また後で出直します!」
 立香だった。腕を組み、睨めつけ、無言で立ち去れと威嚇するオジマンディアスを諌めるように高い声が立香へ掛けられた。
「いいわ、わたしに用があるのでしょう」
 起き上がった花衣は通常通りで、眠たげな表情も気だるげな様子も見せていない。先程までの億劫さは微塵も感じられず、そこに在るのは完全に月詠花衣だった。
 オジマンディアスは舌打ちしたい心境に駆られた。立香に意図があったわけではないことくらいわかっている。それでも、消して人前で弱みを見せない花衣が立香を前に『あえて』通常通り振る舞っていることを正しく理解していた。どんなに不調であれ、他人がの前では決して弱った姿を見せようとしないのだ。休むならばひとの目の届かぬところ、そうでないならば休むことをしない。――今みたいに。
「手短に済ませよ」
「大丈夫よ」
 どこが大丈夫だ、と憤慨しそうになったところをどうにかこらえ、オジマンディアスは黙り込む。先程までぐったりしていて大丈夫なはずがないのだ。声を張り上げるのは簡単だが、少女の誇り高さを1番に買っているオジマンディアスとして、彼女の矜持を傷つける言動は不本意である。ゆえに、黙った。

 ありがとうございました、と立香が花衣とオジマンディアスに頭を下げ、人々の輪に戻っていく。憮然としたまま走り去る背を眺めていたオジマンディアスは、花衣が微動だにしないことに気づいて眉を寄せた。
「花衣?」
 返答はない。
 顔を覗き込むと、少女はぼうっと焦点の合わない目であらぬところに視線を向けていた。立香を目で追っているようで、瞳には何も映していない。頬が赤く、呼気が異様に浅かった。
 ち、と今度こそ舌打ちし、水差しを手に取る。顎に手を掛け、強引に唇を割り入った。
 立香が立ち去るまで毅然と受け答えをしていたのだ。よく耐えたものだと思う。何が起ころうとも己が信条を貫こうとする姿勢は嫌いではない。
 ――が、それが無理に繋がるうちは未熟としか言いようがない。
 王として、人々の頂点に立つものとして、オジマンディアスは先達だ。規模こそ違えど似た道を突き進まんとする少女は未だ完成しているとは言い難い。たとえ人間からみて完璧と思われていようと、英霊であり実際に国を統治したオジマンディアスはそもそもの視点が異なるのだ。
 暑い、と訴え続けていた花衣の様子を思い出す。他にひとの気配がなく、自らが召喚したサーヴァントの前でしか弱音を吐けない少女はいっそ憐れだ。ひとに弱音を吐くまいと決意させるだけの何があったとして、それはオジマンディアスの預かり知るところではない。他人からの悪意、重圧。いくら耐え忍んだとて、耐えた先に待ち構えているのは新たなる試練だ。所業に見返りなどなく、成して当然と看做される。すべてを年端も行かぬ少女に負わせるには酷だろう。だが、それが王なのだ。
 花衣はひとから与えられる食べ物や飲み物を決して口にしようとしない。オジマンディアスが口を付け、安全性を保証してようやく口に入れることが叶う。誰も彼もが毒を入れるなど有り得ないとわかっているだろうに、根付いた不信は頑なだ。他人を信用することこそあれど、なかなか信頼に結びつかないのが花衣という少女だ。
 己が状態の自覚に乏しいわけではない。自覚したのち、正しい判断を、真に必要な判断を下せないわけでもない。休息すべきと理解したら躊躇うことなく行動に移せる女である。第三者の介入さえなければ。
「オジマンディアス」
 水分を取り入れ、意識を取り戻した花衣がオジマンディアスの腕のなかで身じろいだ。常に比べたら目がぼんやりしている。
「聞かぬ、大人しく寝ておれ」
「このまま? ……傍から見たらバカップルじゃない」
 ばかっぷる、という単語はオジマンディアスの耳に馴染むものではない。が、花衣の様子からして大したことないのだろうと無視を決め込んだ。
「余は休む。しばし余の抱き枕となる名誉を与えよう」
「…………、ええ、わかったわ」
 緩慢に目を閉じた花衣が眠りに就くのに、そう長い時間は掛からなかった。温度や湿度に体力を奪われているのだ。少女が自覚しているより、疲労困憊な身は休息を欲しているのだろう。
 無意識に擦り寄ってくる柔らかな身体を受け入れ、起こさぬよう注意を払いながら触れる。すべやかで柔らかな肌は心地好く、こうした児戯じみた触れ合いは存外好ましいものと思えた。最愛の妻ネフェルタリを始め、数多の妃を迎え共に夜を明かした神王オジマンディアスがである。
 つん、と裾を引かれる感覚がして目を向けると、スフィンクス・アウラードが白い布を背中に乗せていた。掬い上げると布は冷たく、水分を含んでいる。命じたわけではないが、花衣を冷やすために用意したのだろう。
「ふむ、これの様子が気になったか。まこと良く出来た仔等よな。褒めて遣わす」
 アウラードを撫で、冷水に浸した手拭いを花衣の額に乗せてやる。このまま眠れば調子を取り戻すだろう。世話の掛かる女よ、と呟くオジマンディアスの声音はいたくやさしい。
 うろうろと徘徊していたアウラードは花衣の胸もとに乗り上げ、くるりと丸くなる。そこで落ち着くと苦しいだろうと腹あたりにずらしてやれば、ちいさな身体がわずかに身じろいだ。まるで親子のようだと素直に微笑ましく思う。
 目を瞑れば、耳を打つのはかすかな呼吸音。暑さが消えたわけではないものの、元より気にならないオジマンディアスにしてみれば何も不都合ない。
 サーヴァントに睡眠は必要としないが、魔力の消費を抑える効果がある。なれば眠るのもよいだろう、とオジマンディアスは判断した。どうせ状況はしばらく動かないのだ。花衣が眠りについた今、起きていても暇である。

 すこし離れた地。ファラオのひとり、キャスター・ニトクリスはふう、と額の汗を拭った。手には固く絞った手拭い。冷水を含んだそれは冷たくて気持ちいい。彼女の敬愛するファラオが暑さでどうにかなるとは微塵も思っていないが、その隣に在る人間の少女となれば別だ。この灼熱地獄で参ってしまわないよう、急遽用意したものである。
 神獣に遣いを頼むなど不敬かと思いつつ、オジマンディアスの休息の場に自身が立ち入ることは叶わない。お願いしますね、とスフィンクス・アウラードの背に預けると、アウラードは心得たと言わんばかりに駆けて行った。
「最初に拝見した際は天と地がひっくり返る程の衝撃を受けましたが……どうやら花衣に懐いているようですし」
 ニトクリスは柔く微笑む。さすがオジマンディアス様の認めた女性なだけあり、神獣にも愛されるのだと胸のうちで誇らしく思った。花衣は所詮神に支配される人間に過ぎないが、それでもオジマンディアスと縁を結ぶ存在だ。彼女が認められるのならば心から嬉しいと言い張れる。

 ざ、と砂の鳴く音を聞き、ニトクリスは勢いよく立ち上がった。
 ここから先、彼女に課せられた――あくまで自発的な行動だが――仕事はただひとつ。
「止まりなさい、これ以上歩みを進めることは許しません! オジマンディアス様の休息を妨げるなど不敬ですよ!」
 敬愛するファラオとそのマスターが寄り添い合う地に、不敬者を近づけないことだ。誰であろうと通しはしまい。邪魔立てが許されるならば真っ先にニトクリスが赴いているし、叶わないからこうしてアウラードの助力を借りている。あの場に存在して許されるのはファラオ・オジマンディアスと月詠花衣のみであると、ニトクリスは正しく理解していた。

 少女の声に応えるように、メジェド神が降り立つ。――お力をお借りしますね、メジェド神。
 心優しいファラオの少女は今日も大切なもののため、心を砕くのだ。

太陽に抱き抱かれ