ぱちり。目覚めはいつも通り。目を開けて、手や足を動かして。なんの変哲もない感覚。ずいぶんと慣れたなあ、と思う。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、いつまでも慣れずに違和感を覚え続けるよりは良いだろう。――と、結論付ける。
「おかえり、碧ちゃん。そしてお疲れさま」
 ともすれば気が抜けてしまいそうな顔。へにゃりとした笑みを浮かべ、ドクターは私に話し掛けた。
 ほっと息を洩らし、はい、と言葉を返す。見慣れたカルデアの建物よりも、親しんだ自室よりも、彼の『おかえり』が帰還を実感させるのだ。よかった。今回も無事に帰って来られた。彼を見る度に安堵する。現地でも通信は行っているけれど。だからこそ、データとしての彼ではなくこうして目の前にいることに安心感を覚えた。
「疲れただろう? 明日はゆっくり休んでほしい。働き過ぎは身体に毒だからね」
 心が疲弊を訴えている。知らない土地、身に迫る危険というものは身体はもちろん、精神を蝕むもの。ドクターの言う通り、明日はゆっくりしようと心に決めた。
「はい、ありがとうございます」
「あはは、お礼なんて。無茶をさせているのはこっちだからね」
 それは違う。だからといって上手く言い表せない中で、ただ、違うと思った。最初は。始まりは、確かに選択権なんてなかったかもしれない。自分を先輩と呼んでくれた彼女を助けたかった。そのために出来ることがあったなら何であれ手を尽くしてみせただろう。主義や信念といった大それた理由ではなく、ついさっきまで話していたひとりの人間を助けたいという私情だけで。それでも。
「私がやると決めたことですから」
 ――――彼女を助けた後。こうして私が戦線に身を投じている今を、他人からの強制だとは思わない。
「……とにかく。明日はしっかり身体を休めること! いくら数値が安定していると言っても、間違いなく疲れているから」
 労ってくれるいつものドクター。そんな彼だけれど、どことなく疲れが滲んでいることに気がついた。
「ドクター?」
「うん? 何かな、碧ちゃん」
「ちゃんと寝てますか?」
 す、と彼は目を逸らした。じとり、目が据わる。直感のスキルがなくてもわかる。ここで目をそらすということは即ち否定に他ならない。
「ドクターこそ寝てください! 働き過ぎは身体に毒って言葉、そのままお返しします!」
 勢いのまま言い募ると、ドクターは目を丸くした。突然何を言い出すのだろう、とでも言いたげな顔。わかってない。ドクターが私やマシュの身を案じてくれるのと同じで、私だってドクターのことが気になって仕方ないのに。もっと自分のことを大切にしてほしい。文章にするとたった一文、どうやったら伝わるのだろう。
 わからずやのお医者さんは、まじめな顔を作って言葉を紡ぐ。
「万が一にも何か起こってはいけないんだ。君が危険な場所に身を置いているというのに、ボクだけ呑気に休むことは出来ないよ」
 ――それは私が人類最後のマスターだからですか?
 訊きたくて、けれども音にする前に笑顔の裏へと押し込めた。言ってはいけない。言わせたいわけではない。柔らかく笑うこのひとの優しい嘘を聞きたくはなくて、けれども本当のことを聞く勇気も出ない。
「大丈夫ですよ。私、こう見えて悪運が強いんです!」
 ごまかすように声を張って、笑って言い返す。ふるりと首を振り、彼は目もとを和らげた。
「実際に前線に出る碧ちゃんが自分の役割を果たしてくれているように、ボクだってしっかりサポートしないと」
 そういうことじゃないのに。無茶をしてほしくないだけなのに。告げたドクターがはぐらかすように笑うものだから、もう一歩のところで言葉が出てこない。代わりに笑う。まるで彼につられたかのよう。
「もう、心配性だなあ……」
「どうせ小心者だからね、ボクは」
 バカにしているわけじゃないですよ、と付け加えた。拗ねたように言う彼は不思議と幼く見える。
「私はどこに行ってもちゃんと眠れてるから、ドクターにもしっかり休息を取ってほしいってことです」
「あはは……そうだね。ボクより心細いはずの碧ちゃんを不安にさせていたら本末転倒だ」
「その通りです!」
 まったく心細くないといえば嘘になるけれど。隣にマシュがいて、通信機を通した先にドクターがいて。時々ダヴィンチちゃんがサポートをしてくれたり、見知らぬ地では様々な人間やサーヴァントと出会ったり。この旅は、彼が言うほど孤独なものではない。
 伝えられたらいいな、と思った。私たちのサポートをしてくれているドクターは、一緒にレイシフトすることが出来ないから。お話したところでいつも一緒に聞いているよと返されるのかもしれないけれど。
「碧ちゃん」
 ふいに名前を呼ばれた。碧。私の名前。
「はい?」
 こほん、こほん。わざとらしく数度咳払いをして、ドクターは口を開く。
「ボクはこうして君が『ただいま』って言ってくれるだけで安心するし、癒されているんだよ。そのことは覚えていてほしい、……なーんて……」
「……え、あ…………」
 ――私だって、同じです。ドクターが『おかえり』と言ってくれることが、何よりも――――。
 そんなことをつい先ほど考えていたばかりだったから、心が読まれたのかと思った。そんなはずないのに。じわり、頬が熱を帯びる。あつい。熱くて仕方がない。
「おっと! そろそろ部屋に戻らないと! 長々と引き留めてすまない、碧ちゃん!」
「え!? あ、は、はい!!」
 空気を払拭するかのような唐突さだった。流されるがまま廊下へと出る。せめてもの挨拶をと、おやすみなさいと告げると彼は優しく手を振って応えてくれた。おやすみと返してくれたドクターは今日こそはきちんと眠ってくれるのだろうか。私が言ってもだめだというなら、ダヴィンチちゃんに相談した方がいいかもしれない。
「……はあ」
 頬に手をあてる。未だ熱を持っている気がして、ふるふると頭を振った。どくん、どくん、繰り返す鼓動すらいつもより速い気がしてならない。
 どうしよう。同じことを考えていたというだけでこんなにも嬉しい。
 彼が私を気にかける理由が人類最後のマスターだからなのだとしても。ううん、きっとそうなのだけれど。それでもいいから。
 こうして自分へと向けられる心があることが、ただ嬉しかった。

愛染めし戀