眩しい陽射しに、手を翳した。

鬱屈とした春が過ぎ、初夏が世界を呑み込もうとする或る日の昼下がりのこと。寮を出て門を目指す道すがら、長く伸びる影を辿って歩いた。

「めーぐみっ。暇?暇そうだね?」

後一歩のところで、一番聞きたくなかった声を耳が拾う。うんざりとした気持ちで振り返れば、楽しそうに口元を緩ませた男が手を振っていた。

「いや、津美紀の病院行くんですけど」
「たまには僕も顔出そうかな」

青々と茂る木々の下、相変わらずの軽薄な口調が葉の騒めきに負けじと響いた。いまの病院に移ってから一度だって顔を出した事などないくせに、一体どんな心変わりだというのか。思わず口をついて出そうになる唸りを堪える。ポーカーフェイスが板に付いたのは、ひとえにこの男の所為と言えるだろう。

「…任務は?」
「もう終わりだよ。珍しく午後はフリーなんだ」

いつもの趣味の悪い目隠しではなくサングラスをかけているところを見ると、どうやら本当らしい。幼い頃から何度となく歩いたこの男の隣。当然のように横に並んだその人をちらりと見やる。

(まぁいいか…)

小さな頃、この男が会いに来ると夕飯はいつも決まって同じ店だった。あの頃住んでいたボロアパート近くの洋食屋。彼女と同じものを食べたくて津美紀も俺もオムライスばかり頼むから、先生はいつもそれを揶揄って笑った。帰り道のほんの少しの間だけ、白く柔らかい掌に包まれていた左手が、いまは酷く手持ち無沙汰に感じてポケットに押し込む。

「恵お腹空いてる?帰りに鮨でも食おうよ」
「はぁ。どうしたんですか藪から棒に」
「なんか今日は良いことがある気がする!」
「……へぇ」

長い長い階段を二段飛ばしで駆け降りた先生が俺のことを見上げた。やたら上機嫌に鼻唄まで口ずさんでいる。

「どうなの、津美紀の調子は」
「どうもこうも目が覚める素振りも予兆もありませんよ」
「個室は?便利?」
「ああ、はい、ありがとうございます」

倒れた時に搬送されたのは埼玉の古い中堅病院で、大部屋には六つのベッドが並んでいた。一度見舞いに来た先生は、あまりに賑やかな病室を見て眉を顰め、もっと高専に近くて設備が整ってるとこにしたら?と吐き捨てた。転院手続きも個室の手配も金の振込も、何もかもが終わってから俺は新しい病院の名を知らされたのだった。

高専を出てタクシーを拾い、結局先生を従えてたどり着いたのは、前とは違う立派な建物だった。正面玄関を入ると吹き抜けの広いロビー。目の前の長いエスカレーターに向かう先生を無視して迷わず右へ曲がると、後ろから不満気な声が聞こえる。エレベーターに乗り、消毒液の匂いが鼻をつく廊下を進んで、角を曲がり病室が見えた所で中から顔馴染みの婦長が現れた。

「あら、恵くん。今日はお友達…も一緒なの?珍しいわね」
「どうも。あー、この人は…」

少しふくよかでお節介な婦長の視線が、黒ずくめの男の爪先から頭頂部までを二往復する。噂好きの彼女には、出来れば引き会わせたくはなかった。

「こんにちは。いつも津美紀がお世話になってます」
「あら、イケメン」
「いやぁお上手ですね」

そんな俺の気持ちなどつゆ知らず、わざわざサングラスを下にずらし、すこぶる愛想の良い笑顔を貼り付けて挨拶する隣の男に酷く胸糞が悪い気分になる。

「あ、そうそう。今日もいらしてるわよ彼女」

親切心から婦長が告げたその言葉に思わず凍り付いた。津美紀が寝たきりになって暫く。病室を訪ねてくる人なんて、一人しかいない。だけど今朝、彼女は確かに今日は病院には行かないと、

「なになに、まさか恵の彼女?僕も挨拶しなきゃじゃん」
「先生、ちょっと待っ、」

大きな手が取手にかかる。無慈悲にスライドされた扉の先に開けた空間。開け放たれた窓から吹き込む風によって舞い上がるカーテン。眩い光のその中に、静かに眠る津美紀と、寄り添う一人の女がいた。

「 なまえ? 」

伏せた瞼が押し上げられ、長い睫毛が震える。彼女の瞳に映る碧眼が揺れた。まるで時が止まったかのように誰一人微動だにしない、息遣いすら聴こえそうな空間に、先生が唸る様に絞り出した声だけが低く響く。

「なんで、」

息を飲む間もなく、その長い足とストライドを存分に活かして瞬く間にベッド脇に移動したその人が、黒のブラウスから伸びる腕を掴んだ。指が食い込む強さで握られて、彼女の眉間に皺が寄る。

「……思い付きで行動するもんじゃないね」
「は、一言目がそれ?もっと他に言う事あるよね」
「離して。痛いよ」
「突然僕の前から消えて、何ヶ月も連絡すら寄越さなかったのはどういうつもり?」

先生となまえはいつも一緒だった。少なくとも、俺が初めて二人に逢った時からは。独善的で軽薄な男が優しい眼差しを送る唯一の相手。いつも寄り添って笑い合い、そして時折、何処か遠くを見つめては知らない誰かのような横顔を見せた。ダンマリを決め込む彼女に苛立ちを隠そうともせず、盛大に舌打ちをした大男が勢いよくこちらを振り向く。

「最近恵の外泊が多いのはそういうこと?硝子は彼女出来たんじゃないかって言ってたけど、んな訳ねーと思ったんだよ」
「失礼ですね」
「で、なに。休職して恵とお泊まり会してたの?随分楽しそうじゃん」

休職を決めた時、なまえは高専を出てから祓って祓って働き詰めだったから丁度良いと笑っていたけれど、嘘だというのはすぐに解った。先生が海外出張でいない隙に二人のマンションを飛び出した彼女が借りたのは、単身者用の小さな部屋。ベランダで植物を育てたいから南向きで陽当たりの良いこの部屋にした、と笑った。理由を問うことは許されなかった。

荷物持ちしてと言われて家具選びだ何だかんだと付き合わされたその日。津美紀の目が覚めたら、三人で暮らそうか。日当たりの悪い喫茶店で、珈琲をすすりながらぽつりと零された言葉が、本心ではない事くらいわかっていた。

「そんな事言われる覚えはないんだけど」
「実際行方不明かまして迷惑かけてんだろ」
「…硝子と夜蛾センとは会ってた」
「はぁ?!アイツもグルか!」

出張から戻って、彼女と彼女の身の回りのものだけが綺麗に消えた部屋を見た先生は怒り狂った。任務そっちのけでなまえの捜索を始め、一週間経つ頃に、これまた怒り狂った夜蛾学長の叱責と今にも魂の抜けそうな伊地知さんの泣き落としにより渋々任務に戻ったのである。

「今どこにいんの」
「言わない」
「まさか勝手に清算した気になってたりしないよね」
「それは、」
「僕別れたつもりないけど」
「…自然消め「してねぇよ」

刹那、二人の纏う空気が変わる。膨れ上がる呪力に髪が逆立ち始める先生を見て関わりたくないという思いが先行し、俺外にいますからと声を掛け踵を返した。多分この人達聞こえてねえけど。

「悟はどうしたいわけ」
「なまえはどうしたいわけ」
「何なの?一人になって寂しんぼですか?」
「そうだよ、悪い?」

余りに情け無いその声色に思わず振り返る。静かに閉まりゆく扉の隙間から、桜色に彩られた唇が小さく開きかけて、戦慄いてまた閉じるのが見えた。

「帰って来てよ、なまえ」

柔らかな午後の陽射しが差す病室。ほんの一年と少し前までは四人で笑っていたのになとぼんやりと考えて、もう二度と戻らない時を憶う。見えなくなるその瞬間まで、俯く彼女の長い睫毛が作る影だけを、俺は静かに見つめていた。



思い出がわたしを埋め尽くすまで





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