二〇一〇年五月。
卒業から二ヶ月が経った春の宵。

あまりの広さに目を白黒させるばかりだったマンションが漸く安息の地へと昇華した頃、家主が一週間出張で不在の折、硝子を飲みに呼び出した。

「丁度山を越えた所だったんだ、タイミングばっちり」

悟は教職へ、硝子は医師免許取得に向けて動きながら学校にも顔を出し、わたしは高専所属の呪術師として働き始めていた。卒業と同時に、流されるままに悟が持て余していた広いマンションに転がり込んだ時、硝子は少しだけ嫌そうな顔をしたけど止めはしなかった。

「またクマが濃くなったんじゃない?」
「もうコンシーラーじゃ隠れなくて、諦めた。良い酒飲めばそのうち治るさ」

あの頃より随分と伸びた髪をかき上げて、硝子が不敵に微笑む。日に日に目の下のクマが濃くなって痩せていくように見えた彼女だけれど、周りが思うよりもずっと芯が強いんだなと感心する。

「で、今日のお題は?」
「うん、まぁ」
「五条から逃げたくなった?」
「まさか」
「上手くやってんの」
「それなりにね」

久しぶりに顔を合わせたのは、恵比寿の路地裏のイタリアンバル。金曜の夜に相応しく店は賑わっている。

「よくあのクズと二人で暮らせるよな」
「意外にも、家事はめちゃくちゃ手伝ってくれる」
「振っといてごめんだけど、この世で一番興味無い話題だったわ」

わたし達が案内されたのはテラス席。程よく涼しい風が流れて身体を包む。ふわふわの膝掛けをわたしと硝子へ渡して、注文が決まったら呼ぶようにと店員が微笑んだ。長い髪を後ろで束ねた男だった。

「どうする?泡?白?ロゼ?」
「ワインは確定なんだ」
「当たり前じゃん。今日は飲むよ」
「望むところだ」
「いいね。飲める女はモテるよ」
「※硝子調べ」

メニュー越しに目を合わせて笑う。GWを終えて、呪霊が溢れ出す繁忙期に突入したとは思えない穏やかな夜だった。

「あのね」
「うん」
「傑のこと」

なんとなく漸く決心がついたのは、あらかた食事を終えて、三本目のワインが開いたところで。長い事口にしていなかった名前を出したら、そういう事かと硝子は薄く笑った。

「今でも思い出す?」
「時々」
「もっと早くこの話になると思ってた」
「それはわたしも」
「もう時効だから言うけどさ」
「うん」
「アンタが夏油について行かなかったの、凄く意外だったよ」

意外、と言葉を噛み締める様におうむ返しをすれば、もう一度、今度はちょっと悲しそうに彼女が笑った。

「なまえはこの世界が嫌いだと思ってたから」
「……そう見えてた?」
「うん」
「だとしても、それは傑の思想とは全然関係ないよ」
「後悔してる?」
「ううん、一つも」 

そう、と溢してからドバドバと派手にワインを注ぐ硝子がふと顔を上げて、なんだか含みのある視線を寄越した。

「……もしや硝子、勘違いしてない?」
「なにを?」
「付き合ってないよ」
「え?」
「傑とわたし、付き合ってなかったよ」

目を剥いた硝子が、信じられないものを見る様にわたしをまじまじと見つめた。

「……五条に操でも立ててたの?」
「はあ?」
「付き合ってんのかと勘繰るくらいの距離感ではあったけどな」
「……そうかな」
「はー、だからか」
「なにが?」
「私、聞いたんだ。あの時新宿で」

どうしてなまえを連れて行かなかったのって。アイツ何て言ったと思う?と硝子がニヒルな笑みを浮かべて目を細める。

「なまえには幸せになって欲しい。ずっと笑っていて欲しい。例えそれが、自分の隣じゃなくても」
「なにそれ……」

思わず大きな声が出た。酔っ払いばかりのバルの騒がしさと大きめの音量で流れるジャズに、尻すぼみになった語尾が掻き消される。

「狡いよそんなの。傑がわたしの幸せの尺度を測るなんて、そんなの間違ってる」
「そうだね」
「わたしが幸せかどうかを決めるのはわたしで、傑じゃない」
「私もそう思うよ」
「なのになんで、」
「愛してるからだって」

聞き違えたかと思った。漸くの思いで吐き出した吐息は震え、店の喧騒に沈む。動いた弾みに落ちかけた膝掛けを握り締める。

「愛してるから、連れて行けないって」
「、は」
「手元に置いて狭い鳥籠に閉じ込めるのは簡単だけど、そうして慈しむ振りをするのは本当の愛じゃないんだってさ」
「なに、それ」

言葉にならず、目が据わって来た硝子の垂れた目尻のほくろをぼんやりと眺めた。

「……相変わらず言ってる意味わかんない」
「まああれだな、付き合ってなかったんだとしたら愛云々は普通にキショいな」
「そういう意味で言ったんじゃないけど、」
「わかってるよ」

失くしたものを数えるのは、とうの昔にやめた。なのに、どうしてだろう。飲まなきゃやってらんねぇと零しワインを注ぐ彼女の横顔を、何も言えずに見つめる事しか出来ないのは。

「一個だけ教えてなまえ」
「…なあに?」
「アンタ、五条のこと好き?」

突然の問いに、面食らった。あれ以来一緒に暮らしているのはただの傷の舐め合いで、隣にいてくれるのもきっと一度拾った手前今更捨てるのは忍びないからで、

「……うん、たぶん」
「たぶん?っはは、ざまあねえな五条」
「わたし達、普通じゃなかったでしょ」

一拍置いて、まあねと硝子が吐き出す。傾けたグラスから、細い喉に深い真紅の液体が流し込まれていった。側から見た姿というのは大概自分の想像とは違う物だけれど、これだけは間違っていないはずだ。
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「普通の高校生じゃなかったじゃん。誰かが死んだりいなくなったり、それを仕方ないと思えるようになるっておかしいよね」
「まあ、イカれてんだろうな」
「普通の恋愛を知らないけど、普通じゃないってことはわかるよ」
「うん」
「だからこの気持ちを好きって言って正しいのか、いまいちよく分かんない」

溢れ出した支離滅裂な言葉に、硝子はそっかと小さく微笑んだ。

「大切にしてたものがバラバラに欠けていったら、残ったピースを必死でかき集めるでしょ。いまの悟はそんな感じ」
「ああ、それはなんとなく、わかる」
「でも、もし外の世界を知ってもっと沢山の人に出逢って、悟の世界の色が変わったら。きっとわたしの隣からは居なくなっちゃうんだろうなとは、ずっと考えてる」
「……へえ?」
「もうこれ以上何も失くしたくないのは、わたしもそうなんだけどね」

本当は解っている。彼の隣にいるのがわたしでは相応しくないことも、早く手を離してあげなければいけないことも。なのに、どうしても悲しくなるのだ。考える度に苦しくなって、決断がつかなくなってしまうのだ。

「アイツも同じだと思うけどね」
「そうかな」
「うん」
「アンタ五条のこと好きだね」
「そうなのかな」
「めちゃくちゃな」

愛だねと呟いた形の良い唇が、飲み干したグラスの縁に真っ赤な痕を残す。

「……硝子。愛ってなに」
「知らない。私に聞くな」
「知ったら、戻れないような気がする」

確かめる事は怖かったけど、いつまでも彼の人生を縛るつもりもまたない。綺麗に終われるなんて夢も見ていない。だから今だけは、こうして隣に在ることを許されたかった。

「そりゃ、呪いだな」

彼女の言葉と共に、ワインクーラーの中の氷がからんと音を立てて崩れた。滴り落ちた水滴はテーブルクロスに落ちて溜まる。わたしはそれをただ黙って見つめることしか出来ぬまま、今日もあえかに息をしている。



いつかこの恋が終わる瞬間を夢見ている





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