全てを放り投げてみて判ったのは、ひとりは淋しいというつまらない事実だった。

身の丈に合った部屋と家具。気の置けない親友が持ち込んだ年代物のワイン。念願のベランダ菜園。毎日温かい食事を食べて、命の危険に怯えることもない。何もかもを手に入れて、たった一つを失った日々。

と、多少なりとも感傷的になっていたのは先週までの話で。この一週間、執拗なストーカー被害に頭を悩ませている。

ある時はデパ地下の惣菜を持って現れ、またある時は夜通し映画鑑賞しに現れ、そして昨日、深夜に帰宅するとわたしの布団がこんもりと盛り上がっていた。掛け布団を捲れば案の定悟が大の字で寝転がっていて、流石に血管が切れそうになったのは言うまでもない。

『ねえ、どうなってるの?』

平穏な生活は完全に失った。今朝、高専で伊地知くんを捕まえて問い詰めると、目に涙を浮かべて頭を下げられた。通り過ぎる人達からは生温い目線を送られる。

『そもそも何で悟がわたしより先に帰宅してるの?特級術師っていつからそんな暇になったの?』
『も、も、申し訳ありません……!』
『伊地知くん、わたしのスケジュール横流ししてるでしょ!』
『みょうじさんより早く終わるようにスケジュールを組めと言われて……』
『へえ〜?素直に従ってるんだ?』
『脅されたんです!さもなければ夜の任務は全てサボタージュすると!そんな事をされたら回らなくなりますので……』

震え始めた伊地知くんの姿に、そういえば彼にこんな風に声を荒げるのは初めてだと思い当たる。少々言い過ぎたかと罪悪感が過ぎるが、ここで諦めたら奴の思う壺である。

『申し訳ありません!ご、ご理解頂けませんでしょうか!』
『なんでわたしが我慢しなきゃいけないの』
『う、お、お願いします、みょうじさんしか対応出来ない事案なんです』

更に反論しようと口を開きかけた瞬間、90度に腰を折った後輩の口から信じられない言葉が飛び出した。

『何とか耐えていただけませんか、世界の平和の為に……!』

そうして世界の平和の為に犠牲になる運命らしいわたしは、今日も玄関のドアを開けた瞬間に視界に入る黒い靴とソファからはみ出た長い脚に、溜め息を吐く事しか出来ない。

「なんでなの」
「ん?あ、おかえり」

我が物顔でソファにふんぞりかえる悟が、首だけ持ち上げて視線を寄越した。

「なんで今日もいるのって聞いてるの」
「え、お腹空いたからに決まってんじゃん」

キッチンへ直行し買ってきた食材を広げ始めたわたしの手元を覗き込もうと悟が起き上がる。一人暮らしの部屋に相応しいサイズのソファが、想定外の重みに耐え兼ねて情け無い悲鳴を上げた。

「あれ食べたい、大根と豚肉のやつ」
「人の話聞いてる?」
「家庭的であったかいものが食べたいんだよ。この半年、外食とコンビニ飯で食い繋いで来たから余計ね」

胡散臭い笑みを貼り付けた悟に溜息を吐いた。本当によく口が回る男だ。まるでこっちが悪い事をしている気分になる。

「家庭的なご飯なら、家政婦雇って作ってもらえばいいでしょ」
「絶対やだ。なまえの作ったものじゃないと食べない」
「子供か」
「僕の胃袋掴んだ責任は取ってよ!」
「面倒な女か」

恐らく恵の荷物を漁って作ったであろう合鍵をぶら下げて頻繁に、というか最早毎日、訪ねて来るこの男の辞書に、プライバシーという言葉はない。加えて言うならデリカシーの意味も知らないはずだ。

「わたし悟に会わないようにあの家を出て術師も辞めたんですけど」
「僕はなまえに会いたいからクソ忙しい仕事を調整してここに来てるよ」
「だから人の話聞いてる?」
「もう復帰したじゃん」
「不可抗力」
「僕を嫌いになった訳でもないくせに、なんでそんなに意地張るかな」

ぴくりと指先の筋肉が痙攣した。サングラスの向こうの瞳はここからじゃ見えない。冷蔵庫にしまおうと袋から野菜を出していた手は止まり、指先はどんどんと冷えて熱を失ってゆく。

「なまえ」

囁く様な声に、俯いていた顔をもたげた。ソファがぎしりと音を立て、立ち上がった悟はものの数歩でキッチンへ辿り着いてしまう。

「早く帰っておいで」
「……帰らないよ」
「お前は帰ってくるよ」

甘い響きだけれど、確証と自信に満ちた声。怒らないんだな、と思う。勝手に背を向けた女に縋るなんて、最強も形無しじゃないか。

「お?嫌がらない?」
「叫んだらやめてくれるの?」
「嫌で〜す」

最早一を言えば十返ってくる相手に一々反応するのも煩わしくて、背後に回った悟が腰に手を回すのを諦めの境地で受け入れる。

「あ゛〜、やば、半年振りのなまえ……」
「ちょ、苦し、」

抱擁を超えて絞め殺されそうになりながら必死で息を継いでいると、ごつごつとした指先が無遠慮に喉に触れた。

「なまえ」
「ねえっ、力加減おかしっ、」
「僕が大人しくお前を手離すと思った?」

低い声が脳を突き刺す。自分が唾を飲み下す音が酷く大きく聞こえた。ああ、まずい方向に話が向かっている。

「……っ、そっちこそ、本気でずっとあのままでいられると思ってたの?」
「どういう意味?」
「何の取り柄もない、術師の家系でもない、そんな女が悟の隣にいる事を、あの家が黙って許すと本気で思ってた?」

皮膚を撫でる感覚に呼吸が震える。そのままゆっくりと首筋をなぞった指先はそっと離れていく。

「……何が言いたい?」
「約束をしてた」

瞬間、すっと部屋の空気が変わった。背後で呪力が乱れて気付く。ああ。今度こそ怒ってるな、それも結構本気で。

「……はあ。今ので大体わかったよ」
「……そう?」
「どうせ僕の結婚相手が決まる迄はお情けで見逃してやるけど決まったら消えろとか言われたんだろ。この半年間舞い込み続けた山のような縁談話もそういうことだろ」
「だったら、」
「そんなの全部どうでもいい」

ぐるりとひっくり返されて向かい合う。キッチンのカウンターに打ち付けた腰に広がる痛みに奥歯を噛んだ。

「どうして守った、そんな約束」

滲む視界の向こうで、歪んでいく口元が見えた。それはまるで我儘を聞いてもらえずに今にも泣き出しそうな、子供のような、そんな表情で、

「なんで一人で逃げたんだよ」
「……悟、」
「居なくなったりしないって言った。一人じゃないって、言っただろ」

置いていくなよ、と、絞り出すような声が鼓膜へ届く。ああ、きっと悟はそう言うと思ってた。そうやって恐ろしくなるくらいに呆気なく、すべてを棄てようとするだろうから。だからわたしは、

「貴方を護りたかった」
「……は?何の話?」

肩口に乗った頭の重みも、首筋にかかる吐息も、頬をくすぐる柔らかな白髪も、どうして今ここにあるのか解らないし、わかってはいけない気がした。

「なに、脅されてたの?」
「違うよ」
「説明してくれないとわかんねえんだけど」
「解る必要なんてない。解る訳もない。わたし達ずっと、お互いのことを知らなかったんだから」
「さっきから何言ってんだよ」
「十三年間、何も知らなかったんだから」

失うことで、護れるものがあるのなら。いくらでも嘘を吐く。なんだって棄ててやる。誤魔化して欺いて見限って、だって本当は、本当はね、


「悟、ゆるして」


蒼の水面が揺らめいた。わたしがいないと駄目だと言う悟を見て、心底安堵しているこの気持ちも捨てなくちゃいけない。忘れたいと思ったことも、忘れなければいけないと思ったことも、一度だってないけれど。


「ゆるさないよ」


忘れることは赦すことだと、そう言ったのは誰だったっけ。果たしてわたしは悟に赦されたかったのか、それとも。


「死んでもゆるさない」


ずっと、歩く道を間違え続けている。わたしはいつか、わたしがいるだけで、この人を不幸にしてしまうかもしれないのに。だけどその蒼に溺れて死んでしまえるのなら、本当はそれでよかった。それだけで、よかった。



私たちこんなふうに満ちたりたかった





/afterglow_gg/novel/1/?index=1