医務室の扉を開くと、薬品と少しの煙草の匂いが鼻をつく。くるりと椅子を回して振り返った美女は、今日も今日とて目の下に濃いクマを携えていた。

「ん、釘崎。珍しいな」
「煙草、随分前に辞めたって言ってませんでしたっけ?」

上目遣いで私を見上げてくすりと笑った硝子さんが長い髪を耳にかけた。女の私でもドキリとする、流れる様な所作だった。

「怪我?」
「目立つ所切られちゃって」
「準備するからそこ座ってて」

ベッドを指差されて腰掛けてから、質問の答えを貰えなかった事に気付く。瞬間、再び医務室のドアが開いた。

「硝子いるー?」
「お、なまえじゃん」
「ごめんちょっと匿って」
「その感じはまさか?」
「うん、逃げてきた」

硝子さんの前の椅子にすとんと崩れ落ちるようにして座り、はぁと溜息を吐いて携帯を取り出したそのひとは、沢山アプリの入った端末の画面を素早くスクロールする。

「どこに居てもすぐ捕まるんだよね。GPSでも入れられてるんじゃないかと思ってんだけど、それっぽいのは見つけられなくて」
「メカ強そうな奴に聞いてみたら?」
「えー誰がいる?七海は分かんないって」
「猪野とか」
「やっぱ聞くなら若者かあ〜」

主語がなくとも、彼女を追い回しているのが誰かは想像に容易かった。我が担任の痴態に何も言えずにいると、納得顔で頷きながら視線を上げた彼女とばちりと目が合い、丸い瞳が驚きに見開かれていく。

「ごめん、取り込み中だった?」
「あー、いいよ別に。これ釘崎野薔薇。アンタの大好きな恵クンの同級生ね」
「……ああ!恵から話は聞いてます。はじめまして、野薔薇ちゃん」
「はじめまして、なまえさん」
「いつも恵と仲良くしてくれてありがとう」

花が咲くように笑う人だった。これはあのバカ目隠しが熱を上げるのも分からんでもない。瞬時に頭の中で二人を並べてみる。黙ってさえいればお似合いの二人かもしれない。黙ってさえ、いれば。

「……またそうやって。伏黒の事いくつだと思ってんの」
「十五歳?」
「小学校のお友達じゃないんだからさ」
「……でも、恵はまだ子供だよ」

少し気まずそうに顔を逸らし、視線を落とす。長く伸びた睫毛が影を作りアンニュイな空気が漂った。既知の女性術師のイメージ――強く、逞しく、多分にイカれている――とは随分かけ離れたところにいるひとだ。

「あのー、気になっていた事聞いてもいいですか?」

挙手しつつカットインすれば、少し驚いた顔をした後どうぞとにこやかに頬を綻ばせる。

五条先生アイツとはどういう関係?」
「わあ、ストレートど真ん中」

けらけらと笑って、んんーとわざとらしく唸り始める横顔には微笑みが浮かんでいる。あの日虎杖が言った、幸せオーラ、という文字が脳裏を過ぎった。

「十三年間一緒に居た人、かな」
「え、まさかの過去形?」
「お、いいツッコミだ釘崎」
「いつから付き合ってたの?」
「つき、うーん、難しいな」
「まあ高専卒業と同時に、じゃないの」

まあ、うん。渋々頷くなまえさん。嫌そうに睫毛を伏せた仕草が同級生を連想させて、ああ、伏黒はほんとに小さい頃からこの人の側にいたんだなと思う。

「突然同期二人が一緒に住む事にしたと言って来た時の私の気持ちを述べよ」
「ちょっと硝子……」
「で、拗らせた挙句にストーカー状態に陥った時の硝子さんの気持ちを述べよ?」

頭を抱えてしまうなまえさんとは裏腹に、肩を震わせて机をバンバン叩く硝子さんは相当ツボにハマったらしい。

「ざまあ五条。いいぞ釘崎もっと言え」
「硝子酷い!面白がってるでしょ!」
「だって、鍵渡してないのに家に帰ったらいるんだろ?ストーカーは言い得て妙だ、っふ、ふふふ」
「もう!ほんとやめて?!」

片方は耳を赤くして悲鳴を上げ、もう片方は口の端を引き攣らせながらまだ笑ってる。美人が戯れると絵になるとはこの事か。

「はあ、最高。今度本人の前で言ってみて」
「了解」
「やめてくれる?!」
「学校で逃げたって無駄じゃん。諦めろよ」
「学校でくらい自由にさせてよ…」

消毒液を手繰り寄せる硝子さんに手招きされ、素直に腕を差し出す。そういえば治療してもらいに来た事を完全に忘れていた。傷口に遠慮なく塗りたくられる液体があまりにしみて、思わず悲鳴を上げる。

「ちゃんと別れられてないのが悪い」
「、自然消滅狙ったつもりだったんだけど」
「半年も家出されちゃ、普通はそうなるんだろうけどな」
「よく分からないけど、先生の事本当に嫌になったなら、嫌だってはっきり言ったら?」

長年連れ添った家族同然の関係と言えど不法侵入なんてデリカシーなさすぎ。そんな単純な思考だった。だから二人が同時に口を噤んで、二の句が継げずに言い淀んだのは、何とも想定外のことだったのだ。

「……悟の隣に居続ける為には、強く正しくいなくちゃいけない。それが、苦しかっただけだよ」

さとる。彼女が紡ぐその名前には、嫌悪感や拒絶は感じられない。ただただ、哀しみと慕情が織り混ざる。一瞬、誰のことを話しているのかわからなくなるくらいに。

「どうして強く正しくいなくちゃいけなかったの?」
「……え?」
「先生が言ったの?」
「釘崎」

私の投げた問いになまえさんの表情が曇って、見かねた様に硝子さんが口を挟んだ。

「大人になるとな、信じられないことが沢山起きる」
「……?」
「家に帰ったら不審者がいるとか、携帯に見覚えのないアプリが入ってるとか」
「笑えない冗談」
「ま、好きとか嫌いとかそんな次元は凌駕してさ。なまえは、五条から離れなくちゃいけなかったんだよ」

よくわからないと返したら、硝子さんも私もよくわからないよと返事をした。

「五条の所為で、なまえの世界はいつまで経っても五条だけで構成されてた。縋るものは五条しかない小さな世界」
「何それ……束縛ってこと?」
「そんな可愛いもんだったら良かったんだけどな。あれは呪いだろ」

忌々しげに零された硝子さんの台詞に、言葉に詰まった。他人に解くのは不可能ね、と付け足した艶やかな唇。気怠げに髪をかき上げる白い指先。深いクマのある目元が、鬱陶しそうに瞬いた。

「いい加減に一人で歩かせてやれよって、私はそう思ってる」

言葉にならず、息を呑んだ。まだよく知らないもう一人の女の美しい横顔を、脳裏に焼き付けるように盗み見る。多くを語らない小さな唇は、左の口角を上げて薄らと微笑んで。長い睫毛がゆっくりと瞬き、深い色の瞳は遠くを見つめていた。彼女の見据える先にも、隣にも、先生の姿はなかった。



うつくしくないかたちでもよかった





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