休職初日、目覚ましを掛けずに目が覚めるまで好きなだけ寝た。洗い物も洗濯も仕事も、すべてのしがらみを放棄して貪る惰眠は至福の時だった。

二日目、少し外に出てみようと思ってデパートへ行った。服と靴とコスメ。欲しい物を欲しいだけ買ってみたら物欲が満たされた。 

三日目、安易に出掛けた事を硝子に怒られたので、断捨離をしようと思い立った。袖口から糸の出たパーカーや身頃に毛玉のついたセーターを捨て、昨日買った服をクローゼットにかけた。黒い服ばかりが詰まっていた場所に、春のような柔らかな色合いのブラウスが揺れる。少しだけ心がすっきりした。

四日目、書類整理の最中、何気なく通帳を開いた。忙し過ぎて今日まで使い所の無かったお金。命を削って稼いだお金。やっぱり使い道はわからなくて、棚の中に置いて戻した。

五日目、引き続き書類整理をしていたら懐かしい写真を発掘した。まだあどけない四人が並ぶ一枚をアルバムから抜き取って、そっと手帳に挟んだ。

過去の想い出に縋るなんて、何もかもが嫌になった訳ではないらしい。相変わらず君は甘いね。傑の声が聴こえた気がした。小さな綻びはいつか必ず大きな傷になる。そんな事は、誰よりも知っている。わたしが一番、よく知っている。









「どうして貴女はいつも寮の前で転がっているんですか」

聞き慣れた声に瞼を押し上げれば、長い影が伸びるのがぼんやりと映る。見上げた先では、一つ下の後輩が眉間に皺を寄せて仁王立ちをしていた。

「……寝てた」
「見れば分かります」
「……恵を待ってるの」

ベージュのスーツの裾を眺めながら、逃亡生活は少し前に強制終了させられていた事を思い出す。もう戻らない平穏な日々に想いを馳せる己に自嘲して、ゆっくりと瞬きをひとつ。

「懐かしいね」
「あまりのデジャヴにタイムスリップしたかと錯覚しそうになりました」

学生時代、よくこうして男子寮の前の芝生に寝転がって同級生を待っていた。あの頃も、だらしなく横たわるわたしを見てこの男は険しい顔をしていたっけ。

「やだ、七海もそんな冗談言えたの」
「何もかもがあの頃のままだったので。貴女が年を取った事以外」
「死にたいの?」

低い声を返しながら、背中や肩に突き刺さった芝を払って立ち上がる。届かないところを叩いてくれる後輩は優しい。ちょっと力加減がおかしいけど。

「七海こそなんでここに?」
「虎杖君に先程の任務の報告書の件で話がありまして」
「そう。ちゃんと優しくしてあげてる?」
「……それより、こんな所にいたらまた捕まるのでは?」

華麗に話を逸らしてきた後輩を睨みつければ、どこ吹く風といった顔で見下ろされる。

「大丈夫、今日は夕方まで任務で不在」
「把握してるんですね、スケジュール」
「伊地知くんに協力してもらってて」
「貴女に協力しているという事は、逆もまた然りですね」
「……なんだ知ってるの」
「掌の上で転がされているようで」
「性格わるーい」

不機嫌そうに斜め上に飛んで、暫くの後に戻ってきた視線が、今度こそわたしを捉えた。

「……昨日五条さんから怖い話を聞かされましたが、嘘ですよね?」
「………え?」
「あの人虚言癖があるので念の為確認です」
「何待って全然聞きたくない」
「何でも、貴女が戻って来るまであと一歩とか何とか」
「は?!」

心外だという怒りを込めて睨みつければ、これ以上ない程大きく溜息を吐いた七海がサングラスを押し上げて冷たい視線を寄越す。

あの時・・・、貴女に忠告したつもりでしたが、話半分にしか聞いていなかったようで」
「……ちゃんと覚えてるよ」
「であるならば連日あの人と関わりを持つのは間違いでは」
「何をどう言われたか知らないけど、悟が勝手に家に入ってくるの。でも、引っ越しは考えてるから」
「最早そんな問題ではないでしょう。気付いたらまた同じ地獄に引き摺り込まれて…それが地獄とは思わずに笑いながらもがいている。可哀想なくらい愚かなひとだ」
「は、なにそれ、」
「何を迷っているんですか」

靴の先辺りにあった視線が、しっかりとわたしの瞳を捉えた。

「貴女はもう少し、自分で選択をすべきだ」

七海の背後で寮の扉が開く。着替えを済ませた恵がわたしを見つけ、少し口元を緩ませた。手を振って笑ってあげたいのに、頬の筋肉は強張ったままぴくりとも動かない。

「捨てたっていい」

彼らしからぬ強い口調に、肩が跳ねた。声が聞こえる距離ではない。それでも、怪訝そうな顔をした恵が歩みを早め、みるみる間に距離が詰まる。なまえ、見慣れた形に唇が動いた。昔から勘の良い子だった。浅はかな思考など全て見通しているかのような、黒い瞳に映る自分が恐ろしかった。

「手を離す事は罪じゃない。誰になんと言われても、あの人がこの先死ぬまで孤独でも、もしも貴女が他の誰かを愛する日が来ても」

ああ、馬鹿だね、七海。選択することはもうずっと前に辞めたのだから、わたしは迷ってなんかいないのに。

「自分で選ぶという事は、貴女が生きていくという事ですよ」









「ああ、伏黒君。ごきげんよう」

小走りで駆け抜けた芝生の上、二人の間に割って入るように滑り込んだ。

「七海さん、どうも」

寮を出た瞬間、見えたのはスーツ姿の大きな背中と引き攣ったなまえの表情。声が聞こえる距離ではなかったけれど、七海さんの告げる何か――確実に碌な話ではない――が彼女の心を刺したと言うことはすぐに察した。

「私はもう二言三言この頭の弱い先輩に言ってやらないと気が済まないのでちょっとお待ち下さいね」
「え、ちょっと」

俺を押し退けてなまえに詰め寄った七海さんが「大体貴女は……」と小言を溢し始めた。後ろ手になまえが俺の袖を引くけれど、直ぐに気付かれてはたき落とされている。ただならぬ気配を感じたと思ったが、大丈夫そうな雰囲気だった。心配した自分が阿呆らしくなって、細く長く息を吐く。

少し傾斜のついた芝生に散らばったままの彼女の鞄の中身が目についた。しゃがみ込みひとつひとつ手に取っていると、手帳に挟まっていたであろう写真が半分ほどはみ出ていて、まだあどけなさの残るなまえと先生が制服姿で幸せそうに微笑んでいた。学生時代の写真だった。今よりも短く切り揃えられた髪が幼さを助長しているような気がして、思わず頬が緩む。

なまえと先生の家には、昔の写真が全くと言っていい程存在しなかった。置いてあるアルバムは全て俺と津美紀の成長記録。部屋に飾られる写真は俺達がガキの頃のものか、節目毎に四人で撮った集合写真。だから昔を覗いてみたくなって、つい出来心で写真を引き抜いた。
 
「 え? 」
 
先生とは反対側、なまえの隣の家入さんの肩に手を置いて微笑む男の顔を見て、呼吸が止まる。切れ長の瞳、長い黒髪に高専の制服。四人目の同級生。思い出すのは半年前のクリスマス。企てられた百鬼夜行。処刑された呪詛師。乙骨先輩が言ってた。先生はあの日、この男を―――

「恵」

なまえの声が聞こえて、我に返った。慌てて写真を手帳に差し戻し振り向くと、漸く気が済んだらしい七海さんが背を向けて去って行くところだった。

(手帳、どうすっかな…)
 
鞄にしまい損ねて後ろ手に持ったままの指先にぎゅっと力を入れる。何となく、このタイミングで手帳を返すのは憚られた。少しはみ出た写真の端を手帳の中に押し込んで、自分の鞄にそっとしまう。
 
(あとでこっそり返そう)

気付かれないように瞼を伏せて、思い返す。彼女が時折見せる空虚な瞳。手を引かれて行った日の入りの海。西日の差す部屋で蹲る背中。なまえと先生はずっと一緒だった。初めて彼女と会った日から、半年前のあの日まで、ずっと、ずっと、一緒だった。そんな二人を違え引き離す程のものが一体何であったのか、長い間解らなかった事が今ほどけていくようだった。

「恵?行かないの?」
「ああ、」
「変な顔……何かあった?」
「何でもない」
 
言葉を濁した俺に首を傾げたなまえ。ああ、まだ俺の知らない事があったんだな。いや、全てを知っていたと思うのはあまりにエゴか。つかず離れずの距離を保つ二つの背中を憶い出し、どうしようもなく胸が詰まった。

「帰ろう、恵」

優しい声でなまえが笑った。いま俺が一番失くす事を恐れている微笑みを、惜し気もなく見せて笑った。

「ああ、帰ろう」

俺達は今でも、凍ってしまった海の上を歩いている。今にも踏み抜いてしまいそうな、薄い氷の上を。ここまで流されて来た波の色がどんなだったかは、もうずっと思い出せないままで。



ないものばかり愛しているなよ





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