その
二〇一一年 九月。
任務終わりの―――お世辞にも初対面の人に会うに相応しいとは言えない身なりの―――わたしの前に突然現れたのは、上等な着物に身を包んだ物腰柔らかな老紳士。名乗らずとも分かる、五条家の人間。
立ち話は何だからと誘われて入った古い喫茶店。頼んだ珈琲に口を付ける事もないまま、その
「互いに忙しい身です。単刀直入に言いましょう。身を引かれるおつもりはありますか」
どくりと心臓が鼓動した。丁寧な言葉。その裏に隠された無数の棘。息を呑むわたしを一瞥し、その
「無さそうですね」
「、突然そんなことを言われても、」
「五条家に必要なのは、呪いの見えぬ両親の元へ産まれ落ち仕事に邁進する女ではない。子を産み、術式を繋ぎ、家を守る女です」
端からこちらの言い分など聞くつもりは無いのであろう強い言葉。射るような視線に堪えきれず、俯く。
「決して、貴女ではないという事です」
空も暮れ始めた平日の夕方。他の客もおらず閑散とした店内には、レコードから流れるジャズピアノの音が広がるだけ。
「……わたしは、五条の御家に入りたくて彼の傍に居る訳ではありません」
暫くの後に絞り出した言葉を、その
「有象無象の男性であればそれで良かったでしょう。しかし、五条家ではそんな理屈は通用しない。それくらい貴女でも判ると思ったのですが」
「……それは、」
掠れた声が出た。どうしてか、漠然とした恐怖に相反して、心の深く底のほうはぞっとするほど凪いだままだった。
「貴女に、悟様が抱える全てを支える事が出来るのですか」
冷めてしまった珈琲の香りが肺を満たす。メニューを抱えたウエイトレスが、通り過ぎ様に好奇心に満ちた一瞥を寄越した。
「どんな事があろうと、貴女だけは味方でいる事が出来ますか。他の何を棄てても、悟様だけを護る事が出来ますか」
こういう時、取り乱して泣ける女ならどんなに良かったかと思う。だけど、嘘でも泣いて縋れる女にはなれない時点で、きっとこれ以上なく相応しくないのだろう。
「……出来ないかもしれません」
小さな声も逃さずに拾い上げたその
「……であるならば、」
「支えることも、護ることも出来ないかもしれません。だけど、もしもいつか彼が間違える時はわたしも間違える。堕ちるのなら一緒に堕ちる」
「貴女は一体何を言って、」
「それしか出来ないけど、彼が何者であろうと、わたしにとって悟は悟なんです。家とか、そういうのは関係なく……」
「ですから、五条家では、」
「ただ傍に居ることも、彼の幸せを願うことも、罪ですか?わたしの世界には、悟以外はもう何も、」
一息に言い切って我に返る。いま自分が口走った全てを思い返して背筋が凍った。目の前の相手の顔など見れなかった。こんなの、絶対に許される筈がない。
「………ご結婚相手が決まる迄です」
「………え?」
幻聴かと驚いて視線をやれば、背筋をぴんと伸ばしたまま顔色一つ変えない男から先程迄と同じトーンで告げられた言葉。
「正式に決まり次第、速やかに呪術界からも去っていただきます。勿論今後一切の生活の補償は致しますのでご心配なく」
「っ、補償なんてそんなもの要りません!」
「その代わり……」
その
「約束をして下さい。貴女は正しく在ると」
「ただしく、ある」
「どんな時も決して間違える事なく、迷う事なく、悟様の隣に在って恥ずかしくない人間であり続けるという意味です」
光が強まり、世界が橙に染められていく。逆光の向こうのその人はひとつも笑うことなく、静かにテーブルを立った。
「一緒に堕ちるのではなく、先を照らし導く存在でありなさい」
美しいアンティークカップ。店内を満たす挽きたての豆の香り。この
▽
「なまえ、起きて」
揺り起こされて瞼を押し上げれば、悪戯っ子のような顔で微笑む悟がいた。いつもの目隠しもサングラスもしておらず、揺れる髪からはお揃いのシャンプーが香る。
「……あれ、わたし、」
「吃驚したよ。帰ってきたら部屋暗いしブラインドも開いたままだから、いないのかと思ったらソファに倒れてて」
よく寝てたねと大きな手が髪を梳いた。霞む視界のまま、高速で頭を回転させて必死に思い出す。あの喫茶店からとぼとぼと家に帰り、汚れた服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。部屋着に着替えて化粧水を塗って、髪を乾かした所で気力が尽きてそれから、よく覚えていないけれどソファで寝落ちしていたらしい。
「今帰ってきたの?」
「ううん、少し前」
「え、起こしてくれればいいのに。ごめん、わたし悟のご飯の準備、」
「起こすの躊躇う位あんまりぐっすり寝てたから。ご飯は食べて来たし、お風呂ももう入ったよ」
優しく往復する掌の温もりに安堵の溜息を吐く。窓の外はすっかり日が落ちて、世界は真っ暗闇だった。無数の光が点在する。それを彼の肩越しに見つめる。
「何かあったの?」
「なんにもないよ」
「長野の任務長かったから疲れた?あ、それか蕎麦食い過ぎ?」
学生時代の粗暴な口調と振る舞いからはまるで別人のようになってしまったと思う。あの頃弱い者を見下して乱暴で仕方のなかった彼の、時折垣間見せる孤独や、見えない壁の向こうにあるあったかい素顔とか、そんなところがどうしようもなくもどかしくて仕方なかった。いつまでも大切にしたくて、だからこそ手に入れてはいけない気がしていた。
「さ、ベッド行こ」
大きな手が肩から滑り落ちていき、服の隙間をぬって這う。直に触れられた肌が粟立つのを感じ、思わず視線を逸らした。もう数え切れない程に肌を重ねていても、未だに触れられる度に心臓が煩い。
「ちょっと、」
「んー?」
「寝るんだよね?」
「まさか」
色香と焦燥を纏った双眸に射抜かれて、心臓がどくりと音を立てた。優しく弧を描き、大人になったわたしを映す変わらない蒼。何処までも深いその瞳に、あの頃からずっと囚われたままだ。
「なまえ、好きだよ」
啄む様な口付けに目を閉じれば、いつの間にか後頭部に回った手にぐっと頭を引き寄せられる。
「ずっと、大好き」
嬉しそうな声。幸せいっぱいの微笑み。傑が居なくなってもう四年が経つ。彼からまた何かを奪うなんて、考える事すら罪に思えた。重ねた時間の分だけ大人になったわたし達は、少しずつ何かを手放しながら、ずっと隣で生きてきた。ずっと二人で生きてきた。わたしには、悟しかいなかった。