昨日までの雨が嘘のような、蝉の声が鳴り響く蒸し暑い晩夏だった。

徹夜明けの任務を終え高専へ戻ると、顔は何となく見たことがあるけど名前は分からないジジイ共がぞろぞろと行列を為している所に遭遇した。揃いも揃って俺を見て媚びへつらうように嘲笑うのが気色悪くて、視線を逸らし歩を進める。


―――化け物が


すれ違った刹那、小さな声が聞こえた。そういう陰口は言われ慣れている筈だった。人間じゃないとか、自分達とは違うとか、そういうやつ。なのにその日はどうしてか、激しく心の奥底の方を抉られる心地がした。一番柔らかい所をゆっくりと一枚ずつ剥がされるような、そんな痛み。


(人間じゃねえのは、お前らの方だ)


胸に滾るどうしようもないもの。あの日、天内が死んだ日、自分が何か人ならざるモノへの一歩を踏み出した事はわかっていた。あの日傑は、イカれた信者達を殺さなくていいと言った。それには意味が無いからと。だけど、天内はもう何処にもいない。次の日から日常が戻った。どいつもこいつも狂ってる。元になんて戻れる訳がないのに。

気付いたら、遠去かる複数の背中を追いかけていた。こんな時、自分の脚が長い事に感謝をする。こんな瞬間一秒でも早く終わらせてしまいたい。一秒でも早く、この世界から、

「悟」

優しい声が俺の名を呼び、その優しさにそぐわない強い力で腕を掴まれ振り返った。

「なに、」
「殺すの?」

背の高い木々の隙間から漏れる木漏れ日の下で、光を纏って立つなまえは見た事のない顔をしていた。この世のものとは思えぬ光景に、思わず情けない声が漏れる。

「…は?」
「わたしも一緒に殺そうか?」

息を呑んだ。そこには意味も理由も無かった。それでも一緒に手を汚すと、堕ちてやると、彼女はそう言っていた。

「なんで、お前が」
「悟がやるならわたしもやる」

なまえは瞼を伏せなかった。真っ直ぐな瞳の深いところにある彼女の芯のようなものを見ていた。天地がひっくり返っても手には入らない、そんな光が見えた。

「一人じゃないよ」
「は、」
「悟はもう、一人じゃない」

朝早くの高専の敷地内。鳥の声と虫の声、それから青々と茂った葉が風に騒めく音だけが響くその世界で。なまえの声が俺の心を掬い上げた。

「帰ろう」

差し出された手を取ったのに、深い意味など無い。泣きながら笑った彼女を、失いたくないと思っただけだ。

手を引かれ、寮までの道のりを歩いた。雨上がりの柔らかい芝と立ち込める青くさい匂い。これから一生思い出すだろう手のひらの温もり。立ち昇る紫煙の下に傑と硝子が見えた瞬間、一度強く握られた手はゆっくりとほどけるように離れていった。

「二人ともちゃんと我慢して偉かったね」

事の顛末を聞き呆れたような溜息を吐いた後、傑が紡いだ落ち着き払った声が、いつまでも耳の奥底の方に残っている。

「大丈夫さ。君達なら、全部大丈夫だ」

あの時傑が、私達、と言わなかった事には後になって気付いた。それが多分、俺達の犯した最大の罪だ。









見つめる先の暗闇には、光などない。

窓を叩く雨音だけが響く真夜中の寝室。隣で眠るなまえは穏やかな寝息を立てている。どうしても眠りにつけなくて、ぼんやりと白い天井を眺めては過ぎし青い日々を回顧するも、逆に目が冴えてしまった。もう暫くは眠れないだろう。起こさないようにそっと布団を出て、真っ暗な部屋の戸を開いた。

二〇一一年 十月。

電気を付けず、代わりにリビングのブラインドを全て開け放って、ソファに深く沈む。遮る物の無い大きな窓の外には、雨に濡れた東京の街が広がっていた。こんな夜中にまだ明りが灯っている事に少し胸を撫で下ろす。眠れないのは自分だけではない。

首をもたげ、天井を仰ぐ。広い部屋だった。遠方への出張で不在にする事も多いけれど、ここならなまえも窮屈な思いをしなくて済むだろうと思ってこの部屋を選んだ。彼女はよく「悟が持て余していた部屋」と言うけれどそれは大きな間違いで、此処は二人で住む為に高専を卒業する前に買った。都心にありながら高専へのアクセスが良く、セキュリティも万全。謂わば彼女を閉じ込める為の部屋。

なまえはどう思っているのだろうと余計な事を考える。無理矢理引き摺り込んだ僕の地獄で、この小さな箱に収まって、きちんと息が出来ているのか。永遠に傍に居ること。それは簡単なようで、果てしなく途方も無い願いに思えた。

「悟?」

耳をついた小さな声に振り返れば、リビングと廊下を隔てる扉を押し開いて入って来る影を視界に捉えた。

「ごめん、起こした?」
「ううん、最近ちょっと眠りが浅いだけ」
「本当?」
「うん」

僕の隣に腰掛けた彼女の重みの分だけソファが沈む。肩口へ頭を寄せた身体をブランケットで包み、そのまま腕の中に閉じ込めた。

「悟、帰ってきてたんだね」
「早くなまえの顔が見たくて巻きで終わらせた」

今年は災害の影響で例年の何倍も呪霊が多く出て、ずっと家には帰れない日々が続いていた。こうして柔らかな頬に触れるのも、酷く久しぶりのことで。

「今日はどうだった?休みだったんでしょ」
「……埼玉行ってたんだけど、恵が喧嘩して帰ってきてさ」

数年前、天内を殺した男が禅院へ売ろうとしていた子供をピン撥ねした。情操教育の為にと硝子にゴリ押しされてなまえを引き合わせたが最後、あっという間に仲良くなって彼女の生活の大部分を子供達が占めるようになっていた。

「また?」
「うん。傷だらけで血も出てて、津美紀が泣いて大変だった」

おまけで付いてきた非術師の義姉を、僕はおもりだと思った。だけれど彼女は二人を纏めて慈しみ、平等に愛を注ぐ。

「シッター雇おうよ」
「どうして?」
「何時迄もなまえが目に掛ける必要は無い」
「いいの。可愛いよ、二人とも」

津美紀は彼女に似て真っ直ぐに育っていた。性善説を地で行くような、優しい子に。反対に恵は無愛想で捻くれて、あの年にして守るべきものを選別している。先が思いやられるなと溜息を吐きながら、不平等に人を愛するのは他ならぬ自分を見て覚えたのかもしれないと自嘲した。

「もっと僕に頼っていいんだよ」
「もう充分頼ってるよ」
「そうじゃなくて、何もかも」

細く長い溜息が暗闇に溶けていく。こうして真っ暗な部屋の中で抱き合っていると、いつかのホテルでの夜を思い出す。終ぞ誰にも打ち明けなかった、二人で泣いたあの夜を。

「あの子、誰の事も信じてない。それがわたしは、すごく寂しいから」
「……うん」
「一人じゃないって、誰かが教えてあげないと」

一人じゃない。それは、彼女が僕に与えてくれた事。人とは違う、他人と同じにはなれない、永遠に理解される事もない独りぼっちの暗闇の中で。差し伸べられた、たった一筋の光。僕の世界は確かに彼女によって構築されている。たとえそれが、なまえという存在を失った瞬間に呆気なく崩れ去る砂の器だとしても。

「なまえも一人じゃない」
「……うん」
「ずっと一緒だ」
「ずっとって?」

薄らと笑ったなまえの頬に触れる。少し首を傾げてゆっくりと近付く距離。かさついたままの唇を重ねた。頬はひんやりと冷えているのに、触れた唇は確かに熱を孕んでいるのが堪らなかった。

「君が僕を嫌いになるまで」
「……じゃあずっとだね」

包み込むようにして掻き抱けば、確かな重みと温もりを感じる。大きなことは望まない。静かに過ぎていく日々を、この小さな温もりを、ただ守っていきたい。例え、他の何を犠牲にしたとしても。

「なまえ」
「ん」
「君の為なら何でも出来る」

一瞬身体を強張らせた後、なまえは瞼を伏せてどこか寂しそうに微笑んだ。

「……怖いこと言うね」

繋いだ指先が少しだけ緩んだのを、離すまいと握り直す。何処にも行ってくれるなと願いを込めて、繋ぎ止める。

「愛の呪いだよ」

彼女はもう笑わなかった。さっきより強まった雨脚が窓を叩く音だけが聴こえる。握り返された手は、骨が軋む程の痛みを寄越した。

それから僕らは無駄に広いソファの端っこで、喪失感を埋め合ったあの頃の様にきつく抱き締め合って眠りについた。なにひとつ、夢は見なかった。



悲しみであなたを殺せたら





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