二〇一三年のあの夏、俺達が住んでいたのは、木造二階建て西向きのボロアパート。壁なんてあってないようなもんで、隣に住む男が女に罵詈雑言…だけなら良いけど殴ってる音も泣いて助けを乞う声も聞こえるのだから救いようのない場所だった。そんな底辺の世界に頻繁に現れる些か浮世離れした黒ずくめの男女は、凡そ近所から好奇の眼で見られていたことだろう。
「恵、海に行こう」
ある日、下校するとアパートの前でなまえが待ち構えていた。彼女の誘いはいつだって唐突だったけど、でもその日は少し様子が違ってて。まだ戻らない津美紀を待つ事もなく、着の身着のまま俺はあのボロアパートから連れ出された。
「なんで海?」
「何時迄経っても連れてって貰えないから」
「……五条さん?」
「代わりに付き合ってよ」
「いいけど、五条さん怒るかも」
そんな人じゃないよ。駅へと向かって歩く道すがら、なまえは小さく笑って誤魔化した。彼女の白く柔らかな手が好きだった。今日はこの手を独占出来るのだと思うと、今が夕方だという事にも、こんな時間から海へ行く事のおかしさにも、ちっとも気付かない程に気分は高揚していて、
「恵は海好き?」
「あんまり行った事ないから分かんねえ」
「そっかあ」
「けど、なまえが好きなら嫌いではないと思う」
多分、と付け加えたけれど、それでも彼女は満足そうに笑った。日中はまだ暑く汗ばむような、よく晴れた九月の事だった。
「海行って何すんの?」
「海、見るんだよ」
「それ楽しい?」
「…そうだね」
応えているようで答えになっていないと思ったけど、それを伝える事はなかった。在来線を乗り継いで一時間半、終始彼女はそんなぼんやりとした状態で。気付けば車窓には眩しい海が映る。ただ繋がれた手だけが暖かくて、彼女を独り占めできる時間がそこにある全てだった。
「こっち?」
「うん、そこの角曲がるとすぐ海」
「来たことあるんだ」
「大昔に、一回だけね」
海岸へ足を踏み入れたのは、丁度夕陽の沈む刻であった。大きな大きなオレンジが、泣ける程に眩しい光を放ちながら地平線の彼方へと沈みゆく。
「っ!なまえ、すげえな、全部オレン、ジ…」
興奮して振り返り、目に映る彼女の強張った横顔に、脳裏を過ぎる記憶。あの日から、なまえは時々おかしくなった。
―――恵はどこにも行かないで
俺を腕の中に閉じ込めながら、口癖のようにしてそんな事を言う。俺の顔をまじまじと見て悲しそうに眉間に皺を寄せることもあった。大好きもずっと一緒にいようねも、そう告げる事がまるで義務であるかのように、自分に言い聞かせる呪いの言葉のように、形の良い小さな唇から繰り返し紡がれた台詞だ。
「……なまえ?」
「っ、ごめんね、恵」
「どうしたんだよ」
「ごめん、」
紅く染まる水面が此方へ押し寄せては引いていく。規則的な動きと音だけが続く海岸線に、他に人影はなかった。立ち尽くす俺達は何故此処にいるのだろうと、寄せた波が靴を濡らして初めて考えた。
「俺、どこにも行かないよ」
問われる前に、彼女の欲しているであろう言葉を述べた。なまえははっとしたように俺を見て、口元を緩める。
「一緒に来てくれる?」
それは初めての問いだった。かつて見下ろされていた視線は傾斜を持たずに俺に届く。あんなにあった筈の身長差はいつの間にかなくなっていた。なんだか恐ろしい事が起こってしまう予感がして、ゆっくりと首を横に振る。
「一緒にここにいよう」
手を引いて水際から遠ざかった。足は砂まみれになっていたけど気に留める事もなく、立っている事に疲れて砂浜に座り込む。ぼんやりと地平線を眺めるなまえは普通じゃなかった。何と声をかければ良いのか分からずに、だけれど狼狽える姿を見せるのも間違っている気がして、ただ黙って寄り添って座った。太陽が沈み夜の帳が下りる中、もうじき十一になろうという俺にはそれしかしてやれる事などなかったから。
どれ程そうしていたのか分からない位に時間が経った頃、暗闇から音も無く人影が現れた。
「なまえ、恵」
黒ずくめの大男。機嫌が悪い時特有の低い声。丸いサングラスの向こうに、俺達のよく知っている軽薄な笑みは無い。
「…五条さん、」
「帰るよ」
「五条さん、なまえが、」
「津美紀も心配してる」
有無を言わさぬその口調に俺は何も問う事が出来なかったし、その
手を繋いで、マンションまで
子供の頃から通い慣れたマンションならぬ億ションは、五条さんとなまえの二人暮らしでは持て余す位に広い部屋であった。知り合って数年経った頃、家事と学業の両立に苦しみ始めた津美紀を見てなまえは一緒に住もうと言ってくれた。だけど俺達がそれを頑なに断ったのは、くだらないプライドの所為だけじゃなくて、彼女の後ろから「とんでもない」と言いたげに冷たい目を光らせていた男の所為でもある。
「お待たせ」
ガチャリと扉の開く音と同時に届いた声。振り返れば、リビングへ戻ってきたその
「少し歩こう。いいね?」
「はい」
今度は
「最近、何か思い当たる事あった?」
「特には。五条さんは?」
問い返しながら右を見上げたら、暗闇に浮かぶ六眼が、じっと射抜くようにこちらを見据えていた。俺の心を見透かそうとしているのが解って少し気分が悪くなる。
「いや、……世話かけたね」
「…別に、俺は何も」
「津美紀に心配させて、お前に迷惑かけた。僕の責任だ」
まるで自分と彼女は二人で一つとでも言うような喋り方をするのだなと思った。質問する間も与えずにベラベラと喋り続けるのは、昔から変わらないこの男の得意技で、自分勝手で、俺はずっと苦手だった。
その後はもう、会話はなかった。大通りで万札を数枚握らされタクシーを捕まえて、開いた後部座席の扉の奥に片足を突っ込んだ瞬間。恵、といつになく低い声で名前を呼ばれ振り返る。
「人と人が近付くには何が必要だと思う?」
「は、?」
「どんな関係であろうと所詮は他人だ」
不遜な態度でポケットに両手を入れたその
「他人を信じ、守り、決して裏切らない関係を築くには、どうすればいいか」
「さっきから何を、」
「罪の共有だよ」
その言葉に、息を呑んだ。この
「なに、言ってるんですか」
見透かされている、何もかも。漆黒の壁の向こうで、長い睫毛が瞬いた気がした。
「嘘が下手だね、お前は」
ただただ憧れ慕っていた彼女を、護ってやらなければと半ば義務感に駆られるようにして思う様になったのは、多分あの日からだけど。ただひとつだけ。彼女が俺に向けるあの瞳の奥に潜むものの正体を。俺はずっと、解らないままでいる。