二〇一三年 十二月 二十二日。

ダイニングテーブルの真ん中に仰々しく置かれているのは、悟御用達のケーキ屋の冬季限定ホールケーキ。控えめに塗られた生クリームの上で、艶やかなマスカットが輝いている。

「そこじゃなくてね、もう少しこっち」
「ここ?」
「違う〜 もう、五条さん手が大きすぎる!」
「それは僕の所為じゃないよね」

何日も前から予約していたそれを、張り切って引き取りに行った悟と津美紀が大切そうに箱を抱えて帰って来たのが十分前。テーブルの向こうでロウソクの配置について揉める二人を眺めては、穏やかな日常を微笑ましく思う。

「私が挿すから、五条さんどいてて?」
「えっ、僕もやりたいから貸してよ」
「ぐちゃぐちゃになっちゃうからダメ!」
「え〜」

十一歳になった恵はぐんと背が伸びて、いつの間にか大人びた表情をするようになった。つまらなそうにテレビを眺める横顔を盗み見て、記憶の奥底にしまい込んだ扉を静かに開く。









あれは冷たい雪の降る日のことだった。

二〇一二年の冬は例年と異なり全国的な寒冬で、異常低温と呼ばれる程に酷く寒い日が続いていた。各地で頻発する豪雪災害、雪による人的・物的被害、それに付随する呪霊の発生。何度も雪の降り積もる山へ足を運んだ。光の差さない空、吹雪の中に一人で立つということは、想像以上に精神を抉るものだった。死体を見下ろしたのだって、一度や二度ではない。

あの日悟はスキー場で有名な豪雪地帯へ駆り出されて不在で、翌日休みだったわたしは埼玉で泊まる約束をしていた。任務はつつがなく終了し夕方には山を出たけれど、車よりも早いからと補助監督の申し出を断って飛び乗った列車が雪で止まって動かなくて。

「まじか……」

充電の切れた携帯を握り締め、お詫びに何かお土産を買わなくちゃ、と到着を待ち侘びているであろう子供達を想う。結局数時間の足止めを食らった後、片手にケーキの箱をぶら下げて、漸くの思いで埼玉へ辿り着いたのは夜遅く。駅を出たら、ちらちらと白いものが舞っていた。

「……関東も雪予報だったっけ」

早足で辿り着いたアパートの下。見上げると、部屋の電気が消えていた。幼い時分なら寝てしまっていた時刻だが、夜更かしを覚えた二人にしては珍しい事もあるなと首を傾げつつ錆びついた階段を上っていく。淡雪が降る夜。ギィギィと軋む音が静かな町に響いて煩い。

半分程過ぎたところでドン、と何かが倒れる音がした。思わず足を止めて辺りを見回すが平常通りの夜が広がるだけ。アパートの中からの音だった。怪訝に思い階段を上りきると、玄関の扉が半開きになっていた。隙間から漏れ聞こえてくるのは、人の動く気配と衣擦れの音、そして僅かな音量の昂った吐息。

「……津美紀?恵?」

傘を閉じて雪を払う。恐る恐る開いた扉のその先は真っ暗闇だった。靴を脱いで一歩踏み出したらば、何かの液体に足を取られ転びそうになる。鼻をつく臭いに、眩暈がした。血溜まり。目を凝らすと、小さな塊が落ちていた。蹲る恵だった。

「………は?」

そのまま部屋の奥に視線をやれば、何かに覆い被さるように四つん這いになった見知らぬ男と目が合った。夜目が効き始めた視界。男の腕の隙間から見えたのは、口を押さえられて涙を流す、津美紀―――

「殺してやる」

驚くほど冷たいその声が自分から発せられたのだという事に気付くまで数秒を要した。気付いた時には男を床に転がしていた。非術師だった。

「お、おい?!待て、そんなつもりじゃなかったんだ、!」

恐怖に意識を飛ばした津美紀を背後に押しやり、今度は自分が男に馬乗りになる。

「そんなつもりじゃなかった……?」
「このが誘ったんだ!短いスカート履いて、俺を見て笑って、だから……!」
「お前みたいな汚ない親父、こっちから誘う訳ねえだろ」

怒りで呪力が増幅していく。風が沸き起こり髪が逆立つのを見て、男が恐怖に顔を引き攣らせた。

「な、何なんだよお前?!」
「お前みたいなクズ、生きてる資格ないよ」
「おい!待ってくれ、!」

印を組む為に男の喉元から手を離した。すうと息を吸ったその瞬間、猛スピードで何かが視界を過ぎり、男の頭から血が爆ぜる。

「………は?」
「っはあ、はぁ、」

静かになった部屋に響く荒い息遣い。小さな掌が重たげに引き摺るステンレス製の傘立てが見えた。いつぞや、四人で買い物に出掛けた時に津美紀が気に入って選んだ物だった。

「っなまえ、俺、っは、間違ったことしたと、っ思ってねえ」

血塗れの手から滑り落ちた傘立てが鈍い音を立てて床に転がる。

「めぐ、み、?」
「…っ、クソ野郎が」

殴られ腫れた瞼の下、切長の瞳がわたしを捉えた。瞳孔が見開かれ戦慄くのを、まるで映画でも見ているかのような気持ちで、

「なまえ、」
「恵、こっちおいで」

ありったけに両腕を伸ばし、震える身体を腕の中に閉じ込めた。どれだけ大人びていても、縋り付いた先にあるのはまだ子供の腕。

「っ……今日も、鍵を開けて待ってたんだ」

さっきまでの興奮が嘘の様に頭の中は酷く冷静で、やるべき事がぐるぐると脳内を駆け巡っていく。

「危ないから駄目だって、なまえ何度も言ってたのに、っ、ドアが開く音がして、津美紀が玄関に、出て、この男が中入ってきた。っ何度も殴られて蹴られて、気付いたら、真っ暗な部屋になまえの背中が見えた」

恵の口からぽろぽろと溢れ出す事の顛末をどこか遠くに聞きながら、細い腕を握り締めた。

「っこんな事になるくらいなら、最初から術式使うべきだった」
「恵」
「初めから殺すべきだった」
「もういいよ」
「津美紀もなまえも守りたかった」
「もういいから……」

震える言葉を遮り、畳の上に転がる男の首筋に触れれば、微かに脈があった。

「ごめん、俺、人をころ、
「生きてるよ、コイツ」
「…………え、いき、」

暗闇でも判る、生き様を写したような汚い顔をした中年の男だった。あの日あの人が殺した百十二人も、こんな顔をしていたんだろうか。

「どうする…?殺す…?」
「……ううん、殺さないよ」
「でもコイツ、もしかしたらまた、」

震える言葉を制するようにゆっくりと首を横に振り、出来る限り優しい声を紡ぐ。

「大丈夫、どうにかなる。だからこれはわたしと恵だけの秘密」
「でも、」
「誰にも言っちゃ駄目だよ」

耳元で囁いて、恵の頬を伝う涙を掬い上げる。乾いて固まりかけた血が溶ける感触が、どうしようもなく胸を刺した。

「……、わかった」
「うん」
「……なまえが居てくれてよかった」

耐えられなかった。今にも張り裂けてしまいそうな声で、確かめるようにして自分の名前が紡がれる事が。何一つ根拠の無い大丈夫を繰り返し、そうしてまだ幼い彼を引き摺り込んだ先は、果てのない、地獄でしかないのに。


数時間後、冥さんの紹介で現れた術師が、丑三つ時のボロアパートに横たわる二つの身体に手を翳した。男が保有するのは、記憶を改竄する事が可能な術式。現場を見て顔を顰めたのはほんの一瞬で、直ぐに仕事に取り掛かった。良くも悪くも、こういった依頼には慣れているらしい。

「アンタ、よく殺さずにいられたな」

低い嗄れ声が問うた。わたしはただそこに立ち尽くし、男と津美紀の頭からしゅるしゅると糸のように巻き取られていく記憶を、どこか遠くの世界の出来事の様に眺めていた。

「……意味が、ないですから」

零した言葉に、隣で恵がきつく手を握る。酷く暗い空に淡雪が舞う、月の出ない夜の事だった。











「なまえ?」
「え?」

怪訝そうな顔をして覗き込んでくる恵と目が合った。回顧していた記憶にあった幼さが消えて、少し精悍になった顔付きをまじまじと見つめる。

「…怖い顔してる」
「あ、」
「俺の顔、何かついてる?」
「ううん、ごめんね。違うの。大人になったなあと思って」

にっこり笑って見せれば、安心したように恵も口元を緩める。次の瞬間、部屋の電気が落ちて、悟と津美紀が上機嫌に歌い始め、ケーキに灯された十一の炎が静かに揺らめいた。

「恵お願い事した?」
「ほら、何願ったのか言ってみろよ」
「…秘密」
「早く吹き消さないと垂れちゃう!」
「あー!」

急かされながらロウソクを吹き消した恵が笑う。決して恵まれた幼少期ではなかったかもしれないけれど、でもこれからは。大好きな人達に囲まれて大人になる彼が、幸せに想える瞬間がずっと続けばいい。

「おめでとう、恵」

穏やかに進む時間の中で、わたしだけが立ち尽くしたまま、何時迄も後ろを振り返っている。



わたしあなたのために
今も祈っている





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