渡された合鍵で、すっかり見慣れた扉を開く。この家を訪ねる回数を数えるのをやめたのは、もう随分と前の事だった。
「恵おかえりー」
開け放たれたままのリビングに繋がる扉の向こうから、耳障りの良い優しい声が自分の名を呼び、鼻孔は何かを焼いている香ばしい匂いに包まれる。紛う方なき、幸せの香り。
「手洗ってうがいしておいで。今日は和風ハンバーグだよ」
「えーそれ
突如として響いたのは、語尾にハートマークが見える様な甘ったるい声。リネンのエプロンを纏った背中が硬直する。ぎぎぎと効果音がつきそうな動き方で振り向いた彼女の口から悲鳴が漏れた。
「なんでいるの?!」
「来ちゃった♡」
遡ること数分前。オートロックのエントランスをくぐりエレベーターに乗り込んだ。行先階のボタンを押して扉が閉まりかけた時、ガツンと大きな音がした。嫌な予感がして恐る恐る扉の向こうに目をやれば、視界いっぱいに真っ黒なシルエット。ドアの隙間に大きな靴が差し込まれているのが見えた。ツケられていたのだと気付いた瞬間の俺の気持ちをどうか察して欲しい。
「なまえ、ごめん、本当にごめん」
「なんで謝るの?恵。僕達の仲でしょ」
「ストーカーかよ」
普段は優しく穏やかななまえにも、真希さんや釘崎の例に漏れず呪術師らしい気の強い一面がある。それから、時々どうしようもなく頑固なところも。その所為で、この男とのごたごたにこうして俺が巻き込まれているのだけれど。
「ダメ元で言うね?帰ってくれない?」
「嫌だね。この期に及んで僕に隠し事なんて無理だし、ダメ元とか言って力尽くでも追い出そうとしない時点でお前は甘いんだよ」
「……ほんとありえない」
フライ返しを手に、彼女が天井を仰いだ。先生はというと、初めて入る部屋が珍しいのか忙しなくきょろきょろと辺りを見回しては物色している。
「大体何この部屋、どんだけ強い結界張ってんの。何から逃げてるわけ」
「五条悟」
「……流石の僕も傷付くよ?」
少しだけ弱々しい先生の言葉を無視して、なまえはフライパンの蓋を取る。立ち昇る湯気の向こうの彼女の横顔は、ぼやけてしまって見えなかった。
▽
カチャカチャと先日一緒に買ったカトラリーの音だけが部屋に響く。ポルトガル製だというそれを、ずっと欲しかったのと嬉しそうに
「んー、おいしーい!恵いっつもご飯作ってもらってたの?」
「まぁ」
「殺意沸くね」
「ちょっと、物騒な事言うのやめて」
恵がおかわりしなかったら冷凍するつもりだった、という二つのハンバーグが律儀に盛り付けられていたのはほんの一瞬で、見るも無惨に隣の男の胃に吸い込まれていく。
(……飲み込んでんのか)
引くほど見事な食べっぷりだった。沈黙に耐え切れずにテレビのリモコンに手を伸ばせば、横から大きな手が伸びてきてがしりと押さえ込まれる。
「こら恵。大事な話がしづらくなるからテレビは めっ」
「……見せてあげなよテレビくらい」
「これから大事な話をするんですぅ」
あからさまに嫌そうな溜息をつくなまえに向かって、口元についたソースをぺろりと舐めた先生が「それで…」と口を開く。
「術師復帰してくれたのは有難いんだけど、ウチにはいつ帰ってきてくれるのかな」
「ここが今のわたしのおウチなんですけど」
「その冗談面白くないよ。こんな狭い所にいて何が楽しいの」
「そうだね、面白くないよね。だってふざけてないし」
「いい加減子供みたいに駄々こねるのやめたら?」
「何その台詞。特大ブーメランじゃん」
睨み合う二人の姿を見ていたら、口の中のハンバーグの味が段々消えていくような気がした。添えられていたブロッコリーに、全ての鬱憤を詰め込んだフォークを突き刺す。何でこの修羅場に俺がいるんだよ。今すぐにでも逃げ出したい。
―――なんかいつも笑ってて幸せオーラ全開って感じの人
昼間の虎杖の言葉が脳裏を過ぎる。
人間的に欠落した部分の多いこの男の、足りないすべてを埋め合わせていたのがなまえだった。あんなに仲の良かった二人の、幸せそうに笑っていたなまえの、記憶をこんな事で塗り替えたくはないのに。
「寝れてないんだろ。クマ酷すぎ」
「余計なお世話」
「僕がいないと安眠できないくせによく言うよ」
まるで阿吽の呼吸かのように、全員が同時にカトラリーを皿に置いた。ぎろりと睨み合う二人に、これみよがしに溜息を吐いてみるけどあまり意味はなく。
「なんで出てったんだよ」
「……わたし達がこれ以上一緒にいたとして、何になるの」
この家に引っ越して来て、それから。時折訪れる、彼女の心が決壊しどうしようもなくなる夜。少しだけ濡れた下睫毛を親指の腹でそっと拭って見るけれど、なまえは俺の前では決して泣こうとはしなかった。
「どうして」
「どうしてって、」
「僕にはなまえしかいないのに?」
小さな頃から幾度となく見てきたそのやり方は、自分の手では通用しないと思い知らされるばかりだった。俺に赦されるのは、子供の頃と同じように隣に座り、ただじっとその哀しみが引くのを待つことだけ。
「……駄目なの、わたしじゃ」
「なんで」
「きっと悟を不幸にするから」
「は?なんだよそれ」
「悟には、幸せでいて欲しい」
「勝手に決めんな」
地を這うような低い声が小さな部屋に響いた。当たり前だった筈の毎日から大切なものが欠けていく。そんな単純な事が何よりも恐ろしいという事を、今の俺は知っている。そして俺なんかよりもずっと、二人の方が、
「俺の幸せや不幸せを、お前が一人で勝手に決めんな」
―――悟の手は魔法の手
いつかの午後、柔らかく笑ったなまえが津美紀と俺に言った。あったかくて大きくて指先は少しだけ冷たくて、悲しいことぜーんぶ、吹き飛ばしちゃうんだよ。それから、その白く柔い手で俺達の頬を撫ぜた。くすぐったくて、あたたかくて、どうしようもなく愛おしかった。
今も同じ、眩しくて手の届かない、なまえはずっとそんな光だ。