人の一生というものは、この世に生を受ける前からある程度定められていると思う。
そう、俺の人生はクソゲー。詰みに詰んでお先真っ暗。六眼?無下限?そんなものあったってやる事も成るべきモノも決まってて、見え透いた未来は変わらない。楽しい事なんて一つも待っていやしねえ。跪く大人達の頭頂部を見下ろしながら、ずっとそう思っていた。
二〇〇五年 四月。
東京都立呪術高等専門学校。呪いを学び呪いを祓う。呪術師を目指す人間の集まる地。本来ならば高専など通わずとも良いところ、十五の春俺は東京校の門をくぐった。
「リクガン?」
「ムカゲン?」
「どーでもいいけど一服したいから喫煙所行かない?」
同級生はたったの三人。男と女と女。一般家庭出身の傑となまえは俺の事を知らず、硝子は御三家に塵ほども興味など無かった。故に特別扱いをされる事もなく、人生で初めての友人が出来た。俺を人として扱った初めての存在だった。クソゲーだったはずの人生が一変した。
▽
俗世に放り出されたばかりの俺は猛烈にチョロかった。少なくとも、柔らかく自分に笑いかける同級生の女に簡単に恋に落ちてしまうくらいには。
こちらを見上げ双眸を細めて微笑みかけられる度に、くだらない事で馬鹿みたいに大口を開けて笑い合う度に、自分が彼女に一番近い存在だと自惚れていた。好い気になって思い上がるには十分過ぎる時間だった。傑が同じ女を好きになるなんて、想像する事も出来ないほど。
「また今日も悟の独壇場になるのかな」
その日はなまえと二人の任務で、補助監督が法定速度きっちりに転がす車の中、左隣から大きな溜息が聞こえてきた。
「そりゃ、俺最強だからな」
「ふうん。わたし退学した方がいい?」
揶揄うように下から顔を覗き込まれ、思わず舌打ちが漏れる。
「あ〜、まだ根に持ってんのかよ」
入学直後、腕試しにと同級生四人全員まとめて連れて行かれた討伐任務。その樹海は自殺の名処だったらしい。雑魚数百体が蠢く森へ放り込まれ、五分後には全てが終わった。俺と傑がほとんど二人で片付けて、なまえがやったのはほんの二、三体。実戦では反転術式持ちの硝子が前線に駆り出されることはないし、誰も彼女にそれを求めてはいない。だから俺は森の入り口で煙草を燻らせていただけの硝子じゃなくて、なまえに向かって言い放った。役立たずのパンピー、目障り、早く辞めれば。
「もう言わねえって」
「あっ痛い!暴力反対!」
軽く頭をはたいたら、大袈裟に喚きながらぶすくれて睨み上げてくる。これっぽっちも怖くない。
「でもお前は術式に頼りすぎ。近接が弱っちーから、体術鍛えなきゃその内死ぬぞ」
「だって……」
「苦手だからってサボんなよ」
「そうだけど……」
「いつも俺が守ってやれる訳じゃねーんだから」
バックミラー越しに補助監督がこちらを見たのが分かった。最近よく担当になるその補助監督は高専を出たばかりの比較的年の近い女性で、名前を園部といった。明るく人当たりの良い彼女になまえは最初からよく懐いていたけれど、俺に対してはどこか一線を引いているような節があった。
「おい、聞いてんのかよ」
肝心のなまえを横目で睨めば、大きな目をぱちくりと瞬いていて。それがまるで幼い子供のようで頬が緩みかけた瞬間、聞き捨てならない言葉が耳に届く。
「……悟に説教されてる」
「あ゛?」
「最強なのに傲らないよね」
「喧嘩売ってる?」
「真面目だねって言ってるの」
「うざ」
爪先へと吐き捨てた二文字。もう一言何か言ってやろうかと左隣を睨めば、いつの間にか窓の外遠くをぼんやりと眺めていた。
「……またその顔」
「え?」
「何でもねえ」
なまえはいつも、小さな口をこれでもかと開けて笑う。幸せそうに、花が綻ぶように。それがとても好きだった。あまりに楽しそうに笑うから、いつも俺もつられて笑った。だからこうして時折彼女が見せる空虚な瞳を見る度に、どうしてか堪らない気持ちになって、俺はそれがずっと苦手だった。
「これ終わったらDVD借りに行くよね」
「おー、何見る?」
「んん、ロードオブザリング」
「お前それ一辺倒じゃん。見過ぎて台詞覚えたんだけど」
約束をしていた。任務が終わったら、映画を見よう。ひとり三本ずつ選んで、朝までかけて。全部見れる訳もないことは重々承知していて、ただ、朝まで一緒に過ごす口実が欲しかっただけで、
「だって何回見ても感動するじゃん、あんなスペクタクルな三部作!」
「いや、ストーリー分かってんのに何で毎回泣けんのか全然分かんねえ」
「もーこれだから情緒のかけらも無い人は」
「あ?うっせ泣き虫」
「悟と違って感受性が豊かなんです〜」
己を呼ぶ柔らかな声だけで胸が熱くなるなんて、どっかの三流メロドラマじゃあるまいし。馬鹿げている。俺の一生は定められているのに。まさか忘れた訳じゃないだろうと自分に問いかける。初めて出来た友人を失ってまで、彼女を自分の地獄に引き摺り込むのは正しいのかと問う。俗世に放り出されたばかりの俺に、答えなんて出せるわけもなかった。
▽
意識の無いなまえを抱えて帰校した俺を、先に任務を終え戻っていた傑と硝子が出迎えた。
「っなまえ?!」
引き攣った悲鳴が硝子から漏れる。息があること、眠っているだけであることを数秒の内に確認した後、これでもかと眉を吊り上げて睨み付けられた。
「……どういうこと?」
「予定になかったバケモンが出た」
「は?!これその呪霊の所為?」
「いや、気絶させたのは俺」
「はあ?!」
「出血凄くて、痛そうだったから」
「経緯はよくわからないけど、とにかく医務室に運ぼう」
手当が先決だよ、と隣に佇む傑が言った。そうだろうとばかりにこちらを見やる。いつも通りの声色で、大人ぶって優等生面して、何ひとつ気付いてないような顔をして。傑が俺の腕の中からなまえを掬い取って歩き出す。ただ医務室へ向かう為だけのその行為が、まるで自分の人生を体現しているかのような気分になって、真っ直ぐ伸びる背中に向かって舌打ちをした。
あれは俺が出るまでもない、何て事ない低級呪霊の討伐の筈だった。
その廃病院は建て壊しが決まっていて、更地にする前に
「おいなまえ、早く俺に、」
触れるよう伝えなければと口を開き、言い終わらぬ内に瞬時に傍をすり抜ける気配。俺には敵わない事を悟った呪霊が勝つ為に選んだ手段を察した瞬間、心が凍るような感覚にゾッとした。走馬灯のように担任である夜蛾の言葉が脳裏を過ぎる。時として、呪霊には
「悟」
震える声が俺の名を紡いだ。彼女の瞳は真っ直ぐに俺を捉えていた。射抜くように強い眼差しで。
「 」
にげて―――小さな唇が形取った三文字は音になることはなく、その大きな瞳には自分だけが映っている。その瞬間、例えようのない悦びと、同時に大切なものを失うことへの恐怖を、俺は生まれて初めて知った。
「術式順転 蒼」
次の瞬間にはグシャグシャに潰れ霧散した呪霊の残骸を六眼が捉えた。出力の制御が効かなかった。間に合ったと思うと同時に、周りの地面までが抉れていることに気付く。建て壊しはまだ先だから建物に傷を付けるなと言われていた事はこの際どうでもいい。あと少し呪力操作のミスがあれば、彼女もろとも吹き飛んでいたかもしれない。
「なまえ」
「っ悟、よかった、無事で」
なまえの顔色は蒼白で、頬と腕には呪霊の爪で引っかかれえぐれた痕。腕からの出血が多かった。白い肌に滲む血の赤を見て、自分の口元が歪んでいくのがわかる。
「人の心配してる場合かよ」
「うん、ごめん、ありがとう」
声はまだ震えたままだった。呆然と座り込んだ状態で、自分を抱き締めるようにして縮こまる小さな身体を見下ろす。
「お前、やっぱり辞めた方がいいよ」
我ながら抑揚がなく冷たい声だった。ゆっくりと首をもたげた彼女は、術師向いてねえよと溢す俺の言葉にぼんやりと笑って見せた。
「辞めないよ」
「なんでだよ。ほんとに死ぬぞ」
「わたし一人が死んでも、他の誰かを助けられるなら、辞めないよ」
「………は?」
イカれてんだろと呟いたら、術師は人助けの仕事でしょと返ってきた。違う。お前がやろうとしてるのは人助けじゃない、ただの自殺未遂だ。俺は知らない奴らが何人死んだってお前に生きていて欲しいのに、
「悟みたいに強くなれたらよかった」
痛みに耐えながら細い息を吐くなまえが呟いた。パラパラと瓦礫の崩れる音がする。蒼を放った際にダメージを受けたのは地面だけじゃなかったらしい。早くここから出なければと考えながら、もう何を言えばいいかわからないままに震える彼女の手を取った。
「ほんと、馬鹿だよ、お前」
虚な瞳を遠去けるようにして、白い額に指を伸ばす。トン。くたりと力の抜けた身体を、壊れ物のように腕の中に閉じ込めた。
▽
そこからは転がり落ちるように日々が過ぎた。なまえとの関係は表面上何ら変わることなく続いていた。一歩の前進もないまま、同級生という括りから出ることもない。傑と彼女の距離が日に日に近付いていることには気付いていたけど、俺は何もアクションを取らないままでいた。
「五条、アンタはそれでいいの」
頭がおかしくなりそうな暑い夏の終わりだった。少し先を歩いていた硝子が振り返り、気怠そうに問う。
「いい訳ねえだろ。どうこうするつもりもねえけど」
あんな問いを投げておきながら俺の返答が予想外だったのか、大きな垂れ目を驚きに見開いてそれから、肩を揺すって笑う。吐き出された煙、白い靄の向こうには呆れたような顔があった。
「なんだよその顔。言いたいことあるなら言えば」
「いや、私も意外だったよ」
「……なにが」
なまえはいつも人のことばかり、人の為に生きている、そんな女だった。俺の名を紡ぐ慈愛に満ちた声は呪いを唱えるのに相応しくない。呪術師など向いていない、愚かで懇篤な女。
「なまえが、五条を選ばなかったことが」
六眼と無下限、そしてそれに纏わる全てを手放した時、俺は何者でもなかった。そんな事にも気付かずに自分の弱さを棚に上げ、迫り来る全てから護ってやれると本気でそう思っていた。求められた事も、傍にいて欲しいと願われた事も、一度だってなかったのに。彼女が俺を呼ぶ声が、この腐った世界に立ち続ける意味をくれた。隣に立つのは自分だと根拠もなくひたすらに信じていた。どうしようもない、稚拙な愚か者は俺の方だった。