平坦な人生だった。

父も母も会社勤めのサラリーマン。お金にも食べ物にも着る物にも困った事はない。学校が終わって夜遅くまで一人でも、母の手料理の味など知らなくても、父に遊んでもらった記憶は無くても、多分、世界の中では十分に幸せな方。悔やむこともなければ、誇ることもない。傷付けたり傷付けられたりするほど誰かと深く関わったこともない。そんな人生。

ただ、人ならざるモノが見えている・・・・・。父にも母にも話せない、わたしだけの世界。それが周囲と自分とを決定的にたがい隔てるものであり、決して口に出してはいけないのだということだけは子供心によく理解をしていた。話してはいけないことを話さない。それだけ守って群衆に同化していれば、正しく・・・在ることはそんなに難しいことではなかった。

あとは何もかもどうでもよかった。流されていれば楽だったけど、このまま歳を取って死んでいくのかと思うと溜息が出る。君の未来は無限大だと手を叩く大人達にうんざりする。だから全身黒い服の胡散臭いおじさんが訪ねて来た時、迷わずその手を取ったのは半ば本能だったのかもしれない。

「あの時の先生、天使かと思った」

談話室のソファに沈み、隣でアイスをかじっていた悟が嘘だろと叫んで目をひん剥いた。

「どう見たってその筋の人間じゃねえか」
「本当だよ。わたしを地獄から救い出してくれる天使」

高専に入って出逢った彼は、驚くほどに世界のことを知らなかった。電車の乗り方、ATMの使い方、コンビニでの買い物の仕方、他人との距離の測り方―――

「あんなイカつい天使がいるかよ」
「天使は知ってるの?」
「あ?馬鹿にし過ぎだろ」
「ふふ、だって」
「おい、こないだまでパンピーだったくせに調子乗んなよ」

頭をぐりぐりと押されて、痛いと笑う。じゃれあう拍子に悟のサングラスが落ちた。普段は隠れている蒼が瞬くこの瞬間が、どうしようもなくすきだった。バサバサの睫毛の向こう、光る海の底に沈んでしまえたらどうなるのだろうと考えたのは一度や二度ではない。

「ばーか、なまえ」

粗暴な彼の性格に似合わない優しい声だった。こんな声で呼ばれたことなんて、あったっけ。とてもむずがゆい気持ちになって、何度もまばたきをした。なんだか、とても眩しかった。

「ほんと、馬鹿だよ、お前」

あれ、これいつ言われた言葉だっけ。考えている間に声が遠くなる。その間にも光が差して、あまりの眩さに眉を顰める。

重力に逆らって重たい瞼を押し上げた。

見慣れない天井。色のない部屋。真っ白な世界に、よく知った二つの顔が飛び込んでくる。

「なまえ?」

鼻をつく消毒液の匂い。ベッドの両脇から横たわるわたしを覗き込む傑と硝子を見て困惑し、気付く。談話室なんてどこにもなかった。

「……わたし、なんで、」
「起き上がるならゆっくりね。意識を失って高専に運ばれたんだ」

真っ白な部屋が眩しくて目を瞬かせる事数秒、焦点の合った世界にわたしの名を呼んだあの人はいなかった。刹那、脳裏を過ぎる呪霊の姿に背筋が凍る。

「良かったよ、大きな怪我がなくて」

いつものように車に乗った。さくっと終わらせて、夜は映画を見るはずだった。その約束が果たされないかもしれないことを悟ったのは、祓除を済ませ帳の外へ出ようとした時。積もり積もった恨みが寄せ集められて成った呪霊。脳裏を過った絶望。もうダメだと思ったあの瞬間、悟がわたしの名前を叫んだ。死ぬのが怖いと思ったことはない。だけど、わたしはどうしようもなく弱いということ。みっともなく助けを請うことしか出来ないこと。眼前にその事実を突きつけられた時、例えようのない恐ろしさに苛まれた。

「悟は?」
「大丈夫、かすり傷一つなかった」

愚問であった。気を失う前、最後に見えた碧眼は哀しみの色に揺れていた。頬の傷も腕の出血もいくらだって我慢出来た。あんなのちっとも痛くなんかない。ほんとに痛かったのは、そんなんじゃなくて、

「アイツさっきまで張り付いてたくせに、どこ行ったんだ」
「呼んで来ようか?」
「……ううん、大丈夫」

隣に立つ資格があると信じていた厚かましく浅はかな自分が恥ずかしくて、どうしようもなかった。

「ごめん、弱くて、恥ずかしい」

硝子はその垂れた瞳を不思議そうに瞬かせ、傑は眉間に皺を寄せた。

「馬鹿だな、君は」

大きな掌が、ガーゼの貼られた頬を撫でた。任務の帰り道で、寮の談話室で、誰もいない夜の食堂で、時折遠慮がちに掠めていったぬくもりとは違う温度だった。

「なまえは弱くなんかないよ」

電車の乗り方、ATMの使い方、コンビニでの買い物の仕方、他人との距離の測り方。隣で教えてあげるその役目は自分にあると、何の衒いもなくそう思っていた。今になって思えば、まあ、正気の沙汰ではない。簡単に死ぬ弱い奴、それが悟の一番大嫌いなものだから。

長い溜息を吐いた硝子の背後、大きな窓の向こう。雲一つない抜けるような青空を、今でも時々思い出す。目を開けているのがつらいくらいに眩しかった。四人で過ごす一度目の夏の終わりの事だった。









「何考えてるの」

聴こえてきた柔らかな声に意識を戻すと、隣に座った傑がわたしの顔を覗き込んでいた。寮の談話室で、何をするでもなくソファに沈み込む自堕落な日曜日。落ちかけていた微睡みから抜け出す事が酷く気怠い、そんな秋の始まりの午後のこと。

「んー、一年の時の事思い出してた」
「ふうん?」
「痩せたよね、傑。ちゃんと食べてる?」

何も言わずに曖昧に微笑んで、傑は左の口角を上げた。それは彼が嘘をついたり隠し事をする時の癖だった。何か思う所があったのだろう、わたしには言えないような事が。最近の彼はぼんやりと遠くを見るような目をする事が多く、段々とこうして他愛もない会話を繰り広げる頻度も減って来ていた。

「なまえは優しいね」
「またはぐらかした」
「そう?」
「話したくないなら、いいけど、心配」

わたしには言えない理由があるの、と喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。傑は「心配」という言葉だけを都合よく拾い上げたようでまた曖昧に笑って誤魔化した。ここ最近ずっとこのパターンで会話にならない。

「あんな事があった後だからね、少し疲れているのかも」
「…傑、」
「でも大丈夫だよ。君が心配するような事は何もない」

また、シャットアウト。突き放されているような気がする。肩が触れるほどの距離にいても、ずっと遠くにいるような気になる。二〇〇六年夏。最強二人が挑んだ星漿体護衛任務は失敗に終わり、天内理子は死んだ。悟は死にかけて覚醒し、傑は思い詰めたような顔をするようになった。

四人で過ごす時間は少しずつ、だけど確かに失くなっていた。皆で食べようと言って買った業務用サイズのアイスクリームは冷凍庫の奥に眠ったまま、二度目の夏は終わった。

「そんな事より、遂に来週だね、出発」
「…行くのやめようかな」
「え、どうして?」
「皆に会えなくなるから」

わたしに与えられたのは、一年間の海外長期出張。いつの間にか変わっていく同級生達と離れ、わたしは来週日本を発つ。恐らく任務終了まで日本には戻れないと告げた時、傑は行くなとは言わなかった。寂しいとも、悲しいとも、会いに行くよとも言わず、頑張ってねとまるで他人事のように笑った。

「そんな理由で折角の機会を棒に振ったらいけないよ」
「人手不足で回らないから応援で寄越せって話でしょ」
「それでも、誰でもが行けるわけじゃない。君は選ばれたんだから」

傑は時々、何かを決めつけるように言葉を紡ぐ。まるで、正しいものがはっきりと見えているみたいにして。事実、傑はいつも正しかった。いつでもわたしの善悪の基準だった。だからわたしは自信のない時や間違えそうになる時はいつも彼のもとで、与えられる言葉の先に意味を探した。

「でも、」
「でも?」
「いっぱいあるよ、やり残した事も行きたかった所も」
「例えば?」
「海。海に、行きたかった」

傑が正しいと言うのなら、わたしは彼の言うままに、外国へも行くのだろう。寂しさも悲しさも何もかもを押し込めて、一人で行くのだろう。ボタンを掛け違えてもそれに気付かないまま、その道が絶対に正しいと信じて歩き続ける。それが本当に正しい道だったのかどうかは、歩いたその先で初めて知るとしても。

「どうして過去形なのさ」
「…わかんない」
「またいつでも行けるよ」

左の口角が上がった。問いかけようとした言葉は大きな手に遮られてしまう。口を塞いだ掌がそのまま私の頬を包み、熱が伝播する。手の平は熱いのに、指先だけが酷く冷たかった。触れていたのはほんの一瞬で、戸惑う間もなく離れていく。

「……すぐ、る?」
「なまえ」
「どうしたの…?」
「悟をよろしくね」

遠くへ行くのはわたしの方なのに、何故だか置いていかれるような気持ちになった。窓から差し込む西日に、重なることのない二つの影が伸びる。それでも、夕焼けに染まるこの小さな世界でわたし達はこの先も共に生きていくのだと、愚かなわたしは信じて疑わなかった。今はもう、想い出を語れる人は隣にいないけど。それでも。



二人の過ちには名前がある





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