二〇〇七年十月。

一年の任期を終え帰国した日、悟が空港まで迎えに来た。税関を抜けて外に出る短いアプローチを歩くあの瞬間のドキドキを、懐かしい顔を見つけた時の安堵を、なんと表現すれば良いのだろう。

「おかえり」
「ただいま!」

背の高い悟の白い髪は出迎えの群の中で酷く目立って、一目で見つけて駆け寄っていく。目が合って、彼もまたほっとしたように微笑んだ。

「お前荷物これだけ?」
「うん」
「少なくね?」
「本当に大切にしてるもの以外は全部捨ててきた」

一瞬身体を強ばらせた悟が、一拍置いてから あっそと吐き捨てる。

「駐車場に補助監督待たせてるから行くぞ」
「こき使ってますねぇ」
「…こないだも思ったけど、やっぱお前ちょっと太った?」
「ぐ…バレた…?」
「ま、俺はそのくらいが好きだけど」
「……あ、そう」
「体調は問題ねえの?」
「…うん。大丈夫だよ」

極々自然にわたしのスーツケースを奪い取り歩き出すから、大きな歩幅に置いていかれぬよう慌てて後を追った。

「ほんとに迎えに来てくれたんだね」
「丁度任務の帰り道だったんだよ」
「素直じゃないですね。午前中に祓った現場はまったくの反対方向です」

真後ろから声が聞こえて、はっとして二人で振り返ると「待ちきれなくて来ちゃいました」とにこにこ笑うよく知った顔。

「わ、補助監督って園部さん!」
「はい、お久しぶりですみょうじさん」
「嬉しい!」
「私もです!お元気そうでなにより」

盛り上がるわたし達の頭上から、強めの舌打ちが聞こえて我に返る。まだ少し口元が笑っている園部さんに青筋を立てながらも、髪の隙間から覗いた耳が少し赤くなっているのに気付いた。こっそり笑ったつもりだったけれど、地獄耳の悟には直ぐにバレて頭を小突かれた。

「ほらさっさと帰るぞ」
「うん」

駐車場へと続く連絡通路。窓の外に見える景色に「日本だ…」と感慨深くなっているわたしを見て二人が笑う。一際ピカピカに輝く黒塗りの車にスーツケースを積み込んで、静かに空港を出た。流れていく車窓を眺めながらちらりと隣の悟に目をやると、彼も黙って窓の外を見つめている。わたしはその横顔に、あの日の悟を静かに重ねた。









悟は二回、わたしの元を訪ねて来た。一度目は日本を発って割とすぐの頃。出張のついでだと言っていたけれど、あちこち観光に連れ回された。そして二度目は、帰国の二週間前。

「よー、なまえ」
「悟…?」

その頃わたしは、帰国の準備と任務の引き継ぎで追い込まれていた。ぐちゃぐちゃの頭。祓っても祓っても沸いて来る呪霊に心が折れそうになった頃、その男は前触れもなく突然現れた。

「寂しくて泣いてんじゃねーかと思って来てやった」
「っ泣いてない!」
「はいはい」
「いきなりどうしたの?任務?」
「…いや、ちょっとな」

ずり落ちたサングラスをかけ直した彼が、首をかしげるわたしを見て薄く笑う。一瞬見えた目元には、見た事のない濃いクマを携えていた。

その日悟が行きたいと強請ったのは、有名な観光地じゃなくて、がやがやした雰囲気のローカルなレストラン。飛行機の中にあったガイドブックで見たらしい。

「ここビブグルマンなんだよ」
「ビブ…何……?」
「星は付かないけど安くて美味い店」
「星?」

首を傾げるわたしを見て、本場のシェフがやってて美味いんだって、ともう一度悟が笑った。きっと何か嫌な事があって息抜きをしたかったのだろうと、単純な頭で考えた。

ひとしきり食事を終えてデザートメニューと睨めっこしていた時、ふと彼の視線がこちらに向けられたままなのに気付いて。薄暗い店内でもかけられたままのサングラスの向こう、ここからじゃ見えない瞳に何かを問われている気がして思わず視線を逸らす。

「これ食ったら帰るか」
「そうだね」
「話したい事あるんだけど、俺のホテルでいい?」
「…え?あ、うん」

悟の取ったホテルは歩いて帰れる距離だと言うので、タクシーは呼ばずに夜風にあたりながら帰る事にした。景色がすごいんだと自慢するから、悟ばっかり狡いと見上げた彼の顔が、あまりに優しく微笑んでいて心臓が止まる。なに、それ。そんな風にわたしを見る貴方の顔を、わたしは知らない。夏の夜の生温い空気が頬を切って肺を満たす。透き通る蒼は少しだけ揺らいでいる。息が、出来なかった。









ロビーを通ってエレベーターに乗って、ふかふかの絨毯が敷かれた長い廊下を歩いている間、わたし達の間に言葉はなかった。

ほぼ毎日連絡を取り合う硝子や、任務で地方に行く度に写真付きのメールを送り付けてくる悟とは違って、傑とは月に一回定期連絡のようにして短い電話をするだけだった。

最後の電話から丁度一ヵ月位経っていた。灰原くんが亡くなった翌日のことだった。あの日の傑の声は、酷く暗く落ち込んでいて生気が無くて、術師、辞めたいのだろうなと思った。辞めるならそれでいいと思ったし、わたしも一緒に高専を出てもいいなと考えていた。傑が一般企業に勤めるのは想像出来なかったけど、この先何になろうと何処に居ようと、わたし達の間にあるものが変わる訳じゃないんだし、目の前にあるものだけが正しい筈もない。

(……やっぱ、辞めることになったって話かな)

ポケットから出したカードキーでロックを解除して扉の向こうに吸い込まれていく背中をのろのろと追いかける。部屋の電気はカードキーを挿さないと付かない仕組みだったけど、悟が動く気配はないまま扉が閉まった。真っ暗な部屋で立ち竦む見慣れたシルエットに目を凝らす。

「…悟?」

嫌な予感がした。無言の空間に耐えきれずに口を開こうとして、漸く振り返った彼の顔は見えなかったけど。徐に触れた手、重ねた指先のあまりの冷たさに背筋がぞっとする。

「、ねぇ、」
「なまえ」
「悟変だよ、どうしたの?」
「落ち着いて聞いて欲しい」

それ以上喋らせないとばかりに抱き寄せられて、視界がブラックアウトする。悟が目を見ない時は、何か都合が悪い事がある時。ああ、やっぱ、なんかあったんだ、




「傑が離反した」




どくん。まるで耳の中に心臓があるかのように、鼓動が大きく響く。悟の言葉尻は少し震えていたけれど、それが紛れもない事実である事を示していた。

「、は、」
「ごめん」
「 なに?りはん?」
「ごめんなまえ、」

口の中で転がすように何度か復唱して漸く漢字を思い浮かべた。離反。言葉は知っている。意味もわかる。だけど、傑が?なんで?どうして、

「本当は今日会ってすぐに言うつもりだった。でもお前の笑う顔見てたら、言い出せなかった」
「は、離反って、なんで、どういう、」
「派遣先の村で、人を殺したんだよ」
「……え、人って、え?」
「傑は、呪詛師として処刑対象になった」

大きな身体に包まれて相変わらず真っ暗な視界で、もう一度聞こえた「ごめん」の不安に苛まれた声。わたしがへらへらと笑っている間ずっと、悟はこの話を切り出すタイミングを伺っていたのか。抱き締める強さが増す腕の中で、自分の愚かさに消えてしまいたくなってぎゅっと目を瞑った。

「、何で悟が謝るの」
「お前がいない間にこんな事になったから」
「…怒ると思ったの?」
「…泣くと思ったよ」

お前は泣き虫だから。少し身体が離れて、そう言った彼はおずおずとわたしの顔を覗き込む。予想に反して一滴の涙も流れない瞼の下を、少しかさついた大きな指がなぞった。

「…泣かねえの」
「…実感が湧かないというか、ちょっと、理解できない」
「そりゃ、そうだよな」
「いつ…?」
「昨日。日本はもう一昨日か。夜蛾センに呼び出されて、知った。電話で言う事じゃねえと思って、先生と硝子に口止めだけしてその足で飛行機飛び乗った」

ゆっくりと頭を撫でられて、もう一度そっと身体を包み込まれる。まるで大切なものを護るように抱き締められた。明日の朝一の便で帰らないといけない、と悟が言った。こんな痛みに耐える様な声、聴いた事がなかった。

「傑、お前に連絡してねえの」
「…ないよ、連絡なんて」
「そっか」
「うん」
「俺にもなかった」

何を言えばいいか分からず、背中に回した腕に力を込めた。もしも電話口で告げられていたら、それはきっと死刑宣告の如くわたしの心を刺し、こんな風に静かに受け止める事なんて出来なかったのだろう。

「…百十二人」
「なに、それ」
「傑が殺した村の人間。その後、親も手にかけたって」
「っ?!そんなの、信じられない!」
「俺もだよ。誰かに否定して欲しい。違うって、こんなの嘘だって、夢なら醒めてくれって、昨日からそればっかり考えてる」

噛み締めるように吐き出された言葉と、痛いくらいに抱き締める腕。肩口に埋められた顔は見えなくても、悟がどんな顔をしているかは何なく想像出来た。

「もしこれが現実だって言うんなら、せめて、誰か俺を繋ぎ止めてくれって。傑のした事をひゃくぱー否定できねえ俺を、誰かこの世界に押し留めてくれって。ずっと、頭ん中そればっかりなんだ」
「悟、」
「だから俺、お前に会いに来たのかな」
「っ、」
「なまえ、なまえは居なくならないよな」

見上げた先の碧眼には、情けない顔をした女が映っていた。頬を温かいものが伝ったことには、悟の指が目尻を拭って初めて気付いた。

「わたし、ずっとここにいるよ」
「うん」
「黙って居なくなったりしない」
「…うん」
「だから、悟は一人じゃない」

わたし達は、日々呪霊を祓う。かつては人間だったものをこの世から消し去る。呪詛師と呼ばれる人を殺さなければいけない日もいつか来る。その行為が呪力を持って生まれたものの宿命なのだとしたら、わたし達は、傑を殺してしまう大義名分を、大切な人の生殺与奪の権を、与えられたわたし達は、



「ねえ、わたし達、何の為に術師になったんだっけ……」



意味などなかった。考えたことすら。


その日、真っ暗なままの部屋の広いソファの端っこで大きなシーツにくるまって、時折泣いたり抱き締め合ったりしながらわたし達は朝を迎えた。憂さ晴らしに映画を見ることも、これ見よがしに想い出を語ることも、寂しさを埋める為に身体を重ねることもなく、傑のいない明日が続いていくのにただ子供の様に怯えていた。縋りついた悟の身体は、いつもより冷たいような気がした。









「もうすぐ高専に着きますよ」

園部さんの声に我に返る。隣の男は相変わらず外を眺めていて、彼の左手とわたしの右手は今にも触れ合いそうなもどかしい距離にあるけど、決して触れる事はない。それは越えてはいけない一線を守るように、もう此処にいない誰かに誓うように、近づく事のない数センチの距離だった。そして誰に打ち明ける事もないまま、あの夜は二人だけの秘密になった。



うつむくふたりは夜明けになれない





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