がむしゃらに走っていた。硝子から新宿の喫煙所に傑がいると電話があったから。
息が切れて呼吸もままならず、ひゅーひゅー音を立てて喉元が痛むまで。体力も足の長さも異常な悟は、先行くぞと一言捨て置いて先に消えていった。悟の背中が見えなくなって、終に息も出来なくなって、足を止める。
( わたし、何してるんだろう )
空港から高専へ帰校した悟とわたしは夜蛾先生へ挨拶に向かう間もないまま硝子の電話を受け、着いたばかりの高専を飛び出した。怒鳴り散らす悟の横で、わたしはただ震えながら立ち尽くす事しか出来なかった。ただ、時差ボケな事も十何時間も乗っていた飛行機を降りたままシャワーを浴びていない事も、瞬時に忘れてしまう位に心臓はどくどくと脈打っていた。
呼吸があまり上手く出来ない。頭痛もする。それでも、人混みをかき分けて前へと進みながら、灰原くんが死んだと電話をもらった日の事を思い出していた。傑との、最後の会話。この仕事してたら仕方ない事だ、七海が憔悴してて心配だ、そう言ってた。わたしが泣いたら、電話の向こうで慰めてくれた。そして問われた。
『なまえ。呪術師やっていけそうか?辛くないか?』
『辛いよ。こうやって仲間が死んでいくのは辛い』
『…そうか』
『だけど、みんながいるから頑張ろうって思える。それもほんとだよ』
『そう、だね』
『だけどね』
『うん?』
『もし傑が辞めたいなら、わたしも一緒に辞めてもいいよ』
『……………』
『……傑?』
『いや、何でもないよ。ただ、少し、選択に迷っているだけだから』
今思えば、それは酷く疲れた声だったのに。彼の心の奥底で渦巻くものに、わたしは気付きもしなかった。傑の悲しみも怒りも憤りも何一つ分かっちゃいなかった。事実、傑の選択にわたしはいなかったのだから。
( わたし達って、何だったんだろう )
隠し事だらけの毎日に名前を見出そうとする行為になんの意味もない事はよくわかっていた。それでも、今此処で息をしている理由が急に分からなくなって、雑踏の中をとろとろ歩く。当てもなくたどり着いた都会の真ん中の公園で、崩れ落ちるようにしてベンチに腰を下ろした。平日の真っ昼間、営業電話をかけるサラリーマンや子連れの主婦、井戸端会議する老人達…ごくありふれた日常が恨めしく映り、全てを壊してしまいたい衝動に駆られる。背もたれのないベンチに誰かが反対側から座る気配がするけれど振り返る気にもなれず、胸に込み上げてくる殺意を押し殺していると、慣れ親しんだ声が鼓膜をついた。
「や、なまえ」
反射的に俯いていた顔を上げて、ひゅっと息をのむ。
「……すぐ、る」
「おかえり」
振り返れなかった。だけど見なくてもわかる。視界の端に映る黒い影。いつもの傑がそこにいた。何も違わない、だけど何もかもが違う、彼がそこにいた。
「元気そう…ではないね。聞いた?」
「聞いたよ」
「そっか」
「空港、迎えに来て欲しかった」
「……ごめんね」
申し訳なさそうに小さな声で謝られる。傑は何かを考えているのかそれ以上言葉が続く事はなく、沈黙に堪えきれなくなったわたしからぽつりと言葉を零した。
「さっきまではね、もし傑に会えたら殴って問い詰めようと思ってた」
「うん」
「だけどね、声を聴いたらそんな気失せた」
「…うん」
「傑は、いつも正しかったから。今回傑がやった事は理解も肯定も出来ないけど、」
風が頬にかかる髪を揺らした。傑は何を言う事もなく、ただ静かにそこに居た。
「きっと傑なりの正義があって、だから、傑が何をしても人殺しって言われても、」
「、なまえ」
「わたしにとっては傑は傑のままで、それ以上でもそれ以下でもない、何も揺らがないんだ」
おかしいでしょ、と笑ったはずだった。彼も、いつもみたいに笑い返してくれるはずだった。だけど頬を温かいものが伝ったし、彼が笑い返してくれる事はなかった。
「きっと悟も硝子も同じだよ」
「………」
「変わったのは傑じゃなくて、いつの間にかこのクソみたいな世界で平気で息をしてたわたし達の方だったのかな」
「なまえ、私は、」
「ごめん、ごめんね傑、」
「どうしてなまえが謝るんだ」
わたしたちは若く、愚かで、どこまでも惨めだった。隣合わせのたった数センチの距離が酷く遠くに感じる。一人にしてごめん。気付いてあげられなくてごめん。もしもあの日に戻ってやり直せるのなら、もう二度と間違えないのに、
「もうやり直せないの?」
「うん……行く道は決めたから」
「どうして駄目だったのか、訊いたら教えてくれる?」
返事の無いまま、行き交う人達の喧騒だけが耳に届くこと数十秒。おもむろに聴こえてきた声は、固く鋭いものだった。
「私は、優しい人間でありたかった」
「うん」
「万人に平等に手を差し伸べられる人間で在ることが、真理だと思っていたんだ」
「……うん」
「だけど世界はあまりに不平等で、権利だけを享受してエゴイスティックに生きる猿で埋め尽くされていると気付いた時、……その真理は表層的なものでしかなかったと知った」
それが、どうしても耐えられなかったんだ。届いた言葉は、わたしの知る彼のものではなかった。身体を強張らせた事に気付いたのか、傑はいつものように柔らかく笑った。
「いつか君にも解るよ」
あまりに優しい声。だけれど、他人事のような突き放されているような、それが悲しくて、。ゆっくりと顔を上げた。何度も何度もわたしを映した、深い色の瞳を見た。
「……傑、抱き締めてもいい?」
返事の無いまま、ぎしりとベンチの軋む音と共に回された腕。零れ落ちた涙が、黒い服の袖に吸い込まれて消えた。
「君に、どう償えばいいのかずっと考えていた」
「償う…?何を…?」
「隣に居るべきなのは私ではなかったから」
「、え?」
「悟の傍を離れたら駄目だよ。君の幸せは悟の隣にある」
「ねえ、何言ってんのかわかんないよ傑、」
「……ずっと、変わらないでいてくれ」
「、なにを」
「そして、私を赦さないでくれ」
そんな声で、そんな事を、言わないで欲しかった。視界が滲む。言葉が出ない。ただ、もう戻るつもりがないのだという事だけを理解した。
「ねえ、わたし、傑と一緒に高専辞めてもよかったんだよ」
本当だよと、吐き出した言葉尻は情けなく震えていた。彼は何も答えなかったけれど、返事の代わりに左手の薬指に口付けた。タチの悪い呪いを遺していくなんて、なんて酷い人なんだろう。
「それでも、一人で行っちゃうんだね」
もう夏は過ぎたのに、じとりと湿っぽく纏わりつく空気を鬱陶しく思う。夏の終わりを引き摺るような空気の匂いが嫌いになった。傑が居なくなったと告げられた、あの日のことを思い出すから。
「……君だけが私の光だ。今までも、これからも、ずっと」
掠れるような、それでいて震えることのない、意志の通った声だった。いつも、形も呼び名も無い何かに祈り続けていた。ただ穏やかな日々の中で、ずっと皆が笑っていますように。傷付くことのない健やかな毎日でありますように。それは酷く単純で難しくも何ともない願いだと、浅ましくもそう思っていた。
「言い逃げなんて、狡いね、傑は」
「……うん、そう、狡いね」
もう叶わないその願いを封印するようにゆっくりと瞼を閉じた刹那、呪力の気配を感じ、顔を上げると空が黒く塗り潰されていく。
「…帳?!」
「っ傑、逃げて、!」
今思えば名残惜しかったんだと思うけど、近くに術師が迫って来ている事にも気付かないなんて本当に浅はかだった。繋いだ手を離した。なんだかこれが最期のような、二度と会えないような気がして顔を上げ、視界に映るのは、見た事のない悲しそうな目をして顔を歪めた傑と背後に忍び寄る術師、
「っなまえ!」
咄嗟にベンチを乗り越えて傑を庇う様に前に飛び出した。嗚呼、考える前に身体が動くってこのことか、と。身体のど真ん中を呪具で貫かれ吹き出す赫を視界に映しながら最期に思ったのは、悟でも硝子でも傑のことでもない、そんなどうでも良いことだった。
あなたが息をしている間、
ずっと変わらないことがある
記録:
二〇〇七年十月××日 午後三時頃。
新宿区立新宿中央公園にて、東京都立呪術高等専門学校の生徒であるみょうじなまえは、指名手配中の呪詛師・夏油傑より接触を受ける。直後、同校生徒である家入硝子へ通報し応援を要請。同時刻付近へ居合わせた家入硝子並びに五条悟は同公園へ急行するも、みょうじなまえは呪具によって胸部を貫かれ出血多量・意識不明であることを確認。同時に、夏油傑の潜伏先を探る為に放たれていたと思われる複数の