あの日、携帯に残った最後の履歴。
記憶に無い硝子への電話。

「夏油がかけてきたんだよ」

事件の事が皆の頭の中から抜け落ちて、漸く少し落ち着いた頃、硝子があの日のことを教えてくれた。まるで秘密話でもするような、小さな声で。

「傑が?」
「そう、アイツが」

告げられた公園へ辿り着いた悟と硝子が帳の中に飛び込むと、そこは血の海だったらしい。わたしの胸は呪具によって貫かれ、一面の赫に沈む身体を見て眩暈がしたと硝子は言った。一般人の多い場所なら迂闊に手を出せないと傑は読んでいたのだろうが、上の判断は違っていた。夏油傑の処刑にあたり多少の・・・犠牲は厭わない。それが上層部の下した命であった。

「それで五条が上手く誤魔化した」
「誤魔化した」

夕刻、西日の差し込む誰もいない資料室にこっそりと忍び込んでめくった報告書。性格に似合わず几帳面な悟の筆跡。無機質に並ぶ文字は事実だけを淡々と記す。黒のインクで綴られた名前を指でなぞった。わたしは、彼の事を何一つわかってはいなかった。

「そう、有耶無耶にしたの」

落ちた涙に気付いて慌てて拭ったけれど、彼の名前は滲んでしまった。







誰にも言わなかったけれど、暫くの間、細かい事が思い出せないことが続いた。硝子が好んで使っていた手袋の色、悟の好きな駄菓子の名前。取るに足らない小さなこと。寮の廊下で七海に呼び止められ、お礼と共に本を渡された。首を傾げたわたしを見て、彼は一瞬押し黙り、それから眉間に深く皺を寄せた。

「大丈夫ですよ」

念の為にと受診した外部の病院で、カルテから顔を上げた医師は何のことないような顔をして微笑んだ。

「え、でも、」
「衝撃的な体験をした後なんかに、無意識の内に辛い記憶を忘れようとする事は珍しい事ではありません」
「……忘れようとする、ですか」
「まあ一時的に記憶が混濁しているだけでしょうから、大丈夫、徐々に思い出すはずですよ」

優しい微笑みにも、かけられる慰めの言葉にも、嘘は無かった。

「そう、ですよね」

耐え難い出来事に対する心の防衛反応。医師はそう言った。

「大丈夫、ですよね」

その日告げられた通り、記憶のぼやぼやは日を追うごとに落ち着いていったけれど、高専での日々は自分の中で辛い記憶としてカテゴライズされるのだと示されたのは、想像に余りある出来事で。

心にぽっかり空いた穴をどうやって埋めればいいのか分からずに困惑する。自分だけが置き去りにされているような感覚。傑がいない事以外は何ひとつ変わらない毎日。何の問題もなく回り続けていく世界。皆は平気で息をしている。わたしは一体何から逃げようとしているのだろうと、木漏れ日の射し込む校舎の廊下で時折一人立ち尽くしては、憶う。

何も考えられない中で、このままではいけないという防衛本能だけが働いていた。高専を離れるべきだと思った。冥さんや九十九さんのようにフリーで仕事をしたっていい。ここはあまりに想い出が多過ぎて、息が詰まるから。

二〇〇九年十二月初旬。
惰性で過ごした学生時代の終わりが見えた頃。季節は冬になろうとしていた。

青山霊園近くの廃ビルでの仕事を終えた時、近くにいるから合流しようと入った一本の電話。待ち合わせたのは外苑の銀杏並木。美しく色付いた葉が落ちて道を埋め尽くし、黄金色の絨毯のようだった。

「子供みたい」

しゃくしゃくと音を立てて落ち葉を踏みながら歩くわたしを見て、悟が笑った。

「悟も同じことしてるじゃん」
「まあね。これ楽しいし」
「でしょ」

会うのは久しぶりのことだったから、余計にはしゃいでいたかもしれない。その頃悟は一人称や話し方を直し始めて間もなくて、可笑しな物言いをしてはわたしを笑わせた。

「その喋り方、慣れないなあ」
「早く慣れてよ」
「それにしても、悟が先生かあ」
「あ?どーゆー意味だよ」
「あ、ほらまた戻ってる」

すっかり油断して、サングラスをずらして笑った悟と目が合った時、驚きと恐怖に思わず一歩後退ったのを彼は見逃さなかった。

「は?なに?」

離れた距離を埋めるように悟が一歩踏み出し、落ち葉が乾いた音を立てる。硬直した身体。掴まれた肩の痛み。不機嫌に唸った彼にじっとりと睨まれて漸く気付く。ああ、そうか。今のわたしは、悟の瞳の色さえ分からないのか―――

「……なまえ?」

平日の昼間でもここは人通りが多い。過ぎゆく人の波の中で、黄金色の世界の中で。わたし達だけ時が止まったかのようだった。

「悟、」
「お前、なんか変だ」
「っごめ、」
「なまえ?」
「言ってなかった、事がある」

何もかもを打ち明けた。手袋の色、お菓子の名前、本の貸し借り。壊れてしまわないように、まだこの世界に立っていられるように、ただただ静かに忘れていくこと。自分が楽になるだけなのは分かっていた。怒鳴り散らして怒られると思ったのに、彼はそうはせず、支離滅裂なわたしの話を最後まで黙って聞いていた。

「今、この瞬間、お前の前にいるのが誰だかは分かるんだよな」
「分かるよ、ちゃんと分かってる」
「じゃあ、それでいいよ。護るから」
「、え?」
「今あるもの全部、俺が護るから」

その人はわたしの正面に立ち、真っ直ぐに向き合って微笑んだ。もう何ヶ月も姿を見ていなかったというのに、昨日振りのような顔をして微笑んだ。


「一緒に暮らそう」


世界から音が消えた。それはあまりにも脈絡の無い発言で、俄には信じがたい提案で、わたしは上手く笑い返せないまま、蒼の海を見ていた。そこには意味も理由も無かったけれど、それでも一緒に居るのだと、彼はそう言っていた。

「………どうして、」
「このままじゃ、忙し過ぎて永遠にすれ違いだろ。じゃあそれを解決する方法って一つしかなくない?」
「なんで、突然そんなこと、」
「お前にとっては突然かもしれないけど、ずっと考えてた」
「ずっと、?」
「寂しかったのはなまえだけじゃないよ」

馬鹿だなあと、優しい声が鼓膜を撫でた。当たり前に訪れる毎日から大切なものが少しずつ欠けていく、そんな思いをするのは二度と御免だった。

「悟、怒らないの」

頬に触れたのは、あまりに優しいぬくもり。何もかもが嘘で固められたこの世界に残されたわたしの大切なもの。もう数えるほどしか無いんだなあと憶う。

「……怒らないから、そんな顔すんなって」

もう一歩距離を詰めた悟が、ゆっくりと顔を傾けて瞼を下ろす。柔らかな髪が頬を掠めた。わたしは目を閉じることも出来ずに、神様が特別にあつらえたそのかんばせを見ていた。

「……なまえ」

悟が長い睫毛を瞬かせ、唇に触れた熱が離れていく。少し強い力で手を握られて、溜め息が溢れた。唯一無二の輝きを放つ瞳は驚きに見開いて、それから困惑に揺れる。少しかさついた指が目尻を拭って初めて、溢れたのは溜め息だけではなかったことに気が付いた。

「悟」
「うん」
「ごめんね」
「…なんで謝んだよ」

ぼんやりとわたしを映した碧が揺れる。揺蕩う様は、永遠に何処までも広がる海のようだった。

「後悔してない?」
「……何を?」

悟も傷付いているのだと、失う事を恐れているのだと、今になって漸く気付いた。誰よりも強いからこそ、誰にも頼れないのだということも。

「お前が此処にいてくれれば、それでいい」

だからその深い悲しみを、わたしが分かち合ったり埋めたり出来るのなら―――それでも良いのかもしれない、とも思うのだ。

「それだけでいい」

だから、一緒にいよう。情けなく震える声だった。これから先ずっと一人で生きていくのだと、どこか諦めに似た覚悟を決めていた。その道の先、きっと悟の隣にわたしはいないけど。今は、今だけは、許されるだろうか。

「二人なら全部大丈夫だ」

もう涙の溢れない目尻を拭う悟の指先の温もりを感じ、ゆっくりと深い碧の底へ堕ちてゆく。あの夜の続きだと思った。二人だけの秘密の、あの夜の。

「もう何も失くさない」

冷たい風が頬を切り、落ち葉を揺らす。半ば祈りのように吐き出されたその言葉に酷く胸が痛んだ。筋が浮くほどの力で握られた手。何も考えずに包み込んであげられるほど、もう幼くはなかった。



大人になれば
さよならくらい簡単だと思ってた





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