愛を囁かないてのひら

その日は冷たい雨の降る夜だった。

定春の散歩に行った神楽ちゃんが中々帰って来ず、おかしいと思っていたら、出先のお店で借りた電話で迎えの催促をしてきた。プリンを食べようとしていた銀さんの重い腰を何とか上げてもらい、傘を持って神楽ちゃんを迎えに出たのが半刻程前のこと。そして、
 
「つーか遠!なんだよここ!怪しげな倉庫街じゃねぇか。何?俺神楽に海に沈められんの?」
「大げさですよ銀さん。まぁ、確かにちょっと遠いですけど…」
「なんちゅーとこまで来てんだよお前は」
「定春が引っ張るから仕方ないアル。雨も強くなってきたしさっさと帰るアルよ」
「お前なぁ。人を呼び出しといて仕切ってんじゃねーっつーの」
 
悪びれない神楽ちゃんに小さく悪態をつく銀さん。アスファルトに撥ねる雨が濡らした裾が重い。ため息をつきながら十字路を通り過ぎて、ふと、視界の端に映ったものが気になって後戻りした。
 
「新八?何してるアルか」
「おーい、雨やばいから早く帰ろうぜ。置いてくぞコラ」
「……銀さん、神楽ちゃん、あれ、人じゃないですか?」
 
少し先の道端に、白っぽい影。土砂降りの雨でぼんやりとしか見えないけれど、何か胸騒ぎがして。小走りで駆け寄ってみると、やっぱり誰かが行き倒れていた。
 
「ちょっと、血まみれじゃないですか!大丈夫ですか?!っていうか何でこんな薄着で…?」
「おいおいおい…これ轢き逃げじゃねーの」
「最低なやつがいるネ。生きてるアルか?」
 
銀さんが指さした先には、大きくうねった車のブレーキ痕。近付いてよくよく見れば、まだ若い女性。そして、胸がゆっくり上下している事からまだ息をしている事が分かる。
 
「まだ息してますよ!早く病院に…!」
「ったく、何でこんな事に巻き込まれなきゃいけねーんだよ。おーい、お姉さん、立ち上がれる?病院行くぜ」
 
そういって面倒くさそうに彼女を抱き起した銀さんの、表情が一変する
 
「    なまえ?」
 
女性の名前を呟いて、固まってしまう銀さん。暗がりの傘の下でも分かる程、みるみるうちに青ざめていく表情。何、どういう事…?
 
「銀さん?知ってる人なんですか?」
「銀ちゃん、早く病院連れてかないと危ないんじゃないの?」
「銀さんってば、ねぇ 」
 
覗き込んだ顔は、あまりにもみっともなく歪んでいて。銀さんの傘が落ちる。傘を離したその両手で、ずぶ濡れの女性を抱き締めるために。もうこのどしゃぶりの雨のせいで、頬を伝うものが何なのか見分けはつかないけれど。確かにあの時銀さんは、声も出さずに泣いていたんだ。
 





 
あの後、放心状態の銀さんを神楽ちゃんと一緒に引きずり上げて、何とか町医者までたどり着いた。その間、銀さんは決して彼女を離そうとせず、ずっとその薄い肩を抱き寄せていた。今彼女はベットに横たえられ、その横にぴったり張り付くようにして銀さんは枕元の椅子に腰かけている。
 
「銀ちゃんがおかしいアル。あの女一体何者よ、怪しすぎるネ」
「何も言わないのが余計怪しいね。というか、普通じゃないよね。あんな銀さん見たことないよ…」
 
神楽ちゃんとこそこそ話していると、医者にこっちに来いと手招きされる。
 
「とりあえず、落ち着いたよ。酷く濡れていたから高熱が出てるけど、山は越えたね」
「よかった、ありがとうございます」
 
神楽ちゃんと顔を見合わせてほっと溜息をつくと、ところで…と医者に手招きされ、こしょこしょと耳打ちをされる。だが話し始めた先生の声は普通に大きく、こしょこしょ話の体にしている意味は皆無である。
 
「あの人…車に撥ねられたって言ってたよね?」
「ええっと、事故を見た訳じゃないんですけど、車のブレーキ痕があってそこに倒れていたので。てっきりそうなのかと」
「あれ、多分事故だけじゃないよ」
「え?!」
「服を着替えさせた時に、ナースがびっくりして報告してきて。服を着ていたら見えない所、全部痣だらけでね。古い傷もあるけど、目立つのは殴られたばかりの新しい痕だ」
「そ、そんな…顔は擦り傷程度で大きな怪我もないように見えたのに、」
「手首にも縛られたような跡があってね、どこかに監禁されてて逃げ出してきたっていう可能性は…」
「そんな事あるアルか?!」
「ま、まさか…」
「君たちの知り合い?警察に通報した方がいいと思うけど、何か怖くてさ…」
「あ、いえ…僕たちは…でもこの人は知り合いみたいで」
 
そう言って銀さんを見ると、しっかりと「なまえさん」の手を握り締めてうつむいたまま。
 
「ちょっと銀さん、お医者さんの質問に答えて下さいよ。この人どこの誰ですか?警察に通報した方がいいんじゃないかって言ってますけど、どうしますか?」
「銀ちゃん返事するアル。いつどこで引っかけた馬の骨ね。どうせ家まで行ったんだろ、家の場所覚えてる?連れて帰れるアルか?」
「       よ」
「え?」
「家なんて、知らねーよ。生きてるか死んでるかも分かんなかったんだ、今の今までな」
「…銀さん、この人は一体銀さんのな「あ!銀ちゃん、新八、見るアル!目が覚めた!」
 
神楽ちゃんの大きな声でみんなが一斉に「なまえさん」を見る。
薄っすらと瞳を開き、ゆっくりと周りを見渡す。
深い色の目をした印象的人だな、と思った時、彼女が小さく掠れた声を発した。
 
「 、ここは?」
「なまえ、気が付いたか。もう大丈夫だ」
 
ほっとした、少し間抜けな表情の銀さんが彼女の頭を撫でようと手を伸ばすと、なまえさんがびくっと身体を震わせ恐怖に満ちた瞳で銀さんを見る。
 
「 なまえ?」
 
「……誰?」
 
ぽと。銀さんの手が滑り落ちた。
ねぇ銀さん。後になって話を聞けば聞くほど、僕はわからなくなった。どうしてあの時彼女の記憶から、貴方が消えてしまったのか。
 

愛を囁かないてのひら