長い長い恋だった。

小学校一年目、隣の席になった女の子。いつから好きになったかなんてもう覚えてはいない。消しゴム貸してと言うだけであんなに震えたのは人生で初めてだった。同じクラスにいた岩ちゃんと俺となまえ。家の近い俺達三人は登下校も一緒、バレー教室も一緒。幼馴染という大変便利な括りを利用して、四六時中つるんでいた。

だけど中学に入る頃には岩ちゃんも俺もニョキニョキと背が伸びて、足も腕も長くなってマラソンだって速くて、なまえはもう一緒にはプレー出来なくなった。それでも傍に居て欲しくて勝手に彼女の名前を入部届に書いた。斯くして北川第一バレー部のマネージャーとなったなまえは、不平不満を漏らしながらもしっかり三年間務め上げる事となる。

当然のように一緒に進学した高校では、受験を理由にマネージャーは引き受けて貰えなかったけれど。何処の馬の骨とも知らない奴に告白されたなまえが興味本位で彼氏を作るというハプニングは何度かあった(どれも一週間以内に別れさせた)ものの、俺達の関係に何ら変化がある訳でもなく。試合の度に彼女は観覧席からひらひらと手を振った。なんだかそれでもう充分な気がしてしまうので、恋は盲目とはよく言ったものだと思う。

そしてアルゼンチンへ行くと告げた日の彼女の淡白な返事と来たら、思わず縋りついてしまいそうになるくらい呆気ないものだった。卒業と同時の出国。沢山の人が見送りに来てくれた空港のロビーで、なまえはたった一言だけを発した。

「頑張って」

皆と同じ、波風立たない台詞。その後に口パクで続いた五文字を、俺だけが見ていた。たった一言。たったの五文字。どんな声援よりも背中を押してくれる魔法の言葉。髪を梳く白い手も、時折指先を掠める温もりも、何もかもが愛おしかった。このままでは自分は幼馴染という括りで一生を終えるのだろうなと薄々気付いてはいても、言葉にしたら二度と触れる事は出来ないような気がして、終ぞ伝える事はなかったけれど。

そんなこんなで絶望的に何の進展もないまま時は経ち、いつの間にか大人になって、それでもなまえは一番近くで笑ってる。幼馴染として、変わらぬ笑顔で笑っている。そうして今日もまた見慣れた横顔を見下ろしながら、いつまで傍に居れるのだろうと惨めったらしく下らぬ事を念うのだ。

「ねえ」
「うん」
「久しぶりに会えたんだから、そろそろ構って欲しいんですけど」
「うん」

気付けばプロ生活四年が終わり、五年目を迎える二十二歳。なまえと岩ちゃんの大学卒業に合わせて帰国していた。一人暮らしの彼女の部屋に堂々と上がり込んだはいいものの、青城メンバーで約束した夕飯の時間まで、もう三十分を切っている。車で迎えに来てくれる予定の岩ちゃんが、空気を読んで暫く来なければいいのにと願うけど、奴は恐らく律儀に十分前にやって来る。

「なまえさん」
「……うん」
「本物がここにいるんですけど」
「………んん」

危機感のカケラもなくソファに転がるなまえの手には、懐かしの月バリ。『海外で活躍する日本人選手』と銘打たれた特集で、俺に与えられたのは小さな小さな区画。トスを上げる瞬間の写真に簡単な紹介文。

「何時間眺めるつもり?」
「だって、徹が載ってるから」
「学生の時のが大きく載ったじゃんか」
「それはそれ。これはこれなの」

折角二人きりなのにこちらに視線すら寄越さずに返事をしたなまえは、さっきからいつ迄も同じ頁を開いたまま、何度も何度も俺の名前を指でなぞっていた。それがどうしようもなく小っ恥ずかしく、その行為に果たして意味はあるのかと勘繰ってしまう。

「日本の皆が徹を知る日はいつかなあ」
「皆の及川さんになったらもうこうやって独占出来なくなっちゃうかもよ?」
「ふふ、それはそれでいいんじゃない」
「寂しいこと言うねえ」

ずっと焦がれていた彼女と共に在る未来。だけどこの気持ちを伝えることで、いつかなまえが俺の隣から離れていく日が来るというのなら。彼女が他の誰かと出逢うその日まで、このまま一番近い場所に居続けるのは充分に幸せなことなのかもしれないとも惟うのだ。

「……俺は、誰にわかってもらえなくてもいいんだけどね」
「え?」
「周りにいる大多数の人間は表層しか見てないんだからさ。それで勝手に期待されたりがっかりされたりするのは、しんどいし」

ぱたり、手元の雑誌が閉じられる。気怠げに身体を起こした彼女が、漸くこちらへ視線を向け、ソファの背もたれに深く沈みながら「知ってる」と呟いた。

「まあ俺には岩ちゃんとなまえっていう絶対的味方がいるし?二人が解ってくれるなら、俺がどんな選択をしようと肯定して受け入れてくれるなら、」
「うん」
「それ以上は望まないよ」

ぽつりと呟いた言葉が宙に溶ける。ああ、なんて残酷な時間。巻き戻せるとも思っていないけど、後悔が無いわけでもない。

「じゃあ、わたしは欲張りすぎかも」
「んん?」
「最近ちょっと考えててさ」
「なにを?」
「ずっと一緒に居れたらいいなって」
「………え?」

いま、なんと。立ち尽くす俺を見上げるこの女はなんと言ったのだ。

「徹モテるし、時々彼女いたし、言うつもりなかったけど」
「え、ちょ、待って、嘘でしょ」
「物理的にも今すぐは無理だしね。でも、」
「待って、なまえ!」
「今まで決心つかなかったけど。ずっと、好きで、たぶん死ぬまで好きだから」

突然のことに口が引き攣って言葉が紡げない。ああ胃が逆流しそうだ。

「徹。なんて顔してるの」
「……俺どんな顔してるの」
「わたしの事が好きで好きでたまらないって顔」

ずうっと前からね、となまえが眦を下げる。こちらを見つめる目元が潤んで赤く染まっていく。相変わらず子供みたいに泣くなあと、どうしようもない愛しさが募って、

「うるさい」
「そんな顔で泣かないでよ」
「……なまえも泣いてる」

ソファの前に膝をついた俺の頬を優しい掌が包む。ああ、ほんとだ、こんなに近くにいるのに、目の前にいるのに、なまえの顔が滲んで見えやしない。

「馬鹿だなぁ」
「………俺の台詞取らないでよ」
「ごめんね」
「あーもう。もっと早く言ってよ馬鹿なまえ」

そうね、ほんとうにばかね。美しく唇が描いて零す。ぼろりと落ちた涙を、綺麗に整えた指先で拭った。命の次に大事な指先から伝わる熱。肌に染み込んでいくような感覚に、静かに瞼を閉じる。

「俺、アルゼンチンにいるし」
「うん」
「まだまだ向こうで頑張るつもりで、全員倒すのがいつになるかも分からなくて、なまえが悲しい時に直ぐに駆け付ける事も出来ないかもしれないけど、」
「うん」
「何処にいても、離れてても、なまえがおばあちゃんになっても、ずっと」

一緒にいたい。落とした言葉に彼女の肩が震える。

「プロポーズはまたちゃんとするから。とりあえず、約束して」
「それ、プロポーズと何が違うの」
「いいから!距離が離れてるから約束してもらわないと不安なんです!」

胸に込み上げる感情をうまく処理出来ず、瞼も鼻の奥も更に熱を帯びた。返事は…?と急かせば、鼻の頭を赤くしたなまえが小さく笑う。

「わたしも、徹と一緒にいたい」
「うん」
「死ぬまで一緒にいたい」
「……うん、ありがとう」

地球の裏側に居て、会えるのは年に数回もあれば良い方で、それでもずっと味方でいてくれるこの人に、俺は一体何を返せるというのだろう。

「少しくらい離れてても平気。だって、ずっと信じてるから」

ゆらゆらと涙の揺れる曇りのない透明な眼差し。あの日空港で見せた悲しい瞳が滲んでいく。これから未来に傷付く度に、きっとこの五文字を思い出す。


「なまえ」
「うん」
「今日のこと、俺、一生忘れない」


そっと抱き寄せて、覗き込めば、こちらを見上げた瞳に吸い込まれていく。鼻先が触れた瞬間に鳴り始めたインターホンに、空気読んでよと小さく呻いた。きっちり十分前。くすりと笑ったなまえが目を細める。嘘偽りの無い愛が、ひしひしと降り注ぐ。それがあまりに眩しくて、滲む世界を押しやるようにそっと瞼を閉じた。



この手はあなたを愛しているの





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