※ぬるいホラー



「隼人おかえり」


部活終わりのくたくたな体で自室のドアを開ければ、そこにはいつものように彼女の姿があった。ニコニコと嬉しそうに微笑んでいる彼女は、昨夜放り投げたままにしていた洗濯物を丁寧に畳んでいる。ただいま、と俺もいつものように返して、彼女の隣に腰を下ろす。「ほら隼人も畳んで」と手渡してきたジャージを素直に受け取って、同じように手を動かした。
なまえは隣のクラスの女子で、俺の友達だ。友達と言っても、そう思っているのはなまえだけだということに、多分本人は気付いていない。いつからかなんてことは覚えてないけど、気付けば俺はなまえのことが好きになっていた。一緒にいるとすげえ心地よくて、すげえ安心する。どんなに疲れて帰っても、なまえの顔を見れば全部吹っ飛んじまうくらい、それぐらい入れ込んでいる。らしくないなと思いつつも、彼女がそれだけ魅力的なのだから仕方ない。
俺の洗濯物を丁寧に畳んでいるその姿をぼーっと眺めながら、なんか新妻みてえだなと恥ずかしいことを考えていると、不意にばちっと目が合った。そんなことは今までにも何度もあったはずなのに、何故だか無性に緊張してしまう。そわそわしていることが伝わってしまったのか、なまえは小さく首を傾げてクスクスと笑い出した。


「どうしたの隼人」
「何でもねえよ」
「嘘だ、何か考えてる顔してたもん。」
「いやあ、相変わらずおめさんは可愛いなと思ってさ。」
「え〜なにそれ」
「結構タイプなんだ、実は」
「あはは、ほんとに?隼人モテるから、なんか信じらんないな。」
「関係ないだろ、俺はなまえのことが好きなんだから。」


言ってしまってから、あ、と気付いた。俺の言葉に目を丸くしてパチパチと瞬きしているなまえの頬が少しずつ赤く色づいていく。流れや勢いでつい口にしてしまった告白に後悔する暇もない。…そんな反応されるとは思ってなかった。恥ずかしそうに少し俯いてきゅっと唇を噛み締めている姿を見ていると、何だかたまらない気持ちになってきて、俺は返事も聞かないままなまえの体を自分の方へ抱き寄せた。思っていた以上に小さくて細いその体は、力を入れれば崩れてしまいそうなほどに脆く感じる。
なまえが何の抵抗もせずされるがままになっているのをいいことに、俺は彼女の肩口に唇を埋めた。ビクリと一瞬だけ見せた反応があまりにも可愛いもんだから、ついくつくつと喉の奥で笑ってしまいそうになったところを必死で堪える。これは、もしかするともしかするのかもしれない。
そうは思ってもまだ彼女本人からそう言われたわけじゃない。調子に乗って嫌われる前にと、俺は渋々なまえから離れた。そうしてやっと見えたのは、思っていた以上に顔を真っ赤にして、瞳に涙を滲ませているなまえの姿だった。これはちょっと、予想外だったな。


「…なまえ」
「ちょ、ちょっと待って…」
「はは、うん」
「えっと、えっと…あの、隼人、」
「ん?」
「…ほんとうに?」
「おめさん、まだ俺のこと疑ってんのか?ショックだなぁ。」
「違うよ!そういうわけじゃないけど…」
「けど?」
「……びっくりしちゃって、その、こういうの初めてだから…」
「そうか」
「…わたしも、ずっと前から隼人のこと好き、です。」
「……やべえ、嬉しい」
「ほ、本当は言わないでおこうって思ってたの!隼人、部活忙しいし…邪魔になるかなって。」
「むしろ逆、なまえがいれば俺もっと頑張れるよ」


不安げな顔をするなまえが愛しくて、俺は思わずもう一度彼女を抱きしめた。今度はしっかりと、絶対に離さない。腕の中で、隼人、と恥ずかしそうに俺の名前を呼ぶ声が鼓膜を優しく震わせる。
コンコンと鳴り響いたノック音も、今だけは聞こえなかったフリをしよう。隼人、と俺を呼ぶその声は聞き慣れたチームメイトのものだ。すまねえな尽八、後にしてくれないか。
隼人呼んでるよ、いいの?と小声で尋ねてきたなまえの唇にしーっと人差し指を当てる。その瞬間ぐっと口を一文字に結んだ表情がまたあまりにも可愛かったもんだから、俺はついに堪えきれずに吹き出してしまった。ドアの向こうの気配が消えて、お互いほっと肩の力を抜く。尽八が俺の部屋を訪ねて来る理由といえば、きっと部の連絡事項か何かだろう。
そういえばもう少しでご飯の時間終わっちまうなぁ、と他人事のように考えながら、「なまえは飯食ったか?」と他愛のない会話をする。俺の問いかけになまえは少し眉を下げて、脱力したように笑った。


「うん、もうお腹いっぱい」







なまえと付き合い始めて数週間が経った。見て分かるほどに調子がいい俺に、靖友は不審なものでも見るかのような目を向けてくる。ひでえな、もっと褒めてくれたっていいだろ。
彼女効果、というよりなまえ効果は絶大だった。タイムもぐんぐん伸びるし、昨日なんか自己新記録を叩き出した。心なしか今までより体の調子も良い気がする。部室でジャージに着替えながら鼻歌まで歌うほど、今日も今日とて上機嫌な俺をどこか不安げな目で見る泉田に、どうした?と問いかけてみれば、「いえ、何でもありません」と何とも歯切れの悪い言葉が返ってきた。そんな泉田を何となく変に思いつつも、それほど気にすることでもない。そうか、とたった一言で会話を終わらせて、俺はさっさとロッカーを閉めた。
確か今日は、あの恥ずかしがりやのなまえが一緒に寝てくれると言った。俺の記憶が定かであれば間違いない。意識が飛ぶ寸前に言われたことだったが、こうして覚えているということは事実であるはずだ。
愛車を引きながら今日のスタート地点へ行けば、そこには既に寿一と尽八がいた。何やら真剣な顔をして話し合っているらしい。今日のメニューでも決めてんのか、それとも今度のレースの話でもしてるのか。どのみち後で分かることだと、ストックが少なくなってきたパワーバーを取り出して一口齧る。
ふと空を見上げれば、真っ黒い暗雲が一面を覆っていた。…こりゃあ一雨来そうだ、そういや部屋の窓は閉めてきただろうか。
そこまで考えたところで、はっとする。閉めてきたも何も、部屋にはなまえがいるじゃないか。







「隼人、少しいいか?」


ちょうどなまえを腕の中に閉じ込めていたときだった。いつかを思い出すこの状況にまた居留守でもしてやろうと思ったのに、今日は何故かなまえがそれを許さなかった。「隼人、あんまり友達を無視しちゃダメだよ」と困ったように笑いながら言う。ほんとは離れたくねえけど、なまえにそう言われちゃあ仕方ない。
ちょっと待ってろよ、と数回なまえの頭を撫でてから、俺はやっと部屋のドアを開けた。
そして、開けなければよかったと心底後悔した。


「…どうした尽八、怖い顔して。」
「話したいことがある」
「話したいこと?何だよ改まって、怖えんだけど。」
「……一ヶ月ほど前か、彼女ができたと言っていたな。」
「ああ、うん。それがどうかしたか?」
「隼人、すまないが単刀直入に言うぞ。」
「何だ?」
「…なまえって、誰だ?」


それを聞いた瞬間に口をついて出た、は?という一言は自分が思っている以上に威圧感のあるものだった。ピクリとこめかみが痙攣したのが分かる。それでも尽八は一切怯む様子がないどころか、俺の反応に眉を顰めて真剣な表情でこちらを見ている。…ああ、違うんだ、ごめんな。そういえばまだちゃんと紹介したことなかったもんな、本当は寿一や靖友もいるときがよかったんだけど、せっかくだから今ここで紹介するよ。
後ろで待っているであろうなまえのことが気になって少し早口になってしまった俺の言葉に、尽八は数秒黙り込んだかと思えば、もう一度「隼人」と俺を呼んだ。何だよ聞こえてるよ、と笑いながら返事をしたのもつかの間、そのあまりの真剣さに思わず息を飲む。
何故だか嫌な予感がした。これ以上尽八と話していると、何か俺にとって良くないことが起きる気がする。直感的にそう思って、俺は無意識のうちに後ろへ振り返っていた。さっきまでなまえがいた、俺と一緒に座っていた、ベッドの方へ視線を向ける。窓の外はもう真っ暗で、微かな月明かりがカーテンの隙間から漏れている。
あれ、と声が出たのは反射的だった。自分でも驚くくらいにか細くて、少しだけ掠れた声だ。
なまえがいたはずのそこには誰もいない。ベッドシーツに微かに残っているしわだけが俺と尽八、二人の目に映る。いや、もしかするとそんな細かいことに気付けるのは、俺だけなのかもしれないけど。


「…なまえ?」
「隼人、もう一度聞くぞ。なまえって誰だ。」
「だから、こないだも教えただろ?俺の隣のクラスの、」
「お前の隣のクラスといえば、俺のクラスかフクのクラスだな。」
「…ああ、そうだよ」
「どちらのクラスにも、なまえなんて女子はいない。聞いたこともない。」
「…なに言ってんだ」
「彼女の上の名前は分かるのか?」
「……それは、」
「…少し冷静になれ。俺は別にお前を責めているわけじゃない。フクも荒北もそうだ。」
「責めるって何だよ、俺は何も悪いことなんかしてないんだから当然だろ?」
「隼人、お前は今自分が少し異常だということに気付いていないのか?」
「おいおい、それ以上言ったらいくら尽八でも怒るぜ。」
「じゃあ言ってみろ。彼女の正確なクラスと名前、実家から通学しているのか寮住まいなのか、いつ彼女と知り合ったのか、教えてくれ。」
「…そんなこと知って、どうするんだ?」
「どうするも何も、隼人は知っているのか?」


正直、自分でも訳が分からなかった。俺はたった今気付かされたのだ。彼女の名前が「なまえ」だということは知っていても、名字なんて出てこない。彼女が隣のクラスの生徒だということは知っていても、何組なのかは分からない。帰ったらいつも俺の部屋にいて、彼女がどこに住んでいるのかも、いつ来ていつ帰っているのかも、俺は知らない。本当にたった今だった。他人に指摘されてやっと、その違和感を感じることができた。
指先から徐々に浸透していくような、どうしようもないほどの震えが止まらない。怖いわけでも、ましてや寒いわけでもない。
不思議だった。だって、彼女は確かにそこにいたのだ。隼人と俺を呼んで、いつも屈託のない笑顔を浮かべていた。まるで始めからそこにいたかのように、いつの間にか「なまえ」という人間は俺の中で当たり前な存在になっていた。だけど、そうだ、出会いなんて全く覚えていない。覚えていないどころか、過去にそんなことがあった気さえしなかった。
思わずもう一度後ろへ振り返る。そこには変わらず、何の変哲もないいつも通りの俺の部屋があるだけだ。


「……何だ、俺の頭がおかしくなっちまったのか?」
「隼人、」
「でも、さっきだってそこにいたんだ。隼人って俺を呼んで、笑ってたんだ。」
「………」
「いつも俺が帰ったらおかえりって迎えてくれて、面倒くさくてそのままにしてた洗濯物も綺麗に畳んであった。俺の話を何でも聞いてくれて、今度俺の走ってるとこ、見たいって……」
「……隼人?」


あれ?
ペラペラと話していたはずの口を、思わず閉じる。そんな俺を見て神妙な面持ちのまま「どうした?」と問いかけてくる尽八を真っ直ぐ見つめて、俺は二回瞬きをした。どうしたって、どうしたんだろう。
おい、という尽八の言葉を遮って、「なぁ尽八」と今度は俺から問いかける。


「なまえって、誰だっけ」



彼女
20160402