まず、一つ言っておきたいことがある。
僕と彼女は所謂“友達”というやつで、確かに周囲の男女に比べればほんの少し距離感が近いのかもしれない。が、「付き合っているのか」なんて、それは愚問だ。彼女に対して友愛はあれど、恋心を抱いたことなんて一度もない。きっとそれは彼女も同じだと思うし、これから先も変わることはないだろう。
そもそも彼女には好きな人がいる。僕にとってはだから何だと言ってしまいたくなるくらいの事柄ではあるけど、周囲からの誤解を解く為にはまずはっきりとこのことを主張しておきたい。毎日毎日聞かされる惚気や悩み相談にうんざりしているくらいなんだ、僕たちが付き合っているだなんて変な噂話をするのは本当にやめてほしい。
ただ一つ、僕にとっても重要な問題がただ一つだけあるのだとすれば。それは、彼女が好いている相手が誰なのかということだけだ。
つまり何が言いたいのかというと。…僕と彼女と、僕の最も尊敬する先輩の話をしようと思う。







彼女、みょうじさんとは元々一年生の頃からクラスが一緒でそれなりに仲がよかった。僕も彼女も目立つ方ではないし、クラスの中ではどちらかといえば目立たない方に属していた。それ故にと言えばおかしい気もするけど、お互い何となく気が合って、同じ委員会だったこともあり自然と話すことが増えたのを覚えている。それが僕とみょうじさんの出会いだった。
友達になってからの時間はあっという間に過ぎ去って、気付けば男女の垣根なんて関係なく“親友”だと呼び合ってもいい間柄になっていた。ユキとはまた別で、気を張らなくてもいい、何でも話せてしまうような、一緒にいるとすごく気持ちが楽な存在。「泉田くんといるときが一番楽しい」と何故か真顔で面と向かって言われたときは、照れくささより何より思わず笑ってしまったくらいだ。「その顔でほんとにそう思ってる?」と返した僕に、うんうんと何度も頷いていたみょうじさんの姿はいまだ記憶に新しい。
とはいえ、お互いにまだ知らない部分はたくさんあった。その中の一つが恋愛関連で、仲がいいと言えどあまりそういう話をする機会はなかったのだ。僕は特に好意を抱いている女子がいなかったし、見た感じみょうじさんもそうだと思っていた。色気のある話題には、僕らは程遠い。
…でも、どうやらそれは勘違いだったようで。泉田くんに話したいことがある、とまたも突然真顔で切り出された日には、僕も少しだけ緊張したんだっけ。
ピンと張りつめたような空気の中、ゴクリと唾を飲む音が聞こえたかと思えば、眉をひそめて意を決したかのような表情でみょうじさんは言ったのだ。


「わたし、新開先輩のことが好き、なんだけど」
「え?」
「…どうしても、泉田くんには言わなきゃって…思って…」
「……新開さん、のことが好き…?」
「うん…」
「…それは、初耳だ」
「今初めて言ったもん、誰にも言ったことないし…」
「そうなんだ…」
「うん……」
「…………」
「…………」
「…こんなこと、みょうじさんには絶対に言いたくなかったんだけど」
「うん?」
「新開さんはダメだ」
「え?」
「新開さんはダメだ」
「…え?」
「みょうじさん、新開さんはダメだよ」


今だからこそ言えることだが、多分このときの僕はそれなりに混乱していた。もちろん本音であることにも間違いはなかったけど、普通はこんなこと言わないだろう。僕がおかしいと言われてしまえばそれまでなことを、思わずみょうじさんに言い放ってしまった。
頬を赤く染めて見たことのない表情をしていたみょうじさんだとか、突然出てきた名前が最も尊敬する先輩の名前であったことだとか、とにかくむず痒いような何とも言えない空気感に触れてしまったことだとか。考えれば考えるほど僕が混乱してしまった理由はたくさんある気がする。だからといって、やっぱり、僕がおかしかったのかもしれない。
だけど許してほしい。僕は本当に、誰より新開さんのことを尊敬しているんだ。


「新開さんにみょうじさんじゃダメだ、ごめん僕応援できない」


みょうじさんのあの、開いた口が塞がらないとでも言いたげな表情は、今でも忘れられない。







部活が始まって間もなく、いつものようにトレーニングルームで筋トレに励んでいたときだった。泉田、と僕を呼ぶ新開さんの声がして、返事をしながら反射的に振り返る。と、よ、と手をあげた新開さんの後ろに、どうにも見覚えのあり過ぎる女子が一人。僕は思わず目を細めて、その姿をじっと睨むように見つめてしまった。ビクリと肩を揺らしたあたり、やっぱりビンゴだったみたいだ。
みょうじさん、と声に出して彼女の名前を呼ぶ。新開さんは「泉田にこんな可愛い大親友がいたとはなぁ」と変わらず穏やかに笑っているけれど、一体みょうじさんは新開さんにどんな説明をしたんだ。
新開さんがいる手前、緊張してあまり喋れないのだろう。「お疲れさま」と控えめな声音で言ったみょうじさんに、「ああうん、ありがとう」と僕も何故か同じくらいの声音で返してしまった。何でだ。
ふと視線を下げた瞬間に見えた、みょうじさんが手に持っているプリントを見れば大方どんな用事でここへ来たのかは理解できる。僕の視線に気付いたらしいみょうじさんも、「これ、」とやっぱり控えめに僕の方へそれを差し出してきたもんだから、何だか、何とも言えない気持ちになった。


「委員会のプリント、渡し忘れてたみたいだから」
「…ありがとう」
「…何よ、その目は」
「別に何でもないよ」
「うそ、絶対何か悪いこと考えてる顔でしょ」
「考えてないけど」
「……部活、頑張ってね」
「ありがとう。…ああそうだ、みょうじさんって数学苦手だよね?」
「え?うん…え、今更じゃない?」
「…新開さん!あの、こんなことをお願いするのもどうかと思うんですけど…」
「ん?どうした?」
「え?え?え?」
「今度のテスト期間、この子に…みょうじに、数学を教えてやってくれませんか?」
「ちょ…っと泉田くん…?!」
「数学?いいけど、教え方すげえ下手くそだよ、俺」
「いえ、そんなことないですよ。それにみょうじは僕より新開さんの方がいいと思うので、」
「う、いずみ、泉田くんでもいいよ…!」
「はは!泉田ご指名みたいだけど…じゃあえっと、みょうじさん、都合がいい日を教えてくれる?」
「ぁ、はい…いつでも、空いてますので!!」


新開さんにみょうじさんじゃダメだ、なんてことを言っていたのは一体誰だったのか。どうしてこんな提案をしてしまったのかは、正直自分でもよく分からない。ただ何となく、考えるより先にその言葉が出てしまっていたのだから、多分僕にはどうしようもないことだったんだと思う。自分自身のことなのに。
…とは言え、自分自身のことだ。こういうのが初めてじゃないことくらい、自分でもよく分かっていた。応援できないだとか何だとか言っていたくせに、こうして目の前で嬉しそうな恥ずかしそうな顔をされるとつい背中を押してしまう。僕は天邪鬼だったのか、それとも見えない何かの力が働いているのか。馬鹿らしいことを考えているようだけど、どうやらこれが恋する乙女のパワーらしい。
まぁそりゃ、確かにあのときは僕だって混乱していたという状況があった。だって普通、いくら相手が尊敬している先輩だからとはいえ、好きな人がいるのだと一生懸命に教えてくれた友人に「君じゃダメだ」なんて、そんなことを言う奴はなかなかいないだろう。何度考えたってあのときの僕はおかしかった。
………この際だから、もう一度はっきり言っておく。僕とみょうじさんは友達であって、確かに他の男女と比べると距離感が近い方ではあるのかもしれないけど、お互い、全くもってそういう感情は抱いていないのだ。
新開さんがトレーニングルームを出てから、みょうじさんはまるで信じられないものでも見るかのような目をして、僕の方へ一気に詰め寄ってきた。


「い、い、泉田くん…!」
「はいはい、何?」
「何で…?!あんだけ新開先輩にはダメだとか言ってたくせに!なのに何かあったらいつもこうやって協力してくれる!何で?!」
「何でって言われても困るけど」
「だって、だってわたしあのとき結構本気でショックだったのに!」
「それは、ごめん」
「こんなに近くで新開先輩とお話したの、初めて!しかも、今度一緒に勉強するんだって!」
「知ってるよ」
「…どうしよう、」
「…何て顔をしてるの、みょうじさん」
「どんな顔してる…?」
「……見てるこっちが恥ずかしくなる顔」
「泉田くんのせいだから!!」


ありがとう!とさっきとは打って変わって大きな声を出したみょうじさんに、僕はやっぱり、結局笑ってしまうのだ。







「わたし、どうしたらいいのか分からなくなっちゃった」


そう言って力なく笑うみょうじさんに、正直、僕は何と声をかけたらいいのか分からなかった。返事をすることもできずに、ただ隣に座っているだけの僕を、みょうじさんはどう思っているんだろう。
二人での勉強会がきっかけで、新開さんとみょうじさんは徐々に距離を縮めていった。一から十まで話を聞いていた僕だけじゃなく、見ていただけの周囲の人間が気付くくらいには急速に。ユキなんか「いいのかよ塔一郎、お前の彼女取られんじゃねーの?」とか何とか言ってきたけど、そうじゃないって一体何度言えば分かるのか。…いや、多分ユキは、僕の中に渦巻くこの微妙な感情に気付いているのかもしれない。分からないけど。
本当は今にも泣きたいはずなのに、「寒いから鼻水出る」と鼻を啜るフリをして必死に我慢していることを、僕はとっくに見抜いている。だけどきっとそれを言ったらみょうじさんは眉をつり上げて怒るのだ。泣きながら。
沈黙が続く中で、午後の予鈴だけが鳴り響く。僕もみょうじさんも今までに一度もサボったことはないし、それなりに真面目にやってきたつもりではあるけど、今はそんなことどうでもよかった。


「…授業始まっちゃった、サボらせてごめんね」
「…そんなこと気にしなくていいから」
「だって泉田くん、優等生でしょ」
「それを言うならみょうじさんだって優等生だ」
「え〜そうかなぁ…じゃあわたしたち、今日で不良の仲間入りかぁ」
「不良ではないと思うよ」
「そんな、真面目に返さないでよ…」
「……それで、」
「…………」
「どうしたらいいのか分からないって、どういうこと?」
「…それ聞くの」
「じゃあ聞かなくていいの?」
「…泉田くんってたまに意地悪だよね」
「だって僕ら大親友なんだろ」
「………そうだよ!!」
「何でそんなにびっくりしてるんだ…」
「だってまさか…泉田くんの口からそんな言葉を聞けるなんて…」
「みょうじさんの真似をしただけだよ」
「ちょっと泣きそうなんだけど」
「やめてくれ」


何故だか彼女の方を見ることができなくて、面白くも何ともない時計の秒針を何となく目で追うことしかできない。そんな僕に気付いているのかどうかは定かじゃないけど、「今、そういえば数学だっけ…」と一人呟くように言ったみょうじさんに、僕はやっぱりなかなか上手く言葉を返せないでいた。
季節は冬に近付いている。空き教室の壁に背中をくっつけて、足を抱え込んだまま膝に顔を埋めているみょうじさんは、泉田くん、ともう一度か細い声で僕を呼んだ。かと思えば、今度こそずるずると鼻を啜る音が聞こえて、小さな嗚咽も微かに届く。…冬、進路、恋愛。何もかもを取ることができたなら、誰だってこんなに苦しむことはないんだろう。
みょうじさんだって、新開さんだって、僕だって。


「…新開先輩に、告白されたの」
「うん」
「嬉しかった、すごく、幸せだなぁって」
「うん」
「…でも、先輩、東京行くんだって」
「…うん」
「一つだけって言っても歳が違うし、そういう時期だし、わたしやみんなと同じように新開先輩にだって進路があることは分かってたつもりなんだけど」
「うん」
「…返事は今すぐじゃなくていいって、遠距離になるからよく考えてほしいって、言われて」
「うん、みょうじさん、」
「わたし、先輩のこと好きだけど、」
「みょうじさん、」
「どうしたらいいのか、分かんなくなっちゃ、って」
「僕の前で我慢しなくていいから」


そう言った瞬間、まるで堰を切ったかのようにボロボロと涙を零したみょうじさんが、膝に埋めていた顔をそっと僕の肩に預けた。じんわりとシャツに滲んでいく涙が温かくて重い。こんなにもはっきりと彼女の体温を感じることは初めてだ。
新開さんが言っていた。みょうじさんに辛い思いはさせたくないんだって。どんなに思い合っているにしたって会える回数は限られてくるし、きっとみょうじさんには辛い思いをさせてしまう。本当は告白しようなんて思ってなかった、けど、やっぱり伝えないと後悔するだろうからって。新開さんの口から、新開さんの思いを聞いてしまった僕は、そう易々と今の彼女に言葉をかけることができないのだ。
冷たいことを言っているようだけど、結局は当人同士が決めることであり、僕にはどうすることもできない。こういうことに疎い僕は、どんなに考えたって何を言えば彼女が楽になるのかさえ分からない。
好きだという思いだけじゃどうにもならないことだってある。僕は彼女に、何と言えば正解なのか。正解があるのか。


「…どうにもならないって分かってるけど、」


ああそうか、分かった。


「一緒に卒業したかったなぁ」


僕はみょうじさんのことが、本当に大切なんだ。







僕には女子のオシャレ事情なんて全く分からないけど、目の前で鼻歌を歌いながら器用に髪を巻くみょうじさんは何だかいつもと違って見える。見慣れないその光景を思わずじっと見つめていると、「泉田くん、後ろ巻けてる?」と突然くるりと振り返ったみょうじさんが問いかけてきたもんだから、「え、ああ、うん…」と何とも微妙な返事を返してしまった。
仕上げとでも言うかのように、真剣に鏡と向き合ってくるりとまつ毛を上に上げたみょうじさんが満足げに笑う。誰もいない教室内はいつもより少しだけ甘い香りが漂っていて、酔ってしまいそうだ、なんて思うくらいには空気まで甘ったるい。それも全部目の前にいるみょうじさんから発せられているのだと思うと、むず痒くてたまらない気持ちになるけど。
久しぶりに恋人に会えるのだと随分と気合いの入っているみょうじさんは確かに可愛らしいと思うけど、今がテスト期間だってこと、忘れてないか?


「ちゃんと勉強もするもん」
「……僕、何も言ってないんだけど」
「泉田くん、結構すぐ顔に出るから分かりやすいよ」
「嘘でしょ」
「ほんと。新開さんにちゃんと教えてもらう約束したから!」
「そう、よかったね」
「何その冷めた返事!あ、そういえば新開さん、泉田くんに会いたいって言ってたよ。次の休みに久しぶりに顔出そうかなって。」
「ほんとに?!」
「…相変わらず泉田くん、新開さんのことになると目…というか顔が変わるね」
「当たり前だろ、新開さんは僕にとって世界一のスプリンターなんだ」
「…照れる」
「何でみょうじさんが照れるの…」
「何でだろ、分かんないけど何かいいな」
「でしょ」
「うわ、自慢げな〜!」


悔しい〜!と声を上げながら僕の肩を押すみょうじさんと、ピクリとも動いてやらない僕。どれもこれもがおかしくなってきて、僕は思わずぷっと吹き出した。なに笑ってんの、と文句を言いながらもみょうじさんだってきっと同じような顔をしている。
ちゃんと話をして、新開先輩と付き合うことになったよ。そう幸せそうな笑顔で報告されたとき、僕の口からおめでとうより先に出てきた言葉は「僕は認めたわけじゃないから」だった。二度目の間抜け顔が拝めるものかと思いきや、「でももう付き合ってるもんね〜」という何とも生意気な言葉と共にやっぱり幸せそうな笑みを浮かべていたもんだから、僕ももうどうしようもなく嬉しくなって、初めて彼女の頭に触れたのだ。…とはいえ、つむじを押してやっただけだけど。
…本音を言えば、寂しくないわけじゃない。どちらに対してそういう気持ちを感じているのかは僕だけの秘密にしておく。まぁしいて言うのなら、両方だと言っても過言ではないのかもしれないけど。でも、秘密だ。
時計に目をやって、バス来ちゃう!と慌てて机の上に散らばった私物を片付け出したみょうじさんにため息をつきながら、僕も同じように立ち上がってリュックを背負った。ユキと学校近くの図書館で勉強する約束をしているのに随分と待たせてしまった。断りは入れていたものの、今頃一人で頑張っているんだろう。
それもこれも、実は全部僕のワガママだったってことも、絶対に秘密にしておこう。


「泉田くん、行こ!」


眩しい笑顔で僕を呼ぶみょうじさんに、うん、と頷く。
幸せそうな大親友をもう少し眺めていたかったから、なんて理由で遅れたと言えば、ユキには今度こそ「彼氏か!」とツッコまれてしまいそうだから。



ひだまりにとける
(title by パニエ)
20161112