この間の席替えで隣の席になった荒北くんと、ここ最近で一気に仲良くなった。今まであんまり話す機会もなかったし、同じクラスってだけでこれといった接点もなかったけど、話してみたら結構気が合ったりして。面白くて優しくて、思っていたよりもずっと穏やかな人だった。
正直、一年生のときの荒れ具合を知っているから怖いイメージが先行していたけど、それは間違いだったということに気付いた。
みょうじサン、とわたしを呼ぶその声はいつも柔らかい。きついとばかり思っていた細い目だって、下げられた目尻はあんなに優しい。荒北くんのことを勘違いしている人はまだいるけど、どうにかして勘違いを解けないもんだろうか。
テスト期間である今、LHRの時間は自習に当てられる。カリカリとシャーペンを動かしながらもふと隣の席へ目をやると、さっきまで忙しなく動いていたはずの荒北くんの手が完全に静止していた。眉間にしわを寄せて、ガシガシと後頭部を掻いているその姿は今までにも何度か見たことがある。どうやら苦手だという数学をやっているようで、教科書と睨めっこしながらトントンとシャーペンの先でノートを叩いていた。
「…荒北くん」
「ンー?」
「そこ、分かんないの?」
「アー…まぁ、苦手な単元なんだよなァ…」
「わたしでよかったら教えるよ」
「え、マジ?すげー助かる」
「うん、あんまり教え慣れてないから説明下手くそだと思うけど…」
「いや、全然。ありがてェ」
そう言って笑った荒北くんの表情はやっぱり穏やかで、隣にいると何だか安心してしまう。わたしも同じように笑って荒北くんの手元にあるノートへ目をやった。…角張ってて、大きめな文字。消しゴムで消したあとが多く残っている。それをなぞるようにペン先で辿って「えーっと、公式は分かる?」と問いかけながら荒北くんの方へ顔を向ければ、何故か思いきり目が合った。少しびっくりして目を見開くと、荒北くんははっとして「アー公式?は、分かる」とどこか焦ったような声音でそう言った。
…結構な近距離だった。いや、そりゃ隣の席で更に近付いて勉強を教えてるんだから、当たり前か。それにしたって、とまで考えてわたしもはっとする。慌てて「公式分かるんならすぐだよ!」と返せば、荒北くんはまた満足げに笑った。
横髪を耳にかけて、それでね、と口を開く。それと同じタイミングで荒北くんも「みょうじサン」といつものようにわたしを呼んだ。見つめ合って数秒、続いた沈黙はキリのない譲り合いだったけど、何となく視線で促せば荒北くんは続きを口にした。
「放課後、時間ある?」
「今日の放課後?図書室で勉強しようかなって思ってるけど」
「…それ、俺も行っていい?」
「え、うん、いいんじゃない…?」
「一緒に」
「…あ、一緒に?うん、もちろん」
「……じゃあ、ヨロシク」
「うん……えと、続きやる?」
「おー」
一瞬流れた空気があまりにも気まずくて、そのくせどこかふわふわしている。…何だか落ち着かない。荒北くんの隣になってから、こんなふうにそわそわするのは初めてのことだった。
……その理由は。荒北くんのこの表情を見れば、全部分かってしまいそうで少し怖い。わざと下を向いて教科書とノートだけに視線を向ける。
決してフィルターがかかっているわけじゃ、ないと思うんだけど。ていうか、フィルターて何だ。荒北くん自身の優しさとか、纏う空気は本物だ。…本物のはずだけど、ちょっと違う。
さっきの荒北くんは、何かちょっと、違う。
▽
部活もバイトも禁止されるテスト期間は放課後も学校に残る人がいつもよりずっと多い。だからもちろん図書室を利用する生徒の数も多くて、普段より賑わっている室内はざわざわとしている。…座るとこあるかな。
きょろきょろと周囲を見渡していると、みょうじサンとわたしを呼んだ荒北くんがわたしの腕を引く。わ、と思わず出してしまった声に反応したのか、荒北くんの手から少し力が抜けた。それでもそのまま腕を引かれて辿り着いたのは、一番奥の隅っこ、ちょうど二つ空いている席だった。窓から差し込む光がちょうど遮られているような、都合のいい場所だ。
「ここでいい?」と問いかけてくれる荒北くんに頷き返せば、ものすごく自然な動きでわたしの分の椅子まで引いてくれるもんだからびっくりした。こんなふうにされるのは初めてで、何だかものすごく気恥ずかしい。レディーファーストってやつ…?ありがとう、と言った声は思わず小さくなってしまったけど、ちゃんと聞こえただろうか。わたしの心配をよそに、荒北くんは「ン」と一言だけ返してくれた。
荒北くんは飲み込みが早くて、教えるのも随分楽だった。教え上手なわけじゃない、むしろ下手な部類に入るだろうわたしの説明にもうんうんと頷きながら分からないところはちゃんと言ってくれる。理解した瞬間の「よっしゃ分かったァ」と少しだけ高くなる声が可愛い。さらさらと書き出される文字を何となく目で追っては、アー分かんねェ…と呟く荒北くんの声ではっとして目を逸らす。…何を、意識してるんだわたしは。
「みょうじサン、」
「ん?!」
「帰りは一人?」
「あ、うん、今日は一人」
「じゃあ送ってく」
「え?いいよ、荒北くん寮でしょ?うちの方が遠いし」
「みょうじサン電車通だよな?」
「うん、そうだけど…」
「駅まで、送ってく」
「だ、大丈夫だよ…ほんとに、申し訳ないし…」
「…アー…嫌なら、まァいんだけど」
「嫌とかじゃ!全然、そんなのじゃなくて…!」
「……送ってく」
「…ありがとう」
「勉強付き合ってもらったし、コンビニとか…なんか奢るネ」
「えっううん!いいよ!わたしも復習になったし!」
「…俺がそうしたいだけだからァ」
「……じゃあ、ありがたく…」
「ウン」
うん、て。
やっぱり荒北くんは優しくて、纏う空気が柔らかい。それに加えて、嬉しそうに笑ったときの顔は眩しくて可愛い。つい数日ほど前、荒北くんて笑ったら可愛いよね、と友達の前でポツリと零してしまったことがある。でもそれはすぐに否定されて、「荒北が可愛いってどういうセンス?」なんて、わたしにも荒北くんにも失礼な発言を返されてしまった。…まぁわたしだって、荒北くんとこうして仲良くなるまでは何にも知らないままに怖い人だと思っていたんだから、人のこと言えないけど。
ただ、それだけじゃなかった。散々否定したあと、その友達は言ったのだ。「大体荒北がそうやって笑うのって、なまえの前だけでしょ」…それが、どうしても忘れられなくて、そんなことないよと否定したって無意味。自意識過剰だとか勘違いだと言われてしまえばそれまでだけど、確かに、自分でも少しだけ感じていたことだった。
荒北くん自身の性格だってこともちゃんと分かってるし、確信を持てるほどのことでもない。…わたしと他の子に対する荒北くんの態度は、少し違う。そうだと言いきれはしないけど、違うとも言いきれないというか。
ほんと、恥ずかしいこと考えてるのは百も承知なんだけど………何か本気で恥ずかしくなってきた。
バレないように小さく息を吐いて、集中しようと手元の教科書に目を落とした、そのときだった。
「なっ?!」
図書室内で発するには随分と大きい声。多分、ここにいる全員が反射的に声のした方へ顔を向けた。
それはもちろんわたしと荒北くんも例外じゃなくて、落としていた視線をほぼ同時に上げる。だけど、「ゲッ」と心底嫌そうな声を出したのは荒北くんだけだった。
こんな荒北くんをわたしは、あまり見たことがない。
「荒北?!荒北かお前は!!」
「見りゃ分かんだろ?!つかうっせェんだよおめェは!!」
「荒北が何故女子と二人で勉強しているのだ?!俺たちの誘いを断ったのはそういうことだったのか!」
「ダーッもうどっか行け!邪魔だ!」
「俺を差し置いて!荒北が?!」
「るっせェっつってんだろォ?!新開も福ちゃんも何とか言ってやれヨ!!」
「ん?いやあ、何とかって言われてもな、なぁ寿一」
「ああ、分かってやれ東堂。きっと彼女が噂のみょうじさんなのだろう」
「ブッふっ…福ちゃん?!なに言ってんのォ?!」
「なに?!君、みょうじさんというのか!」
「えっ、あ、うん…みょうじです…」
「…ふむ、なるほど。荒北、お前もなかなかやる男なのだな!」
「頼むからマジでどっか行ってくんなァい…?」
…ほんとに、こんな荒北くんは初めて見る。いつもわたしに話しかけてくれる荒北くんとは随分と違う。どっちが本当の荒北くんなんだろう、なんてそんなことは考えなくてもすぐ分かった。目の前で繰り広げられる言い合いに目を丸くすることしかできないわたしに、荒北くんは何故かまずいとでも言いたげな表情を浮かべている。
「こ、れは違ェんだヨ…」とどんどんか細くなる声も、わたしの耳にはしっかり届いた。少しの喧騒やざわめきに紛れることもなく、しっかりと。
何となく感じていたことが、ゆっくりと回路を駆け巡って現実になっていく。
きっとどれも本当の荒北くんだけど、わたししか知らない荒北くんがいるのも事実だった。
「…あの、荒北くん、」
「なにィ…」
「…よかったら、コンビニじゃなくて、」
「え?」
「ファミレス、行こう」
「…エ?」
「よかったら、一緒に…」
「行く、行きます」
「…奢りは申し訳ないからいいけど、その代わりに、勉強教えてほしいの」
「勉強?」
「わたし、化学苦手だから…荒北くん、理科得意じゃなかったっけ…?」
「…得意、得意デス」
「じゃあ、勉強、」
「教える」
「ありがと、助かる」
「おう…」
フィルターって何だ、なんて誤魔化してしまったけど。
そもそもお互いが見ているお互いが、始めから周囲とは全く異なっていたのかもしれないな、なんて。
……それにしても、荒北くんは一体どういうふうにわたしの噂をしていたんだろう。ニヤニヤとした顔で見られる辺り、マイナスなことではないと思いたい。
「大体荒北がそうやって笑うのって、なまえの前だけでしょ」
ほんとにその通りだったら、ちょっと、嬉しいのにな。
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20160808