「あ、悠人くん」
「…なまえさん?」


あまり呼び慣れない名前と、感覚的には見慣れた顔。同級生であり元チームメイトの弟へ声をかけると、心底驚いたような表情でわたしの方へ振り返った。…いつ見てもそっくりだなぁ。自然と浮かぶ笑みを隠すこともなく笑いかけて、「ジャージ、似合ってるね」と言えば、悠人くんはどこか戸惑いつつも照れたように笑った。
夏休みを利用して、地元箱根に帰って来たわたし。今日は夕方から元チームメイトの同級生4人と飲み会をすることになっている。数ヶ月ぶりの再会だ。新生活ってのはやっぱり慌ただしくてあっという間に時間が過ぎたように感じるけど、それでも久しぶりに会える。そう思うと嬉しくて、ただただ楽しみで、朝から浮かれていたのは間違いない。
それ以外は特に用事がない今日。両親は仕事でいないし、妹だって部活で学校だ。夕方までのんびり一人で過ごすのもいいかな〜なんて思ったけどせっかく帰って来たのにそれじゃもったいない。
しばらく考えてふと思い浮かんだのは、箱根学園という母校のことだった。そして、去年一緒に汗を流した後輩たちの存在。…そうだ、学校行こう。先生いるかな。思い立ったら即行動、早速準備をして家を出る。
高校生のときなんかはあんまりしなかった化粧に、変わった髪色。髪の毛も少し伸びたし、何より私服で高校へ向かう。今更感傷的になるなんてことはないけど、やっぱり違和感は拭えない。…あー、確実に大人へ向かってる。
数ヶ月前まで当たり前のように毎日通っていた道や、毎日見ていた景色。懐かしい気持ちでいっぱいになりながら、何てことないはずだったその景色をパシャリと携帯に収めた。


「いやあ、びっくりしました。まさかなまえさんが一人で来るなんて。」
「そう?わたし今日暇だったから、ちょっと顔出したいな〜と思ってさ。」
「夕方から、隼人くんたちと会うんですよね?今日。」
「うん!あ、そういや今日って鈴木先生いるかな?去年担任だったんだけど、会いたくて。」
「あ〜…見かけたような気も…しないでもないような…」
「何その感じ。まぁ、職員室覗けば分かるか。」
「鈴木先生、今年は俺の担任です。」
「えっそうなの?!へ〜…そうなんだ〜…鈴木先生ね、ハゲって言葉だけは禁句だから覚えといて。」
「いや、もう手遅れです。俺らそれでたっぷり絞られましたから。」
「うわ、超おもしろいそれ」


ははは、と笑って、「今って休憩中?」と聞く。そうです、と頷いた悠人くんに少し待ってもらって、わたしは一度あいさつをしに職員室へ向かった。どうやら悠人くんの見かけた気は合っていたらしい、鈴木先生と積もる話ももちろんあるけど、それは帰る前にもう一回寄ることにして、わたしは再び悠人くんの元へ。
この時期、自転車競技部は一番熱量がすごい。インハイももうすぐそこに迫っているし、いつもよりずっとずっとメニューも厳しくなる。新開から悠人くんがインハイメンバーに選ばれたという話は聞いていたから、最初は声をかけようかどうか迷ったけど、結局は誘惑に負けて呼び止めてしまったのだから、わたしも大概ワガママだ。
自転車競技部、と大きく掲げられた部室前。ああ、ここに来るのも久しぶりで、何だか少しだけあの頃を思い出して泣きそうになった。一応確認とってきます、と言った悠人くんが部室へ入って行って、わたしは意味もなくそわそわした。手に持っているお土産が間違っていないことをしっかりと確認して、ふぅ、と息を吐く。
そうして一分もしないうちにバン!と勢いよく扉が開いた。思わず肩を揺らしたけど、その懐かしい姿にすぐさま笑みが浮かんでしまう。


「みょうじさん!!」
「泉田、久しぶり」
「お久しぶりです!帰省されてたんですね!」
「うん。せっかくだから顔出したいなって思ったんだけど、やっぱ邪魔になるかな?」
「いえっ、そんなことないです!みんなも会いたがってますし、さ、中へ入ってください!」
「ほんとに?じゃあ、お邪魔しまーす…」


「あ、これ、お土産」とお菓子が入ったそれを渡せば、泉田は何故か感極まったような顔をして「ありがとうございます!!」と頭を下げた。んな大袈裟な。泉田は相変わらず泉田らしい。
ちらほらと知らない顔もいて、もちろん懐かしい顔もたくさんあって、「みょうじさんだ!」「お久しぶりですみょうじさん!」とみんながあいさつをしてくれる度に、わたしは嬉しくなった。…何ていうか、わたしにとってアットホームって感じ。まぁそれも今となっては、なんだけど。
マネージャーとしてみんなと一緒に突っ走ってた頃は、こんな未来、想像さえしてなかったのに。ただ目の前しか見えてなくて、見てなくて、とにかく勝利へ向かってまっしぐらだった。
わたしにとって、何の曇りもなく、間違いなく、あれが青春だった。クラスメートで仲のよかった東堂に誘われなければ、きっとわたしはマネージャーなんてしてなかっただろうし、ロードというものに関わることさえなかったかもしれない。そう思うと、本当に東堂には感謝してる。まさか、部活に青春を捧げる高校生活を送ることになるとは、入学した当初のわたしは考えもしなかったんだろうな。
きょろきょろとしているわたしを見てすぐ分かったのか、「ユキと真波ももうすぐ戻って来ると思いますよ」なんて言われて。何だか照れくさい。へへ、と笑って返せば、泉田は少しだけ大人びた表情で微笑んだ。
そうしてその言葉の通り、数分後たっぷりと汗をかいた二人を先頭にクライマーグループが部室へ戻って来たかと思えば、わたしの姿を目にした途端、一瞬ピタリと動きを止めた黒田とこれでもかってくらいの最高の笑顔を浮かべた真波。


「なまえさんだ!!」
「えっ、みょうじさん…え、どうしたんスか…?!」
「何よう、来ちゃ駄目なのかよう」
「いやっ…そうじゃなくて…!!」
「なまえさんなまえさん!なまえさん!」
「ちょ、真波、なに…ちょっ落ち着いて!!どうどう!!」


だだっと駆け寄ってきてすりすりと頬ずりをしてきた真波も相変わらずで、だけど高校の頃は気にすることのなかった化粧というものに意識を持っていかれて、つい真波を制した。それに不満げに頬を膨らました真波の頭を、スパァン!と黒田がはたく。…そうそう、こんな感じ。
東堂と特に仲がよかったわたし。別に贔屓をしてるってわけじゃないけど、それでも自然とクライマーである二人との関わりが多かった。荒北と黒田の関係にはヒヤヒヤさせられたっけなぁ。うーん、懐かしい…。
自分で言うのもなんだけど、特に二人はわたしに懐いてくれていたと思う。東堂からは「真波が」、荒北からは「黒田が」。これ、何回聞いただろう。その度にわたしは嬉しくなるのと同時に、何とも言葉にしがたい感情に包まれていたわけだけど。わたしの隣に座った真波が、変わらないニコニコとした笑顔で「なまえさん」と話しかけてくる。それに相づちを打ちながらも、わたしの心はすっかり懐かしさと思い出に占領されていた。
このインハイ前特有の空気感が、わたしはとても大好きで、だけど少し苦手で、ついに3年間慣れることはなかった。…変わんないなぁ。


「なまえさん、今日はこのまま部活見て行くんですか?」
「うーん、どうしよっかな…邪魔になんないならそうしたいけど、わたしも用事あるからな〜…」
「用事って?」
「飲み会〜」
「あー、いけないんだ。なまえさんまだ未成年なのに〜。」
「東堂いるから、どうせ飲酒はできないよ。形だけね。」
「えっ、東堂さん?」
「うん。ついでに言うと、福富も新開も荒北も。」
「フルメンバーじゃないですかそれ」
「みんなちょうど帰って来ててね、予定も合ったから会おう〜ってなって、それで。ていうか黒田、荒北がそれとなーく気にしてたよ。メール来なかった?」
「え、いや、来てないスね」
「なんだ〜。あいついまだに照れ屋なのかねぇ。」
「ねぇねぇなまえさん!どうせならさ、俺の登り見てってよ!いいでしょ?」
「いや、まぁ…許可が下りれば」
「やった!なまえさん、どれくらい時間あるんですか?俺、もっと話したいな。」
「夕方から集まるから、そんなにないかもね。」
「…つうかみょうじさん、何か雰囲気違いますね、やっぱ。」
「そー?まぁそうだよねぇ」
「なまえさん、彼氏とかできました?」
「3年間全くそんな影なかったですもんね」
「うるさい。そんで今もいません。みんなのなまえちゃんはフリーです。」
「みんなのなまえちゃんて。」
「黒田、笑いたきゃ思いっきり笑いなさい」
「俺は嬉しいよなまえさん!!そのままでいてくださいね〜。」
「何でよ、やめてよ」


いつもこんなふうにふざけてた。それにしたって、久しぶりの再会だってのにひどいな。あんたらだって彼女のかの字もないくせに、って言いかけたけどやめた。そんなの別に屁でもないことくらい、わたしだって分かってる。だって彼らはいつだって全力でペダルを回しているんだから。
考えれば考えるほど、その姿を見たくなる。「あーあ、休憩もあと5分だよなまえさん。」と言った真波の顔は残念そうだけど、どうせ始まれば誰よりも楽しそうに坂を登ることなんてお見通しだ。
不意に鳴り出した携帯を取り出して表示された名前を確認すると、その正体は新開だった。今日は昼間は4人で久しぶりに走るんだとか言ってたけど、思ってたより連絡来るの早かったな。誰ですか、と聞いてきた黒田に新開だよと答えると、何故か不機嫌そうな表情をされた。何でだ。
真波が横で「俺が出てもいい?」なんて楽しそうに聞いてきたもんだから、それは面白いかもしれない、と思って携帯を差し出した。真波はそれを受け取ると、躊躇うことなく通話ボタンを押す。新開という名前に敏感に反応したのはもちろん泉田だ。気付けば目の前でそわそわと落ち着かない動きをしている。可愛いな。
あらかじめスピーカーにしたらしい携帯からは、聞き慣れた声が漏れてくる。


《あ、もしもしなまえ?》
「はい、もしもし、なまえですよ〜」
《……ん?真波か?》
「違いますなまえです」
《真波だな?…てーことはまさかなまえ、今箱学にでもいんのか?》
「新開さん、俺がなまえだってば」
《何だそのバレバレな嘘》
「へへ、バレちゃいましたなまえさん〜」
「当たり前でしょ」
《お、なまえ。…学校だよな?》
「うん、そう。新開たちは?」
《いや実はさ、俺らも今、校門のとこいるんだけど》
「えっ新開さんが?!」
《おお、その声は泉田か。久しぶり》
「お久しぶりです新開さん!!!」


何というか、偶然ってすごい。
だってまさかまたここであの4人とも再会することになるとは思いもしなかった。電話を切って数分後、現れたOBの存在に一気にざわめく部室内。やっぱすごいな、なんて苦笑しながらも「よォなまえ」と荒北に頭を撫でられて、また何だか涙が出そうになった。何故かとんでもない顔をした黒田がわたしと荒北の間に割り込んできたけど、いっちょまえに嫉妬かこの野郎。「荒北さん、お久しぶりです」と極めて冷静な声音に、黒田はこうだよな、なんてよく分からないことを思う。
別に連絡を取り合ってないわけでもないだろうに、積もる話は止むことを知らなかった。どうせ後で嫌ってほど話すことになるんだろうし、それならこの間にわたしは鈴木先生と話でもしてくるかな、と部室を出ようとすれば、後ろから誰かに腕を引かれてそれは叶わなかった。
その正体は黒田と真波で、その目がそうはさせないと語っている。さっきまであんたら二人とも荒北と東堂と話してたくせに、どんな切り替えの早さなの。なんて、ほんのちょっと驚いた。


「なまえさん、俺まだ話し足りないんだってさっき言ったじゃないですか。」
「そっスよ、積もる話もあるでしょ。」
「…相変わらずわたしのこと大好きか!!」
「自分で言っちゃうあたり、なまえさんって感じがしますよね〜。」
「真波」
「みょうじさん、俺、好きです、みょうじさんのこと。」
「……やけに素直ね黒田、いやうん、ありがとう。照れる。」
「っそうじゃなく!!」
「荒北〜!黒田はわたしのことが大好きだってさ〜!残念だったね〜!!」
「なっちょっみょうじさん?!」
「アー知ってる知ってる。黒田もかわいそうになァ。」
「それどういう意味?!」
「黒田さん、なまえさんは前途多難ですよ」
「〜〜っンなこととっくに分かってらァ!!」
「あ、何か今の感じ、荒北っぽい」
「一緒にしないでください!!」
「オイ黒田ァ」


すごく楽しい。このままこの時間が続けばいいのにって本気で思う。…けど、真波が言っていた5分なんてもうとっくに過ぎていて、わたしは新開と話すのに夢中な泉田へ「時間いいの?」と声をかけた。そうすれば、はっとしたような表情をした泉田が途端に主将の表情になるもんだから、嬉しくって少し寂しい。
相変わらずわたしの腕を掴んだままの黒田にも、ほら、と促せば渋々といった様子でぱっと手を離した。それでも何か言いたげにしているけど、「終わったらね!」と背中を押せばそれだけで一瞬目を丸くして、それから一気に花が咲いたように笑うもんだから、面白くて吹き出した。
泉田の指示に、空気はピリピリと張りつめ始める。それをわたしの横にいる元チームメイトはみんな、先輩の顔をしてじっと眺めている。その表情の中にはもちろん懐かしんでいるような、とても穏やかで優しいものもあって、わたしはついに泣くかと思った。泣かないけど。まるでそれを察したかのように呆れたように息を吐いて笑う東堂が、ポン、と頭を撫でてきた。何だ、わたしの頭撫でるの流行ってんのか。


「あー!!東堂さんずるい!!なまえさーん、頑張ってねって俺の頭撫でてよ!!」
「わたしかよ!」
「そしたら俺、誰よりも早く登れるかも。」
「…はいはい、頑張ってね」


ポンポン、と真波を撫でれば、その手を掴まれた。え、と戸惑っている間に真波はわたしの手の甲へ唇を落とす。ピシリと。わたしの周辺の空気だけが固まったような気がして、わたしはというと、普通に恥ずかしかった。
「へへ、なまえさんにチューしちゃった」なんて、あの天使みたいな笑顔で言われちゃ、もう何も言い返せない。チューて。チューて。すっごい恥ずかしいことすんのね真波…!!
少し体温が上がったような気さえして、ていうか実際そうなんだろうけど、思わずじっと手の甲を眺めていると、シュッ!と突然かけられたスプレー。これまた驚いて顔を上げれば、そこにいたのは真顔な黒田。何か怖い。
スプレーをかけられたことによって瞬間的に白くなった手からは、いい香りがする。まぁこれは本来手にするものじゃないはずなんだけど。
何だかよく分からない黒田の行動に首を傾げていれば、「そういうこった」と荒北が何かを諭すように言うもんだから、ますますハテナが浮かぶ。どういうこった。


「なまえさん!待ってて!俺絶対1番取るから!!」
「みょうじさん約束忘れないでくださいよ!絶対ですよ!!」


まるで釘を刺すかのように二人してそんなふうに言ってくるもんだから、もう何だか笑えてきて、わたしは満面の笑みで大きく頷いた。時間が経ったって変わらない、可愛い後輩だ。
部室を出ていく寸前、悠人くんが「俺、もう1年早く生まれたかったな」なんて言うもんだから、新開と一緒に抱きしめたのは言うまでもない。わたしも、悠人くんとも一緒に駆け抜けてみたかったな。
静かになった部室の中、残されたわたしたちは後ろの方にある使われていない黒板に、それぞれの名前を書いておいた。日付と、メッセージを添えて。


“みょうじなまえ みんな大好き!!!”


「なまえそれ単純過ぎないか?」
「いいの!」


せっせと携帯を取り出して、パシャリ、と1枚。きっとしばらく待ち受けになるであろうそれを見つめる。
…ほんとうわたし、みんなに会えて、よかったなぁ。
後輩たちが誰もいなくなって気が抜けたのか、ぼろぼろと溢れ出した涙が、やっと慣れてきた化粧を台無しにしていく。でもそれでいいや。少しでもわたしは、あの頃に戻れたんだから。
思ったよりも結構泣いてしまったせいか、部活が終わる頃には目が真っ赤になってちょっとだけ腫れていた。それを見た真波と黒田が大騒ぎし出すことも、形だけの飲み会にまさかの参加をすることも、もう一度黒田に好きだと言われてやっと意味を理解することも、わたしには分からない、変わらない未来像だ。



まぶしい時代
(title by Rachel)
20150506