まあ悪くないかな、なんて、始まりはそんなもん。
新しい恋愛をする気なんてさらさらなかったけど、性欲はあるし。人肌恋しいだとか、ムラムラする時期だとか、たまに気持ちがどん底まで沈んじゃうときとか。なんかそういうとき、都合良くセックスできる相手がいるっていうのは、全然悪くない気がしたから。
飲み会、お互い酒が入ってて、そのまま流れで、なんてよくある話。幸いだったのは、それほど仲のいい相手じゃなかったこと。そんなに話したことなんてないし、大抵誰かを挟むことが多いような相手。友達の友達、みたいな、そんな感覚。
どうやら体の相性は悪くないらしい。そんで、相手にも彼女はいない。セフレなんて、それだけ分かっていれば十分だ。


「…うーん、あの、荒北くんさ」
「なに」
「…あー…なんていうか、えっと…勘違いだったらごめんなんだけど」
「ンだよ」
「…わたしのこと、好き、だったり…」
「…は?」
「あっ、やっぱ勘違いだった!ごめん!ごめんなさい!忘れて!」
「…なんで?」
「え、なんでって……何でだと思う?」
「…まァ、大体予想つくけど」
「…好き、なの?」
「………」
「………」


…沈黙は肯定の証。多分。
苦虫を噛み潰したかのような顔をして、チッ、と小さく舌打ちをした荒北くんがわたしから目を逸らす。どうすればいいのか分からないこの状況で、わたしはベッドのシーツを握ることしかできない。…いや、だって、違うじゃん。
違う、といくら考えたところで、それはただのわたしの意見に過ぎないことくらい十分に分かっている。いつもどちらかといえばはっきりと物を言う荒北くんが、目を逸らして口を閉ざした。聞いてはいけないことを口にしてしまったと後悔したところで、もう遅い。
そんな素振り、今まで一度だって見せたことなかったくせに。てか何で?いつから?次々とわき上がってくる疑問は、わたしの内だけで消化されていく。…だってわたし、昨日の夜、やっとそう思ったんだよ。荒北くん、わたしのこと好きなのかなって。だってなんか、いつもよりずっと、


「…や、やめる?もう、こういうの…」
「…なんで」
「だって…」
「オレに悪いから?」
「…それもだけど、」
「了承したのオレなのに?」
「ちょ、ちょっと待って」
「待たねェ、諦めろっつーんならもう遅ぇ」
「…だ、だって、いつから…」
「最初から」
「さいしょ?!」
「…オレも甘んじてんだよ。だからみょうじは別に、何も悪くねェし」
「…わたしと荒北くん、そんなに関わりなかったよね?」
「まァ。オレは知ってたけど」
「そうなの…?」
「タイプだし」
「…タイプ…」


ぼそりと呟いたそれは、拾われることなく空気の中に消えていく。ドクンドクンと音を立てている心臓がうるさい。こんなに嫌な音を聞いたのはいつぶりだろう。決して心地いい心音なんかではない、できることなら今すぐ止めてしまいたいくらいに。
甘んじている、という言葉を聞いて意味が分からないほどバカではない。いや、ある意味バカになりたくはあるけど。だって荒北くん、わたしの気持ち知ってるよね?確かあの日、酔っぱらってわたし、バカみたいにベラベラ話したし。本当は誰にも聞かれたくないような本音だって、荒北くんは知ってるわけでしょ?
信じられない、というのが顔に出ていたのかもしれない。「なんだその顔…」と少しだけ呆れたように言った荒北くんが、わたしの頬に触れた。そっと包み込むように手のひらを添えて、珍しくバツが悪そうな顔をしている。目が覚めて、服を着て、それなりに身なりを整えてから、もう一度ベッドの方に来て30分。
昨晩のわたしも荒北くんも、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。紐を解いてしまったのはわたしだけど、そうさせたのは荒北くんなのだ。しっかりと胸元に残っている痕が、何だか急に気恥ずかしい。
…だって荒北くん、いつもよりずっと、うんと優しかった。わたしに触れる手付きだって、まるで壊れ物を触るみたいに。いつもよりたくさんキスもした。可愛いとか気持ちいいとか、甘い言葉をあんなに吐く荒北くんを、わたしは昨日初めて知ったのだ。
わたしの頬に手を置いたまま、何やら難しい表情を浮かべている荒北くんが考えていることは、何となく読めていた。


「…キスしないの?」
「…しねェよ」
「…わたしがいいよって言えばする?」
「……それも何か、まァ正直ビミョーだけど」
「荒北くんいいの?わたしで」
「いいのって、」
「だってわたし、好きな人いるよ」
「………」
「絶対叶わないけど。彼女いるし」
「…知ってる、聞いた」
「だから荒北くんとこういう関係になっちゃうような女だよ」
「知ってる」
「いいの?わたしで?ほんとに?」
「こうなる前から好きだっつってんだろ」
「冷めない?」
「オレはそんなに単純じゃねェ」
「最低じゃん、わたし」
「みょうじが最低ならオレも最低だろうが」
「クソビッチ!ってわたしのこと罵る権利くらいあると思うんだけど」
「お前…意外と気にすんだなァ…」
「なにその目…!」
「ンなこと毛ほども思ってねーし、オレもいい思いしてんだから同罪だろ」


そう言ってわたしの頭をポンポンと二回撫でた荒北くんは、そのままわたしを巻き込んでベッドへ倒れ込んだ。もう嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが、荒北くんの髪の毛からも香ってくる。…ほんとわたし、知らなかったとはいえ結構ひどいことしてると思うんだけど、何でこんなに優しくできんの。
目の前には荒北くんの首筋、ちょうど表情は見えない位置。微かに聞こえてくる心音が、わたしのものとは比べ物にならないくらい心地いい。…そうだ、あの飲み会の日だって、何故だか荒北くんと一緒にいると安心して、それで。
同時に、思い出したくもない記憶まで蘇ってきて、思わずぎゅうっと目を瞑る。…先輩には彼女がいる、わたしは邪魔者、そんなことは分かっている。だけどあんな、目の前で見せつけなくてもいいじゃん。ヒュウ〜!とか茶化してたアイツらは全員殴ってまわりたかったし、何ならもっと酔いつぶれてあんな空気壊してやればよかった。
思い出したくない記憶ほど鮮明に覚えているのは何でだろう。どうやったら忘れられるのかが分からない。だって結局、今でも先輩のことが好きなんて、そんなバカみたいな話ある?
何だか自分が情けなくなってきて、泣きたくもないのに泣きたくなった。布団も、荒北くんもあったかい。そうか、こんなに安心するのは、全部荒北くんのおかげだったのか。


「…荒北くん」
「ン」
「もうやめよ」
「…やめんの」
「うん、やめよう」
「……フラれてんのォ、オレ」
「ちがうよ」
「…なに?」
「わたしも真っ当に向き合わなきゃと思って」
「真っ当になァ…」
「なによ」
「オレが真っ当じゃねーのに」
「どこが」
「どこも。オレ、みょうじとヤんの好きだしネ」
「ヤっ…」
「むしろオレの方かもしんねーなァ、みょうじのこと利用してんの」
「そっ、んなことは、」
「なに今更な反応してんだよ、遅ぇわバァカ」
「だ、だって」
「別にオレはみょうじと今すぐどうこうなりたいとか思ってねェし」


まァ確かにこのまま続けんのもダメなんだろうけどォ?と言った荒北くんの口角は緩やかに弧を描いている。まるで全て分かっているとでも言いたげな、そんな顔。
思わず手を伸ばして、今度はわたしが荒北くんの頬に触れた。全然気持ちよくないね、肉少ない。そう言って笑うわたしに、荒北くんもまた笑う。こういう何でもない時間を荒北くんと過ごすことって、そういえばあんまりなかったなあ。
わたし、荒北くんのこと、利用してんのになあ。
今すぐわたしとどうこうなりたいわけじゃないらしい荒北くんの視線は、昨日なんて比べ物にならないくらい絶妙に甘い。わたしが目を逸らす番だったはずなのに、頭の後ろに手を回されたせいでそれは叶わなかった。
チュ、と軽く触れた唇が熱い。もしも荒北くんが策士だとすれば、わたしはもうきっと、とっくにその手の中に落ちていたんだろうなぁ、なんて訳の分からないことを考える。そうじゃないからこんなにもどかしいんだ、わたしは多分、荒北くんを好きになりたい。


「…恋愛なんてする気なかったんだよ、これ以上」
「だろうな」
「だってわたし、先輩のこと好きだし」
「おー知ってる、知ってるけどあんま聞きたくはねェなそれ」
「…あの子よりわたしの方がいいと思うの」
「そうだなァ、みょうじの方がカワイイ」
「えっ、荒北くんのこと好きになっちゃいそう」
「調子乗んな」
「いだっ、すみません…」


体の相性がいい、荒北くんには彼女がいない。セフレなんてそれだけ分かってれば十分。…十分、なのかもしれないけど、多分それだけでいられる壁は今日壊された。
結局、満更でもないわたしは、いつまでもずるい女なんだろう。
…まずは先輩の連絡先を消してみよう。つまり、話はそれからだ。


20190506