もう死ぬまで一生会いたくなかった、記憶を消し去りたかった。


「久しぶりですね」


そう言って爽やかに笑った男に、わたしは引きつった顔を隠すこともないまま「ひさしぶり…」と小さく言葉を返した。
どうしてここに、という疑問が声にならないままもやもやと胸中を行き来する。こんな街中で、最も会いたくなかった男と会う確率って何パーセント?偶然と言うにはあまりに違和感がある。だけれど、それ以外の可能性はあまり考えたくなかった。
無視をするのもな…なんていう少しの優しさ。本当は向き合って立ち話なんてする気もなかったけど、「ちょっとお茶しません?オレ、おすすめのカフェあって」と言われてしまえば、なぜだかその言葉に従ってしまう。なんで、なんでわたしはここまで流されやすい?ちょうどおやつ時の午後3時、少し小腹も空いている。…うん、そのせいだと思うしかない。わたしが悪いんじゃなくて、この男が悪いんだと。
数歩分前を歩く男の後ろ姿は、数年前よりたくましくなっていた。…ような気がする。分からないけど、偶然にしては出来すぎているような再会に、とにかく、わたしの気分はどん底手前まで沈んでいた。


「オレの隣、嫌ですか?」
「え?」
「さっきからずっと後ろを歩いてる。嫌なのかなって」
「…いや、そんなことないよ、ごめん」
「いいえ、オレこそごめんなさい。なまえさんのスピードに合わせます」
「ううん、いいよ、ぼーっとしてただけだから」
「じゃあ手繋ぎます?人多いし」
「え」
「はは、冗談ですよ」
「…悠人くん、相変わらずだなあ」
「それ貶してます?なまえさんも相変わらずそうですね」


そう言ってにっこりと微笑んだ悠人くんは、わたしの隣に並んでゆっくりと歩き出した。目的地であるカフェはそれほど遠くないはずなのに、道のりがやけに長く感じる。…彼の隣を歩いていると、胸が詰まるような、変な息苦しさに襲われる。なのに、同時に懐かしさも感じるなんて、やっぱりわたしは、まるで成長していないのだろうか。
…思い出したくもない過去だ。多分、わたしだけじゃない。世の中にありふれているような傷だけど、まだまだ癒えないし、かさぶたが消えない。たまに自分で引っ掻いては、その痛みで思い知るのだ。ああ、わたしはきっと、このまま死ぬまで、彼のことを忘れられないんだろうなって。
そんな自分に嫌気がさして、わたしは大好きだった地元を離れた。…なのに、ねえ、なんでこんなところで。


「なまえさん、甘いもの好きでしたよね」
「うん、好きだよ」
「兄貴とよく行ってましたもんね」
「……そうだね」
「多分、これから行くカフェも好きだと思います。オレが自信を持っておすすめするんで」
「…期待してる」
「そうだ、カフェのあとオレんち来ません?実は引っ越してきたんですよ、オレ」
「え?」
「なまえさんがいるって分かったから」


この一言で、一瞬で、ぶわっと鳥肌が立った。
今すぐ逃げ出したい。というか、逃げるべきなのでは?ドクドクと嫌な音を立てて鳴り出した心臓が、まるで警告音のように聞こえる。…どうしよう、嫌だ、気持ち悪い。
そんなわたしの様子に気付いているのかいないのか、悠人くんは一度ふっと笑って、「行きましょう、なまえさん」といつもの調子でわたしの手を取った。その手を振り払うことだって本当はできたはずなのに、わたしは彼にされるがままだった。微かに震えているわたしの手と、少し冷たい悠人くんの手。なんだか、どちらも血すら流れていないように感じる。こんなに騒がしい街中で、ふたりぼっちのような、そんな、


「オレ言ったでしょう」


こちらに見向きもせず、すたすたと足を進める悠人くんの横顔を見上げれば、嬉しそうな笑みを浮かべている。


「一生なまえさんのことが好きって、逃がさないって」


にこりと微笑んでいるその顔は穏やかなはずなのに、背中を伝う恐怖と嫌悪感は拭えない。ぞくり、ぞくりとゆっくり這い上がってくる不安が、わたしの喉を詰まらせて、言葉を返すことができなかった。…ああ、本当に、この人は。
わたしのことが、好きなんだ。気持ち悪いほどに。


「隼人くん、結婚するんですよ」
「…え、」
「ずーっと好きだったあの子と、結婚するんです。今度の6月、ジューンブライドってやつですね」
「……けっこん、」
「うん、結婚。オレ、結婚式って出るの初めてで」
「…やめ、やめてよ、」
「今からめちゃくちゃ楽しみ」
「ごめ、帰る、」
「話はまだ終わってないですよ、絶対帰らせない」


やっぱり手を振りほどいていればよかったのだ。
ぎゅうっと握られてしまえば、もうそう簡単には振りほどくことが出来ない。まだ、わたしの力でどうにかなる間に、どうにかしておくべきだった。…いや、そもそも、振りほどく気が、わたしにあったのか?
されるがままだった。それは変換してみれば、そうされたかった、になるのかもしれない。
嫌だ、気持ち悪い、嫌だ、嫌だ嫌だ、触らないで、お願い。
お願い、忘れさせてよ。


「オレはね、なまえさん。なまえさんのこと一回も忘れたことないよ」
「…やだ、悠人く、」
「隼人くんの代わりでもよかったんだオレ。確かにオレたち顔似てるし。利用しない手はないって思いましたよ」
「やめて…」
「むしろラッキーって感じ、兄貴と顔が似てるってことに初めて感謝したんです」
「……っ、」
「なまえさんがオレ自身を見てなくても、オレの名前を呼んで、オレと一緒にいて、オレとセックスするのは事実だったから」
「………」
「でも一つ失敗だったのは、」
「…悠人く、」
「オレ、自分で思ってた以上に独占欲強かったみたいです」
「……ゆ、」
「あと、思ってた以上に、なまえさんが隼人くんのことを好きだったってこと」


「あ、これじゃ二つか」と独り言のように呟いた悠人くんが、その場で立ち止まってわたしと向き合った。目的地へ近づいてきているらしい、少し路地裏のような雰囲気が漂うこの場所は、さっきまで歩いていた駅前とは打って変わって人通りが少なくなっていた。…いつの間にこんなところまで来たんだろう、全然気付かなかったな。
「なまえさん、」とわたしの名前を呼びながらわたしを真っ直ぐ見下ろすその目を見つめ返す。わたしがおかしいのかもしれない、飲まれているのかもしれない。だけど、どうしたって、悠人くんの瞳からは純粋な好意しか見えないのだ。
どうしたって、どう見たって。
わたしのことが好きだって、そう言ってるように、見える。…ううん、昔からそうだった。わたしの目が、彼のことをそう見たがっていたのだ。


「…ここまで来てなんですけど、カフェ、やめときますか?」
「……うん」
「なまえさん、このあとの予定は?」
「…ないよ」
「オレんち、来ますよね」
「…行かない、て、言ったら?」
「オレが会いに行く」
「……ストーカーじゃん」
「はは、訴えられたら終わりですね」
「…そうだよ」
「別にやましい気持ちがあるわけじゃないですよ、信じてもらえないと思うけど」
「………」
「だって、やっと見つけたんです。そう簡単にお別れしたくないじゃないですか」
「…悠人くん、」
「オレはずっと、ずっとなまえさんのことが好きですよ」


呪いのような告白だと思った。いや、もう既に呪われているのかもしれない。
脳裏に浮かんでくるのは、彼じゃない、彼の兄で、もうすぐ結婚する男。わたしが、きっと生涯忘れられない、初恋の人。
どうやってわたしを見つけたの、とか、どうしてそこまでわたしに執着するの、とか、言うべきことは山ほどあるはずなのに。選択肢を間違えば、人生をも踏み外しかねない。…のに。
…だって、考えなくても分かるよ。本当に執着してるのは、どっちかなんてこと。


「…なまえさん」


悠人くんがわたしを呼ぶ。もう一度目の前に差し出された手のひらに、わたしはゆっくりと自分の手を重ねた。
ガクンと足元から崩れるような強い絶望感と、あの頃感じていた高揚感。ああ、また、わたしは、


「おかえり、なまえさん」


ただいま、新開くん。


20200304