08:流れ星からの呼び出し

インパーフェクトワールド8



「むむむむむ……」


私はにらめっこしていた。お相手はケータイだ。意味がわからないだろう。大丈夫、私もどうしてこんなにもケータイとにらめっこしなければならないのかよくわかっていない。

ちか、ちか、と点滅する無機質な画面の中の、ある名前。
本来ならば、こんなちんけな私のケータイに登録されるはずのなかったこの名前は、私になぜか微妙な緊張感を齎す。なんだか足の裏がむずかゆいような、貧乏ゆすりが止まらないような、ものすごくソワソワする感じ。その名前がケータイに登録されてあるというだけで、どうしてかケータイが家宝のように思えてきた。いつもならば口笛を吹いて廊下や道端を歩きながらケータイを弄るし、お風呂にだってケータイを持ち込むのに、あの日以来そんなことができなくなった。ケータイを持つときは両手で包み込むように持つ。歩きながらケータイを弄るなんてもってのほか。ましてやお風呂どころか手を洗った後の微かな水滴さえも気になるので水気厳禁だ。いやさすがに言い過ぎたけど、まあそれくらい気をつけてケータイを取り扱っているといっても過言では無い。

原因は、この機械に刻まれた一つの番号。
浮かんでは消えてを繰り返す、点滅する名前。


シャルナーク=リュウセイ。


『番号、交換しようか』


初めて会ったあの夕暮れ。まさか生徒会に入る事が決まったあの日。その帰り道。どうしてか視線の合わなかった彼との番号交換。勿論のこと、リュウセイ君は生徒会に加わることになった私との連絡を交わすために番号を教えてくれただけだ。そんな男女不純異性交遊のためなんかじゃない。断じて。

そんなの、わかってるのに。
どうしてこんなに、心臓が早鐘を打つのだろう。
息がつまるような胸のつっかえが晴れない。
リュウセイ君のせいで、頭の中が彼でいっぱいだ。どうしてくれるんだ。


どうしてこんなにも悩ましいのか、原因はわかってる。それは……。



「……番号交換してからメール送るタイミング逃した……」



そう。私の悩みどころはそこだ。

あの日は色々なことがあったせいで帰宅して早々にベッドにダイブ。そのまま朝まで眠ってしまい、翌る日の遅刻ギリギリの時間まで眠ってしまっていた。もちろんメールは送れずに、そのまま。なんというか、連絡先交換してすぐにメッセージ送らないとその後すごく送りにくいよね。メッセージを送るべきか否か悩み続け、そして今日。早くも一週間経過。なんて送ればいいのかわかんないし……今からでもなんか送るべきかなぁ。『先日はプリン牛乳の件、恐縮至極。これより同じく生徒会を共にする身、どうぞよしなに』とか?いやいやいやいやちょっと堅すぎるよね。もっと返信しやすいメッセージにしないと。それなら『オッス!オラ♯1♯!これから生徒会よろしく頼むぞ!』とか?いやいやいやいやいやいやいやいやこれもちょっと行き過ぎてる。

リュウセイ君は同級生だ。だからそんなにかしこまる必要は無いし、かといって思いっきり距離を詰めるのも逆に不自然だし気持ちが悪い。フランク且つ失礼が無く、しかもメッセージのタイミングを逃した事をナチュラルにカバーできる申し開きの良い具合の文面……。





「全然、思いつかない……」
「さっきからうるさいわね。何を一人でぶつくさ言ってるのよ」



ついうっかり口に出てしまっていたみたいだ。ジト目のジュリアに睨まれる放課後の教室。今日は普通にいつものごとく引きこもって彼女とランチを済ませ、通常の生活を送った。うっかり屋上にでも行こうものなら、例のプリン牛乳事件のようなことがまた起きるかもわからないし。ちなみにジュリアは、一週間ほど前に屋上から投げたプリン牛乳が見事リュウセイ君にクリーンヒット、その皺寄せが私に来たことを知らない。まあ言ったところで何だという話だし、ジュリアの性格だ、それを引き合いに私が生徒会に引き込まれたなんて知ったら、まあまずは怒ると思う。そして怒りを露わに生徒会に乗り込んでルシルフル会長の胸倉を掴みに行くかもしれない。ああ、いや待てよ。もしかしたら、私を利用して生徒会の特権を奮おうと暗躍するかもしれない。とにかく、あまり良い結果は目に浮かばないので黙っているのが吉だ。

他言無用とルシルフル会長に言われたことも、そうすべきだと思った一端ではある。唯一のマブダチであるジュリアにまでそれを秘密にするというのは正直心苦しいけど、私も黙っていた方が良いような気がしていた。だって、ジュリアに反対されたくない。ただ一人の、この学園の女友達に生徒会なんて入らない方がいい、なんて言われたら、私はきっと傷つくし、尻込みさえするだろう。


だって決めたのに。
この学園、そしてこの生徒会で、兄が遺した無念と希望、そして求めた世界を探すのだと。


それをジュリアに真っ向から反対されたら、きっと私は、一瞬でも彼女を疎ましく思ってしまう気がした。たった一人の友達を疎ましく思うなんて、なんて罰当たりなことだろうか。なんて恩知らずな事だろうか。なんて醜いことだろうか。

だから、結果的にはジュリアを怒らせてしまうかもしれないけれど。反対されるのだったら、生徒会に入ってしまって、取り戻しのつかないことになってから『知らぬ間に何をやらかしてんのよ、あんたは』と怒られた方がきっとマシだ。



「ちょっと?♯1♯、何黙っているの」


腰まで伸びたジュリアのブロンドが、肩に嫋やかに流れる。覗き込む蒼い瞳は私を映す。細部ひとつひとつまで美しい彼女にイノセントさえ感じながら、私は生徒会選挙まで彼女に秘密を抱くことを心の中で謝った。



「なんでもないよ」
「なんだかあやしいわね。妙に悠長に構えてる♯1♯は何か小賢しいことを考えている匂いがする」
「私は悠長に構えることさえ許されないんですかジュリアさん」
「そんなことは言っていないわよ。ただ、……♯1♯が私の知らない子になってしまいそうな気がして少し嫌なのよ」
「ジュリー?」


ジュリアは一旦口を噤んで、もう一度その薄く紅の付いた小さな口を開いた。


「あんた、あのシャークとかいう男に誑かされてたりしないでしょうね」
「シャルナークシャルナーク」
「金髪豚野郎と関わってからあんたなんだか変よ」
「いやだから金髪豚野郎はさすがにやっぱり口が悪いよジュリア!」


ジュリアは一向に人の名前を覚えようとしないし、更にはお耳汚し程度には口が悪い。こんなブロンド美人の可愛らしいお口からそんな汚言葉が飛び出てくるなんて、たまに心臓に悪い。それでも彼女はケロリとした顔で「そうかしら」とおすまし顔をした。いやそうだよ。

「リュウセイ君とは何もないよ」と私は彼女の危惧を否定した。これは7割くらい本当だ。だって何もない。生徒会のことを除けばの話だが。なんだかんだで連絡先こそ知ってはいるがそのやりとりさえしていない。タイミング逃したから。


「……まあ、それならいいけれど」
「リュウセイ君はイケメンだから私なんて相手になさりません」
「それもそうね」
「いや、ちょっとはそんなことないよーとか大丈夫だよーとか曖昧でもいいからフォローして」
「ああ、悪かったわ。そんなことないかもしれないし大丈夫かもわからないけど、外見も中身も中の上の下なんだから♯1♯、自身を持ちなさい」
「曖昧も度を越すと嫌味っぽいし中の上の下って結局中ってことじゃん」
「そうね」



ジュリアの非道すぎるフォローに期待した私がバカでした。はいバカでした。



「はあーもう!ジュリアもひどいしヒソカもひどい!みんな私のことバカにしてー!」
「あんた、まだヒソカと仲良くしてる訳?付き合う輩はよく考えた方がいいわよ」


ジュリアの悪態もなかなかのものなので彼女とのこれから先のお付き合いをどうしようか真剣に考えることが私にも時々あるんだ、ということは黙っておいた。しかしやっぱりヒソカのことは特別によく思ってはいないらしい。それもリュウセイ君以上に。


「ジュリアはほんとにヒソカ好きじゃないんだねえ」
「そうね。胡散臭いもの」
「一定の胡散臭さはそりゃあるけど、いい人だよ、たぶん」
「何をもっていい人なんて言うの、あんたは」
「え?うーん。私に挨拶してくれるし、お喋りしてくれるし、嫌な顔しないし」
「あんたの中のいい人の基準が可哀想なくらい低いわね。これまでの人生においてどれだけ辛いことがあってそんな憐れな価値感になるの」
「むっ。失礼な」


私の価値観を憐れむジュリアに唇を尖らせて反抗心を示したが、彼女はそんなものどこ吹く風で「それで、ヒソカになんて言われたのよ」と続きを催促した。


「あー、なんて言ってたっけな。そうそう、地味だとか勉強しろとか功績も人望も特徴もない陰キャだとか警戒心ないとかそんな感じ」
「全部その通りじゃない」
「えーっ!?そ、そう!?」


ヒソカをよく思ってないはずなのにジュリアはヒソカを支持した。「たまにはアイツもまともなこと言うのね」なんてウンウン頷いている。なんでだ。ヒソカもひどいけどジュリアが一番グサっとくる。しかし、地味、勉強できない、功績ない、人望ない、特徴ない、陰キャ、警戒心ない。一つ一つ並べてみると確かにまあその通りなんだけども。くそ。


『キミは台風の目のようなものなのだから』


しかしふと、ヒソカのもう一言が頭を過ぎった。
そういえば台風の目なんてことも言ってたっけな。あれはどういう意味だろう。



「ねえジュリア、台風の目ってどゆこと?」


ヒソカの言ってた言葉を、あれ以来しばらく考えていたが、無難な正解には辿り着けそうもなかったたためなんとはなしにジュリアに尋ねた。

ヒソカを待ってるって人が台風。私は台風の目。なんだそりゃ。

もしかしてその待ち人がヒソカの恋人……、みたいな関係なのかな、なんて思ったけど、でも彼って言ってたしな。まさかゲイ?ボーイズラブ的な?ヒソカならなんかありえそう。でもその待ち人が私と関係あるみたいな言い振りだったけど、そんなもの私には心当たりなんてない。私友達少ないからなあ。……自分で言ってて悲しくなってきた。


「何よ突然、また知能の低い質問ね」
「知能低いって」
「仕方ないわね。耳クソかっぽじってよく聞きなさい。台風の目、あるいは熱帯低気圧の目とは、熱帯低気圧(台風、ハリケーン、サイクロンを含む)の雲の渦巻きの中心部にできる、雲のない空洞部分のことである。 台風の目の空洞の外壁となる部分は雲が壁状を成し、英語ではeyewall(アイ・ウォール)と呼び、日本語で目の壁あるいは眼の壁雲と言われる」
「隙のない模範解答をどうもありがとうジュリア」


まるでネットから引用してきたかのような解説にふむふむ、と相槌を打った。


「まあ、そっちは気象学的な台風のことね。あともう一つ他に意味があるわよ」
「え、なに?」
「激しく動いている物事の中心にあり、それを引き起こす原因となっている人や物」
「へえー、なるほど」


つまり……私は台風の目のようにやかましいってことだろうか。そんなに人を掻き回してなんかないんだけど。むしろ陰キャなので細々と学園生活を営んでいると思うんだけど。
ヒソカが言いたいことは、どういう意味だったのだろうか。


「台風がどうのこうのと、どうしてそんなことを聞いてくるのよ」
「あ、いや、そろそろ台風の時期だなー、なんて」
「まだ5月じゃない、あんたタイムトリップでもしてるの?時差ボケ甚だしいわよ、ヘドバン100回してそのボケを直しなさい」
「頚椎症になりそう……ヘドバンしたら時差ボケって直るものなの?」
「どうかしら。でもそれくらいにはツカサの頭を振り回したくなる時があるわよね、例えば今みたいに」


お、怒ってる。きっと今ジュリアは、阿呆みたいな質問をして挙句に5月という時期尚早に台風とか言い出してるこの馬鹿にどうして私が時間を割いてまで付き合ってやってるんだ、ときっと思ってる。

「お、怒んないでよう、ジュリア」
「怒ってはないわ。苛立ってはいるけれど」
「何が違うんですかそれ」

今にも嗎そうな暴れ馬ジュリアをどうどう、といなしていると、当然ピローン、と私のケータイが鳴った。誰かからメッセージが届いた通知音だ。こんなときに誰からだ、どっかの業者からの勧誘か何かか、と思いながらケータイを見た。

「りゅ、……!」

と、思わず大きな声を出しかけたが、なんとか口を押さえてそれを堪えた。


《♯1♯》


最初のメッセージはたった一言、私の名前。
それはリュウセイ君からだった。その続きは無い。
あの人柄から意外にも愛想のない淡白なメッセージだけれど、待ち望んでいた人からの通知に私は心が緩むかのようだった。きっとメッセージを見たから、既読となっただろう。私はすぐに返事をした。


《リュウセイ君 突然どうしたの》
《まだ学校にいる?》
《うん どうして?》
《選挙のことで少しいいかな これから時間ある?》
《大丈夫だよ どこ行けばいい?》


そして考え込むかのように、僅かな沈黙。その後に再び返事が戻ってきた。


《生徒会室で待ってる》


これは過剰に解釈すれば男の子からの呼び出しとも言えるのでは無いだろうか。いやまあリュウセイ君は選挙のことだって言ってるけど。青春経験の無い私にとってはもはや色めき立っても仕方のない一つの事案だ。

そんな私の様子をみていたジュリアが、怪訝な表情を向けた。



「……あんた、やっぱり少し変よ。ケータイをじっと眺めたり、訳の分からないことを聞いてきたりと」
「そ、そんなことないもん。私だってケータイをひたすら眺めたい時だってあるし訳の分からないことを聞きたくなるときくらいあるもん」
「それが本当なら病気よ、病院行きなさい頭の病院」
「と、とにかく変じゃないし!」
「♯1♯、あんた誰とやり取りしているの」


核心部分を突いてきたジュリア。私は一瞬返答に詰まったが、すぐさま「そんなんじゃないよ」と返事をした。生徒会選挙についてはジュリアにさえも秘密であるから、リュウセイ君とやりとりをしていることは隠すべきだろう。彼女はきっと先日の一件もあることだし、リュウセイ君をよく思ってはいないはずだし、貶してくる様が脳裏によぎった。

彼女はやはり、「怪しいわね」と、鋭い目付きをさらに尖らせたが、それ以上深く追求しようとすることはしないようだった。私は心の中で安堵した。



「まあ、いいわ。それより帰るわよ」
「あ、っと、その。私今日はちょっと居残りなんだ」
「居残り?何故?」
「えっと。そ、その。……こないだノヴ先生が出した物理の課題、出しに行かなきゃいけないから」
「へえ、♯1♯にしては偉いじゃない。課題ちゃんと済ませたのね。それくらいならすぐに終わるでしょう、付き合うわよ」
「あ、いやいやでも全然わかんなかったから結局聞きに行かなくちゃいけなくて、時間かかると思うんだ。だからジュリアは帰って全然大丈夫だから!」


リュウセイ君に呼び出しされたことを隠すためにとっさに嘘をついた。まあノヴ先生に物理の課題を提出しに行かなくてはならないことは本当だから、半分嘘で半分本当だ。……けど課題なんて済ませは無いのだけれど。つまり全部嘘になるってことだけれど。

ジュリアは少し考えた様子であったが、「そう。それなら悪いけれど、先に帰るわ」と、鞄を持って颯爽と去っていった。綺麗で長いブロンドヘアーが教室から去るのを見送り、私はほっと安堵の溜め息を吐いた。

こんな息苦しさまで感じながら嘘をつかなければならないのは、まさに心苦しい。ほっとする自分にも、それを続けていかなければならない緊張感にも。でも、選挙が終わるまでだ。選挙が終わったら、ジュリアにちゃんと全部言おう。彼女なりに心配してくれたのに、黙っていてごめん、って。私は人知れず、そう決心を固めた。










荷物を纏めて、生徒会室へと向かうべく教室を去った私は中央棟の5階にある生徒会室へと足を進めていた。中央棟に行くためにはガーデンを通らなければならない。そんな訳で緑青々と茂る芝や、蒲公英や姫野踊子草が咲く道々をぼんやりと歩いていると、突如となくドガン!!という爆音とともに幾人かの悲鳴が聞こえてきた。「な、何事?」と咄嗟に物陰に隠れ、爆音が聞こえた方面を伺うと、砂埃が粉塵のように舞う最中、そこには複数の厳つそうな面々が対峙していた。喧嘩中であるらしい。遠目からではその人達の全員の顔は確認できなかったが、それなりに個性的なメンツが立ち並んで抗争を繰り広げているようだった。

「あっ」

そしてその中央に立っているのは、この間私から焼きそばパンを奪って大量のコッペパンを押し付けてきたフィンクス=マグカブ先輩が立っているのが見えた。ジャージの上にブレザーを着ている出で立ち。間違いない。フィンクス先輩の背後には、仲間と思しき人達が実に退屈そうに立ち会っていた。とてつもない大男や、なぜか傘を持っている少年、さらには女の子までいる。フィンクス先輩は幾度か腕を大きく振り回し、先陣切って相手の人たちをボッコボコにしていく。


「随分骨の無え連中だなあ!!」


そして大声で吼えている。その様はまさに切り込み番長さながらだ。そしてその言葉の通り、相手連中は蹴散らされていく。他の人達は暇そうにあくびさえしている。

「ち、チンパンジーみたい……」

これは巻き込まれちゃあかんヤツだ。いや巻き込まれにいくほうがどうかしているというものだが、ここではあの人達の視界に入ることも危険だと判断した私は、そのまま物陰に隠れながらコソコソと去ろうとした。



「あら、あなた」
「ヒイッ」


恐る恐る振り返ると、そこにはなんと美女が立っていた。少し目付きは恐いけれど、細く長い鼻が印象的で、髪は肩ほどまでの明るい茶髪という感じ。そしてものすごく身長が高く、モデルのようだ。もしかしたらリュウセイ君くらいと同じかもしれない。さらに、ブレザーでは隠し切れない豊満な胸とミニスカートから覗くおみ足につい目がいってしまう。いやそういう変態的な意味じゃなくて、男女問わず色っぽさを感じる部分に目がいってしまうのは人間の本能的なところだ。

いやそんなことはともかくとして、背後にいつのまにか立っていた人が美人で良かった。もしかしてあそこでやり合っている連中の一味かと思ってしまった。


「び、びっくりしました」
「……誰か隠れている気配があったものだから残党かと思ったのだけれど、違うようね」
「ざ、残党?私はたまたまここを通りがかった一般人中の一般人というか……」
「それなら他の荒っぽい連中に見つかる前に行きなさい」


私はそのしっとりとした大人の雰囲気纏う美女に目を奪われかけたが、「は、はい」と返事を返し、その言葉通りにその場を去ろうとした。

いや、待てよ。よく考えればお姉さまも危ないじゃないか。映画のあるあるシーンだ。自己犠牲精神、自分の代わりに他の人を逃してその後敵の手の内に堕ちてあれやこれや……。そんなの後味が悪い。


「あ、あの。それなら一緒に逃げないと」
「え?」
「先輩も見つかったら危ないですよ。私あの一番荒っぽい先輩知ってるんです、えっと、確かスフィンクス先輩。私この間あの人にカツアゲされかけたんですから」
「スフィンクス?」


お姉さまは目を丸くして、そして面白おかしそう笑った。そして、「そう。あなたがそうなのね」と不思議な独り言を呟く。ツボに入ったのか、しばらくお上品にクスクスと笑い続けるその様子に、今度は私が目を丸くする番だった。そんなにおかしな事を私は言っただろうか。


「えっと。あ、あの〜……」
「ああ、ごめんなさい。おかしくってつい。心配しないで。私は大丈夫だから」
「とはいってもですね」
「ほんとうよ」
「でも……」


そう言ってお姉さまは私を落ち着かせるためか、肩に触れてきた。細長い指が、上下に摩る。


「優しいのね。でも意外と頑固者。常識的なようでいるけれど、少し外れた感性を持っているみたい」


な、なんだなんだ、突然。占いか?
常識的なようでって、常識的じゃないみたいじゃないか。外れた感性なんて指摘されたことない……あ、友達少ないからそんなに感性を発揮することも無いんだけど。


「バカ素直だから損をすることも多いわね。嘘をつくのが下手。隠し事は控えた方がいいわよ。自分の嘘に一番傷付くのは、結局自分になるから」
「な、なんでわかるんですか」
「顔に出てるわ」
「えっ、顔に?」


顔占いとかそういう新しいジャンル? そんなことまで顔に出ちゃってるのか、私。
褒められているのだか、貶されているのだかよくわからないそんな評論に目を白黒させていると、突然、お姉さまは私の顔を覗き込むように見た。そしてしばらくの沈黙の後に、「あなた、もしかして、」と言った。なぜかとても驚いている。


「え?」


え、なになになに。更に悪い結果が顔に出ちゃっているんだろうか。
固唾を飲んで彼女の次の言葉を待っていたが、お姉さまはゆっくりと私から手を離して、「なんでもないわ」と笑った。その表情は、どうしてか不思議とつい先ほどよりも、なんというか、緩やかな笑顔のように感じられた。まるで旧友に接するかのような、懐かしみを感じているかのような。お姉さまのその表情の変化に私は首を傾げるばかりであったが、それ以上は彼女は何も語らなかった。


「え、気になるんですけど。私、運勢悪いんですか?実は恋愛運とかすごく気にしてるタイプなのでなんかアドバイスとかラッキーアイテムとかあったら教えてください」
「運勢?」
「占いをされている方じゃないんですか?」


またもや彼女はおかしそうに笑ったが、「残念だけれどそれは違うわね」と否定した。え、じゃあなんで私のことわかるのだろうか。初対面なのに。嘘が下手とか、隠し事とか。まさにそれは私が今一番に抱いている感情の大きな一欠片だ。そう、ジュリアに対して。今、ジュリアに隠し事をしていることに一番罪悪感を抱いている、この負の感情をなぜこの人は的確に言い当てたのだろう。


「占いとは少し違うけれど、……まあ、そうね。そういう事でいいかしらね。それに、あなたのことは少しわかるから」
「え、本当に?」
「ええ。でも、未来は誰からも教えて貰えるものではない。そうでしょう」


私はその言葉に押し黙った。
それは、占いよりも重い。お前は明日死ぬのだと宣告されることよりも、何故か重たらしく感じられた。そんな私の感情を推し量ってか知らずか、続けて彼女は言うのだった。



「占いだとか予言だとか、宣告された未来が例え真実だろうと偽りだろうと、それに全幅の信頼を寄せては駄目ということは分かっているんでしょう。過去は変えられないという事を嫌という程知っているあなたなら」



少し悲しそうな表情で、まるで慰るかのように彼女は私の瞳を見つめた。


ああ、確かにそうだったな、と私はあの日を思い出した。
それは5年前の、三月九日の事。

10歳の私はその日の朝、いつものようにトーストをかじりながら、朝の情報番組の陳腐な占いを観ていた。忘れはしない、今でも覚えている。『“銀河の祖母”の今日の運勢』というタイトルの、小さな占いコーナーだ。幼いというのは単純だ。占いを鵜呑みにして、その日あった良いこと悪いことをいいように当て嵌めて、当たったと信じたがるのだ。不思議で未知的な事象、そういうものがあるのだと。“銀河の祖母”は、私の運勢も、また兄の運勢も最良の一日だと言っていた。私は素直にそれを喜んだ。兄は卒業式で、生徒会長として卒業生代表挨拶をするから。そして、卒業式に出向く兄の背中を見送った。
そのすぐ後、兄は交通事故で死んだ。

兄の死後、何かの番組で“銀河の祖母”が次の言葉を述べているのを観た。『占いは今を一生懸命生きている人を幸せにするためのものです。だから私はなるべく悪いことばかり占うようにしてるのよ。そうすれば皆、そうならないように願ったり、努力したりするでしょ』。占いが当たらなかったじゃないか、なんて言うつもりはない。ただ、言い得て妙だと感じた。だって、兄の死がハンター学園を目指すことを決めた大きな理由だ。ただ、皮肉なものだと涙が止まらなかったが。


「大丈夫です。わかってます」


ここにいるのは過去の自分の選択があったから。
だから未来を決めるのは今の自分。
ハンター学園生徒会に入る未来を決めたのは、“私”以外の何者でも無い。

でも。


「でも、……おかしいですよね。私、自分でも変なこと言ってるなって思うんですけど」


じゃあ、過去を決めたのは?
過去にも、それに至る未来があった筈だ。
あの三月九日を選択したのは誰なのだろう。
♯3♯=♯2♯の死しか未来が無いだなんて、誰が決めたのだ。



「私、……過去もきっといつか変えられるって、信じてるんです」


未来も変わるのなら、過去も変わるのではないだろうか、と。今時点で自分の行動で未来が切り替わるのならば、過去も切り替わる支点がその遥か前にあるのではないか。


「過去を変える?」


お姉さまはこれまた驚いたような表情をした。
……あ、やばい。私今かなりおかしいことを宣ったような気がする。未来に生きてる不思議ちゃんみたいなことを言ったかもしれない。野郎どもの罵声をBGMに、こんなお姉さまに何を恥ずかしいこと言ってるんだろうか。しかもちょっと本気風味で。


「あ、いやいやいや今の忘れてください!冗談です冗談、あは、あははは」
「変わっていないのね」
「え?」
「あなたはあなたらしく在ればいい。だからそれでいいんじゃないかしら」


占い師らしいお姉さまがそう言うのだから、そうなのかもしれない。そういえば、ヒソカもそんなような事を言っていた。じゃあこのまま不思議ちゃん設定を引っ張っていくとしよう。大っぴらに言うのはちょっとどうかと思うので胸の内にこっそり秘めておく感じで。


「あ、あの、」
「もう行きなさい。裏道を教えてあげる。そこの校舎裏に非常階段があって、登っていくと生徒会室へ行ける非常扉があるわ。いつも出入りしてるから施錠はされていないはずよ」
「あ、そんなものがあるんですか。ありがとうございます」
「いいのよ」


物陰に引き続き隠れながら、お姉さまが示した校舎裏へと向かう。あ、そうだ、いけない。名前を聞いてなかった。


「あの、お名前は?」
「私はパクノダよ」
「パクノダさん。危ないですから、ちゃんとパクノダさんも見つからないように逃げてくださいね!」
「ええ、わかってる。また会いましょう」


少し向こうは抗争の最中だというのに、余裕の表情で私に手を振るパクノダさん。
私は後ろ髪を引かれながらもその場を後に、彼女の言葉通り校舎裏へ向かった。そこには確かに非常階段があり、最上階まで繋がっているようだった。私自身表の道ばかり通っているから気付かなかったけれどこんな裏階段があるなんて他の人も知らないかもしれない。誰からも見られないような位置にあるし。

肩で息をしながらようやく5階まで登り上がると、そこには非常扉があった。錆つきそうなドアノブをゆっくりと回すと、鍵はやはり掛かっていなかった。恐る恐るその向こうを覗き込む。そこは、生徒会室前の廊下。目的地に喧嘩に巻き込まれずにここまで来れた。次に会った時またちゃんとパクノダさんにお礼しなくちゃ、と思いながら生徒会室前まで歩いて、ふと気付いた。


「あれ。パクノダさん、私が生徒会室に用事があるって、なんでわかったんだろう……」


たまたま偶然かな。あ、そうか、占い師だもん。私のこともわかっているようだったのはきっとだからだろう。いや、それにしても的確だったなあ。まるで私の過去の記憶を見たかのようだといっても過言ではなかったよね。ほんとすごい。




「♯1♯」
「わっ!……びっくり、したあ。リュウセイ君」


背後に気配なく立っていたのは呼び出し人であるシャルナーク=リュウセイ君その人であった。腕を扉に凭れ、かなりの至近距離に彼は居た。振り返るとにこやかな彼の笑顔が真近で覗ける。なんと眼福なことだろう。


「ごめんね、遅れて。もしかして待ってた?」
「あ、ううん。むしろ丁度来たところ」
「そうなんだ?ぼんやり突っ立ってたから待ち惚けしてるのかと思ったんだけど」
「あ、まあその……なんだか生徒会室は緊張するから、入る前に心の準備をしていたといいますか」
「これからは此処がホームになるんだから慣れて貰わないと困るんだけどなあ」


眉を八の字に困り顔、それでも好青年らしく笑みを絶やさないリュウセイ君。というか無駄に距離が近いので、目の置き場がなくてつい視線がうろうろとしてしまう。それを知ってか知らずかわからないが、彼はそのまま離れようとしない。これからは此処がホームになるってどういう意味ですか。ホーム、つまりお家。お家イコール愛の巣ってことか。つまり、リュウセイ君は私を妻にと、そういうこと?


「それに、生徒会室の前で独り言呟きながら立っていられるとなんだか不審だから控えてほしいし」


不審で悪かったな。
先日から思っていたけどリュウセイ君は一言多い節がある。イケメンで物腰柔らかな好青年だと思っていたのに、腹の黒さがチラッと顔を出す。微妙に心に引っ掛かるのでやめてほしい。


「まあとにかく入ろうか」
「あ、はい」


百年の恋も微妙に冷めながら、私は促されて生徒会室へと足を踏み入れた。しかし、その空間には存外にも誰も居なかった。もしかして、会長だけじゃなくて他の生徒会役員もいるかなって思ったのだけれど。


「リュウセイ君。今日はルシルフル会長はいないの?」
「ああ、今日は別のとこに顔出してる」
「忙しいんだねえ」
「そうだね。まあでも今頃は方がついてるんじゃ無いかな」
「え?」
「俺達に文句のある連中がいてさ、今日はそいつらと交渉しに行ってるんだ。数名の特攻要員も連れて行ったからさっさと終わると思うんだけど」



…………ちょっと待て。それもしかして、さっき通りがかった時の喧嘩じゃないよね。
交渉なら特攻要員は必要ないのでは無いだろうか。生徒会の黒い部分が窺える。いやいや、まさかね。正義の生徒会がガッツリ喧嘩なんて。もしさっきの喧嘩がVS生徒会だとしたら、負けたってことになるし。だって勝てる気がしないもん。いくら正義の味方の生徒会といっても暴力の権化のようなスフィンクス先輩を相手にできるかというと、ちょっと。スフィンクス先輩にボコボコにされるルシルフル会長も微妙に想像つかないし。だから喧嘩しに行ったんじゃないよね、話し合いに行ったんだよね。うん、きっとそうだ。これ以上聞かないようにしよう。


「えーと、リュウセイ君。生徒会選挙のことだよね」
「……うん。そうなんだけど、その前に」
「え、何?」


リュウセイ君は突然、むっとした表情を私に向けた。そして、俺ちょっとムカっときてますよ的なアピールか、わかりやすく腕組みをした。え、何だろう、私さっそく何かやらかしただろうか。もしかして、懲りずにまたプリン牛乳をお昼に飲んでしまったことバレたのか?思いつく限りの事を頭に巡らせていると、彼は溜め息を吐いて、意にそぐわないと言わんばかりに、一言。


「あのさ、シャルナークなんだけど」


何故か不貞腐れているようにも見える彼。


「……うん。シャルナーク=リュウセイ君だよね。本名ちゃんと知ってるよ」
「そうじゃなくて」
「大丈夫、私勉強はだめだけど人の名前はちゃんと覚えるタイプだから」
「いやだからそうじゃなくて!」


じゃあどういう意味だろう。言わんとしている事がよくわからない。リュウセイ君は、小首を傾げる私にやきもきしているようだったが、意を介して続けて言った。


「いつまで俺の事リュウセイって呼ぶわけ?♯1♯」
「え、……あ、そういうこと?」
「他に意味なんて無いだろ」


つまりファーストネームで呼ぶのを許可してやろうと、そういうことか。確かに、欧米では仲間内を苗字呼びなんてしないもんね。いやでも、なんというか。


「……もうここまできたらリュウセイ君でいいんじゃないかな」
「なんで」
「むしろそっちの方が私としては安定感があるんですが」
「俺はそっちだと安定感が無いからやめてほしいんだけど」
「とはいってもですね……」


ここまでリュウセイ君と呼び続けてきたから逆に定着してしまったものだから、シャルナークって今更呼ぶのは、なぜだかものすごく恥ずかしいような気がする。母親のことを小さい頃からママと呼び続けて中学生になり、ママと呼ぶのはいい加減恥ずかしいことだと自覚するも、今更呼び名を変えるのも恥ずかしいと思う男子の心はきっとこんな感じなのだろう。まさにそれが今身にしみている。


「それでも嫌って言うなら俺にも考えがあるけど」
「え」
「プリン牛乳自販機の撤収、及び半永久的に学園追放」
「ええ!!」


つまりは、プリン牛乳が買えなくなるということか。しかも無駄に半永久的にと条件付きで。
プリン牛乳はそこらのスーパーで購入できるような代物ではない。自販機専用ドリンクで、販売ルートはとても少ないのだ。


「そ、それは……困る……」
「じゃあほら名前で呼びなよ」


これは逃れられない運命のようだ。プリン牛乳の為なら私は恥を脱ぎ捨てよう。


「しゃ、……シャルナーク、君」
「君はいらない」
「シャルナーくん」
「おふざけ禁止ね」
「あ、ちょっと長いから略してシャークは?」
「へえ。まだ言うつもり?」


仏の顔も三度までだぞ、ん?まだふざけんのか?みたいな顔でイラつき始めたリュウセイ君。
あ、やばい、これはキレる寸前かもしれない。リュウセイ君の怒りの沸点が沸き立った瞬間はあのプリン牛乳の一件で身に染みた。これ以上余計なことを言ったら本当にプリン牛乳自販機撤退が危ぶまれる。

斯くなる上は。私は腹を据えて、自分でも驚くほど小さな声ではあったが、ようやく彼の名を馳せた。


「…………シャルナーク」
「うん。なに?♯1♯」



人に名前を強制的に呼ばせておいて、なに?って返してくるのもずるいと思ったけど、それ以上に。

いたずらっ子のように無邪気に笑うシャルナークが、これまで見たどんな表情よりも嬉しそうに見えた。しかしそれはきっと、私の気恥ずかしさが相まっての錯覚なのだと、高鳴る心臓に心の中で私は言い訳をし続けた。