Bite the pain


 腕が痛い、痛い、痛い、痛い、イタイ、イタイ、イタイ、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたいいいいい!!
 今朝から突然、俺の腕はどうにかなっちまった。腕なんてとっくの昔に無くしたはずなのに、燃えたぎるような痛みが、無い腕を作り出してしまった。
 最初は、ぴりぴりとした痛みだった。喪ったはずの指を感じ、痺れるような痛み。無い指先を感じるなんて恐ろしくて、俺は思わずテーブルに腕を叩きつけた。強烈な痛みを与えれば、無くなるんじゃないかという、浅はかな考えで。
 結果、叩きつけられた腕はじんじんと痛み始め、なぜかその痛みが喪われた腕の形に広がった。叩きつけた時に、神経がおかしくなったのかもしれない。
 葉脈みたいな神経が、虫みたいに俺の身体を這いずって、痛みを与えて、苦しめて……。
 あぁ、駄目だ。痛みで頭が変になる。
 痛みから逃げようとする俺は結局、新たな痛みを身体に与えるしかなく、身悶えすることになった。
「……はっ、ぁ」
 家中を転がり、身体はボロボロになった。
 食器棚にぶつかり、皿が割れ、破片が刺さった。壁にぶつかると、飾り棚に置いていた瓶や雑貨が落ちてきて頭を打った。
 あちこち傷を作るたび、一瞬腕の痛みを忘れられるものの、腕を思い出させるように痛みは強くなるばかりだった。
 もし。もし、このまま治らなければどうするか……。俺の頭に、とんでもないことがよぎった。
「いやまずいまずい、それだけは」
 視界の端に、壁に飾ったノコギリが見える。誘うように光っていて、俺は目を奪われた。いっそ、肩ごと切り落としてしまえば、今度こそ腕を思い出す必要が――

ガタン

 奥の部屋から物音が聞こえた。浮上していた最悪な選択肢は、俺の頭に沈み込んだ。
カトン……、カトン
 歩く音が聞こえる。床に寝転んでいるからか、かなりしっかりよく聞こえた。侵入者の足音は一人分で、床を鳴らす靴音と、あともう一つ何か……叩くような軽い音がしている。
 よく聞こうと耳をそばだてていると、忘れるなとでも言うように、腕が何者かに引っ掻かれるような痛みがした。音を聞くことすら許されないのに腹が立ち、床へ向かって哀れな腕を叩きつけた。
「ハンディさん」
 静かで荒々しいこの部屋に、細くてしっかりとした声が落とされた。首をもたげると、桃色のさらさらとした髪が見えた。一瞬、ギグルスちゃんかと思ったが、それにしては背が高すぎる。
 ゆっくりと視点を下げると、真っ黒なサングラスと黒い服が見えた。
「モールさん」
 侵入者の名を呟くと、ビキビキと腕の神経が暴れた。肩や首の神経にまで痛みが侵食してくるようで、咄嗟に俺は胸から上を浮かせて床へ叩きつけた。少し変な叩きつけ方をしたからか、肩や首を痛めたらしい。腕の痛みから肩のズキズキとした痛みに上書きされる。
 新しいズキズキとした痛みに耐えながら、天井を見つめていると、いつの間にかモールさんが近くまで来ていたらしく、白杖がカツンカツンと音を立てながら迫ってきていた。
「……モールさ」
 俺の声は、白杖の地面を弾く音にかき消された。白杖で頭を殴られたり、目を突かれる想像が過ぎり、俺は思わず目を閉じた。

ぐにっ

 地面を小刻みに弾いていた白杖の先は、なぜか俺の腹に乗った。恐る恐る目を開けると、俺の腹の上にいる白杖はぐ、ぐと小刻みに突かれていた。感触を確かめているらしい。
 白杖でしこたま腹を突かれた後、ややあってからモールさんは俺の真横に座り込んで、白杖を傍らに置いた。
 何をするのかと見ていると、手を伸ばして俺の腹を触った。ぺたぺたと遠慮なく触り、胸、肩、首を確かめ始めた。
 目の見えないこの人には当たり前なのかもしれないが、俺はこの確認作業≠ェたまらなく苦手だった。確認されている間は何をすればいいのかとか、どこを見ればいいかだとか、考えているうちに気まずくなってしまう。
「……うぐっ」
 視線をあちこちに向け、家の片付けが大変そうだと考えていると、急にモールさんが首を掴んできた。あまりにも急なことに驚いて、変な声が出てしまった。
 モールさんを見やると特に気にしていないのか、俺を無表情のまま見下ろし、首を掴んでいた。黙っていると、どくんどくんとモールさんの指の腹から鼓動が感じられた。
 どくんどくん、ずくんずくん。体の痛みと鼓動が共鳴するように響く。目を閉じると俺の鼓動とモールさんの脈が合わさって、なんだか同じ生き物のような気がして……

グキッ

 変な感傷に浸っていると、いきなり頭を掴まれて横に向かされた。首から嫌な音と痛みがするが、折れてないよな……? 俺は神経が死んでいないか怖くなり、足を少し動かす。うん、良かった、ちゃんと動いてる。
「ハンディさんですか?」
 足を見るために少し下げた頭を、もう一度モールさんの方へ向けられ、明らかな質問を投げかけられた。俺の家なんだから俺がいるのは当たり前だと思いつつ、そういえば何となく黙っていたなと気づき、気付かれないようにため息をついた。
「えぇ、俺ですよ」
「よかった」
 頭を掴んでいる手の力が少し強くなり、頬の肉が顔の真ん中に寄る。今、自分がすごい酷い顔をしているんじゃあないかと、モールさんの手から逃げようとしたが――よく考えればこの人は目が見えていないのを思い出し――まぁいいかと諦めた。
「床で寝ていたので、死んでいるのかと思いました」
 死んでいるのかと思いました。
 そのモールさんの言葉で、意識の底に沈めたはずの恐怖が浮き上がるのを感じた。痛みで上書きしたはずの恐怖が、じりじりと俺の無い腕を焼く。
「……痛ぇ」
「え?」
「腕が、痛いんですよモールさん」
 もうずっと前に無くなった腕が痛んで、痛んで、いたんで、息ができなくなるくらい苦しいんですよ。
 俺の中で突っ張っていた線みたいなのが、ぷちんと切れたのか、気がつくとモールさんに泣き言を吐き出していた。
 痛くて痛くて怖い。
 いっそ肩ごと切り落としてしまいたい。
 でも死ぬのは嫌だ。
 こんな訳の分からねぇ理由で死ぬのは嫌だ。
 そんなことを言われたってモールさんだって困るだろうに、俺は抱えてた不安みたいなものを仰向けのまま吐き出し続けていた。
「ハンディさん」
 無機質な声が俺に降りかかる。俺の頭を掴んでいたモールさんの手は、いつの間にか肩の後ろに回り込んでいて、俺はモールさんに抱き起こされるようにして起き上がった。
 か細く見える腕なのに、この強い力は一体どこに隠しているのか。
「腕が痛いんですね」
 上体を起こされた俺は、モールさんの手に操られるがまま、体を動かされる。
 じくじくと痛む俺の腕を、壊れ物を扱うようにして、そっと指先が触れる。巻いていた包帯をするすると解き、包帯で守られていた部分が外気に触れた。
 モールさんの指は冷え切っていて、包帯を巻いていた部分には少し刺激が強かった。ひんやりとした指で、つうと腕をなぞられる度、肩の辺りがぞくぞくとした。
「……っ」
 もう片方の腕も探り当てられ、包帯を解かれる。この人の見えていない目には、俺はどう映っているんだろうか。
 氷のようにひんやりとした指は、腕を掴んだり、形を確認するように指の腹があちこちを往復した。何とも言い難い感覚が、妙にもどかしい。
「ハンディさん、すみません。少しいいでしょうか」
「……は?」
 妙な感覚に悩まされていると、モールさんは急に断りを入れてきた。意図がわからず聞き返したが、モールさんは俺の左腕を両手で掴んだ。そのまま引き寄せられ、閉じられていた口から白い歯が剥き出しになって……
「いっ、ででででで!!」
 噛み付いてきた。俺の腕を。
「ん……すみません。痛かったですか?」
「痛かったですか、じゃねぇよ! 普通、思いっきり噛むか、人の腕を……!!」
 慌てて腕を引き戻して痛みの元を確認してみると、歯並びのいい歯跡がうっすらと残っていた。
「俺、腕が痛いって言いましたよね! なんで噛むんですか!?」
「さぁ……どうしてでしょう」
 突拍子もない行動をしたモールさんに、俺は噛みつく(これはもちろん比喩だ)ように聞いてみるも、本人すら行動を理解していないのか、返ってきた言葉は他人事だった。ああ、もう。俺はどっと疲れるのを感じた。
「犬じゃねぇんだから、気の赴くままに噛むのはやめてください」
「はぁ」
 これ以上腕を晒していれば、何されるかわからない。俺は狂犬モールさんと距離を取るべく、重い体をなんとか起こして立ち上がった。
 ちくちく、じんじんと小さな痛みが全身に広がる。打撲打ち身切り傷……挙げればきりがないだろう。
「ハンディさん」
 病院行って手当してもらって、家の片付けをして……と今からやることを頭で思い浮かべていると、未だに座り込んだままのモールさんが俺を呼んだ。
 無視したっていいが、なんとなく、そういうことはできない俺がいて、でかいため息を吐いた。
「……なんすか」
「腕の痛みは、どうですか」
 その言葉に、ようやく俺は気付いた。
 今まであれだけ苦しめられていた痛みは、すっかり消えていた。モールさんに泣き言を吐いている時は痛かったはずなのに、噛まれて怒っている間に消えてしまっていたようだった。
「治った……みたいです」
「それは良かった」
 それだけ言うと、傍らに置いたままの白杖を掴んでモールさんも立ち上がった。カツンカツンと白杖を鳴らして、少しだけ空いていた距離がまた埋められる。
「モールさん、その、ありがとうございました」
 噛まれるのは心外だったが、助けてくれたのは事実だ。目の前までやってきたモールさんに向かってお礼の言葉を伝えた。
 怒った手前、お礼を言うのは照れくさかったが、俺がどんな顔をしているかなんて、この人にはわからないだろう。
 あ、もしかしてあの噛みつき≠ヘ民間治療みたいな一環なんだろうか。存在しない腕が在あると勘違いした俺の身体へ、喪ないことをわからせるため、的確な痛みを与えたとか……。
 あの行為を好意的に捉えようとしていた俺だったが、ふと気が付いた。
 俺の右腕を、モールさんが指の腹ですりすりと撫でている。
 嫌な予感がした。

「ふぅ……宜しければもう片方も噛ませ」
「嫌です」
 俺は食い気味に断った。