混色パレット
ひんやりとした指先が、熱を奪いながら這う様子を見つめながら、あぁ俺は一体何してんだろうと思った。
前から思っていたけど、モールさんは俺の腕に異常な興味を示している。この前、家へ遊びに行った時は、バラエティ番組をぼうっと見ていると、いつの間にか包帯を外されていて、モールさんが楽しそうに腕を触っているのに気付いたことがあった。
そうやって腕を触られるようになったのは、いつからだったかわからない。ただ、モールさんと会って、腕がないことを伝えて、どんな風になっているのか知りたいと言われ、触られて。……あ。多分、その辺りから触られ始めたのかもしれねぇ。謎はすぐに解けてしまった。
「……で、モールさん」
思考を過去から現在に戻し、自室のソファに座る俺は、ひょこひょこと肩の辺りで動く桃色の頭を見ていた。
この頭はお馴染みモールさんの頭で、今は腕の先にある少し出っ張った骨の部分を、くるくると指の腹で丸く撫でていた。
「なんでそんな触りたがるんですか」
小刻みに動く頭へ言葉を投げかけると、サングラスの奥の瞳がちらりと上を向くのが見えた。
「……触り心地がいいので」
触り心地? こんなゴツゴツした腕の?
肉づいていてぷにぷにとした腕ならわかるが、筋肉のついた固い腕のどこが良いのか。
それなら感触を確かめるかと、モールさんが執拗に触る右腕に触れるため、自分の左腕を動かしたところで、俺は気付く。
――そういえば俺には、自分の体を触れる腕がなかったんだと。
「……はぁ。俺にはよくわかりませんね。
何が良いんですか?」
触れないのだから、聞くしかない。そう思い、目の前の変人紳士に聞いてみたが、こんな至近距離でも声が聞こえないのか、今度はサングラスの奥にある瞳が、腕から離れることはなかった。
そうだ。この人はこうやって、たまに俺の言葉を聞いてくれなくなる。この状態になったモールさんは返事をするまで数回話し掛けなければいけないが、なんだか面倒でため息をついた。その息で、そよそよとモールさんの前髪が動いたが、この人は気にも留めない。
「……なんだかなぁ」
俺は、モールさんに腕を触られることに不快感はない。ただ、腕がねぇことを自覚したくなくて、こうして触られると腹の奥がモヤモヤとするのだ。
もしこれがランピーやスプレンディドなら、俺は全力で振り払っているが、モールさんは何というか、楽しそうに見えて、振り払うのに少し罪悪感があったりした。
いつも無愛想なくせに、俺の腕を触っているときは少し楽しそうに口元を緩めていて、ほんと変だ。この人は。ここからだとサングラスではっきり分からないが、目元も緩んでいたりするんだろうか。
あ、そういえばモールさんの瞳ってちゃんと見たことなかったな。サングラス越しだと、薄らぼんやりと見える程度で、はっきりと見たことがない。
「モールさん」
声を掛けたが、やっぱり聞こえねぇみてぇだ。さすがに紳士ともあろう人が、意図的に無視することはないと思う……はずだ。
モールさんは指の腹で腕の表面をざらざらと撫でたあと、ぐっと指に力を込めた。そのおかげで、爪が肌に食い込んでチクリとした。
「……ふぅ。ハンディさん」
モールさんの薄い唇から声が漏れ、俺は珍しいなと思った。無視するほど集中している時は、数回話しかけてやっと返事をするのに、モールさんから声を掛けてくるなんて。
そう思い、先程投げかけようとした疑問を声に出そうとしたが、それよりもモールさんの方がほんの少しだけ早かった。
「腕、噛みますね」
「え」
モールさんの放った言葉の意味に気づく前に、はぁと生温かい息がかかり、ぬめっとした咥内に腕が包まれて、歯が肉に食い込むのを感じた。甘噛みだから痛くはないが、ぬめっとした感覚が気持ち悪い。腕がなくなってから神経が過敏になったのか、肩のあたりまでぞわっとした感覚が走る。
「……ふぅ」
気持ち悪い感覚に耐えていると、少しして咥内から腕が解放された。唾液で濡れた部分にモールさんの感嘆の息が吹きかけられ、ひんやりとする。
……本当にこの人はわかんねぇ。こんなちっぽけな腕に、なんでこんなにも執着しているのか。
「モールさん」
「はい」
今度は聞こえたらしく、モールさんの首が傾いて、俺へ向けられる。
「俺も頼みたいことがあるんですが」
「何ですか?」
そう言って、モールさんはかこんと首を動かして、俺の方角へ向き直った。その時、モールさんの後頭部からぴょこんと寝癖が飛び出して、俺に腕があれば直してやれるのに、と思った。それは有り得ないことだとわかっていても。
「貴方の瞳が見たいです」
そう言うと、俺の腕で感触を確かめるように蠢うごいていたモールさんの指が、ぴたりと動きを止めた。俺の姿が映っていないはずなのに、サングラス越しから視線が突き刺さるのを感じる。まるで、"本当に見るつもりですか?"とでも言いたげに。
「……いいですよ」
ちょっとした間があったあと、モールさんは躊躇いもなくサングラスに手をかけた。どんな時も落ちることのなかったサングラスが、モールさんの手によって簡単に外される。
モールさんがゆっくり顔を上げるのを待ちながら、俺はバカみてぇに心臓をばくばくとさせていた。まるで見てはいけないものを覗き見るようで、ごくりと唾を飲んだ。
意外にも、モールさんと目がかちりと合った。目が見えないのだから、目が合うと言うのは変だが、その表現が一番しっくり合った。
「……」
モールさんの目は青かった。俺は喩えるのが苦手だから上手いことは言えないが、澄み渡った空のような、輝いた海のような、そんな色だった。空と海が混じれば、こんな青色になるんだろうか。
モールさんは黙ったまま、俺を見続けていたから、俺も黙ったままモールさんの目を見ていた。こんなビー玉みてぇにきれいな目をしているのに、見えないのが不思議でしようがなかった。睫毛は長く、時折眩しそうに小さくぱちぱちと瞬きをして、部屋の照明が反射してキラキラとしていた。
「もう……いいですか?」
じっと見ていると、尖ったモールさんの口から、不満の声が聞こえた。やはり見えなくても視線はなんとなく感じるようで、居心地が悪そうにもぞもぞと動いていた。
俺は腕に何をされているか目が見えるからわかるが、モールさんは見えないから何をされているかわかんねぇか、と妙に納得をした。
「すみません、大丈夫です」
そう言った瞬間、モールさんは待っていたかのようにサングラスをかけ直し、きれいな目に黒いフィルターがかかって、もう見えなくなってしまった。
きれいな見た目のモールさんと、無骨な俺では本当に真逆だなぁと思っていると。急に、ずきんと腕に痛みが走った。
「いっ……で!」
驚きと痛みで思わず声が出る。痛みが走った左腕を見ると、かぱっと口を開けたモールさんがそこにいた。流石に文句を言ってやろうかと思ったところで、言葉は引っ込んでしまった。
モールさんの犬歯から、つうと唾液の糸が俺の腕から引いていて、ぞくんと体の芯が震えた。鈍く光った唾液はそのままとろんと珠を作って、モールさんの顎を伝う。
その光景は、なんとうか、耽美というか官能的というか……って、一体何を考えてんだ俺は。
「痛かったですか?」
悪びれもなく諸悪の根源モールさんは呟いて、伝う唾液をぺろりと舐めた。そうして指で服の袖をぐいっと伸ばし、唾液でべとべとになった俺の腕を拭いはじめる。
「ほんと、アンタって奇特な人ですよね」
そんな様子を見ながら、俺はモールさんに悪態をついた。この人の一挙一動に目を奪われたのが、なんだか気恥ずかしくて、ごまかすための悪態だった。もし、この人の目が見えていれば、俺はこの部屋から逃げ出していただろう。
「私に腕を噛ませるハンディさんも、奇特かと思いますがね」
心にぐさっと刺さる一言を、モールさんは放った。確かに、傍から見れば腕を噛ませる間柄なんて、奇特としか言いようがない。俺はぐうの音も出なかった。
「叶うことなら、一生この腕のままでいてくださいね」
すりすりと指の腹で腕を撫でるモールさんは、とんでもないことを言う。俺が悪態をついたから、その意趣返しだろうか。いや、きっと俺の悪態すら気付いていなくて、嫌味に聞こえるその言葉もこの人の本音なのだろう。
まぁ、腕がねぇ俺は目の見えねぇモールさんとちょうどいい関係なのだから、仕方ないか。
「アンタも目が見えないままだといいですね」
嫌味のような本音をぶち撒けて、さぁ一体どんな言葉を返されるのかと思ったら。
当のモールさんは、いつの間にか俺の右側に座っていて、かぱりと口を開けている最中だった。
ああ、もう。
ほんとアンタって奴は!