ノー・アンサー


 手探りで窓を開けると、天気が良さそうな陽気を肌に感じる。今日は散歩へ出掛けてみようかと新しい白杖を出し、扉を開けた。
 普段なら何かの音が絶え間なく聞こえていたが、今日はやけに静かなようだ。いつも昼寝をしているスポットへ行き、芝生の上にごろりと寝転がる。
 ちくちくとした芝生が肌に当たるが、とても心地よく、私は好きだ。ハンディさんには「目が見えないのによく寝転がれますね」と言われたことがあったっけ。確かあの時は、ハンディさんが私の真似をして寝転んでみたら、犬の糞を潰しかけた時だったか。
 目は見えないが情景が思い浮かび、思わず喉の奥から笑いが込み上げて、クツクツと笑ってしまう。
「何を笑っているんですか、モールさん」
 静かだから誰もいないだろう。そう思って油断していたが、とんだ失敗だった。どこからともなく声が聞こえた。
「ハンディさん?」
 少し自信は無かったが、聞き憶えのある声に私は言葉を投げかけた。近づいてくる音がしなかったが、そこまで気が緩んでしまっていたのだろうか。
 思い出し笑いを聞かれてしまったことに羞恥を感じながら、私が上体を起こすと鼻先にふわりとしたものが触れた。
「ハンディさんですか?」
「モールさん、それは蝶ですよ」
 そう言われてみれば、甘い花の香りがするような、しないような。触れてみようと手を近づけると、やわらかいものが手を掠めて飛んでいってしまった。逃げてしまったようだ。
 鼻先まで浮かせた手のやり場に困って芝生の上に戻すと、急にざりざりとしたものが触れ、体が一瞬強張る。
 少し湿った何かが、ざりざりと一定のリズムで触れている。
「ハンディさんですか?」
「モールさん、それは猫ですよ」
 あぁ成る程、と私は納得した。猫はニャーと鳴く、ふわふわとした生き物だ。確か舌はざらざらとしていた気がする。
 安心した私は舐めていた猫を撫でようと手を浮かせたが、猫の体にぶつかってしまったのか、ちくりとした痛みが手の甲に広がった。
 痛い。……どうやら引っ掻かれたらしい。もう片方の手で傷口を触れると、ぬるりとした感触と鉄の臭いがした。嗅ぎ慣れている臭いはすぐに分かる。血だ。
 痛みは微々たるものだったが、傷を見せればハンディさんが心配するのではないかと思った。――が、そういえば彼は治療できる腕を持っていないことを思い出し、手の甲を隠すようにして芝生へ戻した。
 ……そういえば、ハンディさんはどこに立っているのだろうか。
 立ち上がろうとした時、バサバサという音が聞こえて頭上が少し重くなる。
「ハンディさんですか?」
「モールさん、それは鳥ですよ」
 ハンディさんの声は先程から位置がバラバラなようだ。位置が探れず不便だと思いながら、頭上にいるものは鳥であることがわかった。何故私の頭なのかと考えたが、近くにいる彼はヘルメットを被っていることを思い出した。
 鳥は小さいものと大きいものが存在するが、頭の上の鳥はどれくらいだろうか。怪我をしていない手で鳥に触れようとしたが、鈍い生き物ではないらしく、私の頭を蹴って、バサバサという羽音と共に去っていってしまった。
 先程から生き物が多い気がする。普段より静かで、普段より生き物がいて……何かあったのだろうか。
 一旦起き上がって、ハンディさんの場所を特定しよう。立ち上がるために必要な白杖を探っていると、ごつりと何か硬い物を掴んだ。
 何だろうか、これは。なんとなく興味を引いて、両手で掴む。少し湿ったソレは、表面がごつごつとしていて長細いようだった。石に似ている気もする。
「ハンディさん、これは何でしょうか」
「モールさん、それは俺≠ナすよ」
 意外な答えだった。
 これが……ハンディさん? 彼なりの冗談だろうか。そう思ったが、声の出処が分からず仕舞いなのも引っ掛かっていた。何かの比喩だろうか?
 しばらく触ってみたが、意図していることが分からず、お手上げだった。そもそも私は謎解きが少し苦手だ。視覚的情報がない分、理解する手段が少ないのだから。
「これがハンディさんだと言うのなら、貴方の声はどこから聞こえてくるのですか?」
「モールさん、この声は……。これ、これは、この声は――」
 ハンディさんの声が急に途切れ、飛び飛びに聞こえた。左で聞こえたかと思うと右へ、右で聞こえたかと思うと前へ。そんな風にして、あちこち飛び回り、そして静かになった。
 不思議なことがあるものだと、再度ハンディさんに声をかけようとしたが、それは叶わなかった。
 頬に冷たい何かが当たり、嗅ぎ慣れている……先程の臭いが漂ってきたからだ。
「ハンディさん?」
「お生憎様だが、不正解だ紳士殿。ハンディは、テメェの持ってる骨だ」
 聞き慣れない声に、体が強張るのを感じた。白杖は近くにはない。手にあるのは……骨。
 背後にいる人曰く、ハンディさんの骨らしい。太くて長い骨。きっと致命傷を負わされた上での骨なんだろう。すでにハンディさんが生きていないと悟り、私は彼の骨を両手で強く掴んだ。
 ここは平穏な世界ではなかった。芝生も緑であたたかではなかったのだろう。蝶も、猫も、鳥も、本当に存在したのだろうか。
「別れは済んだかァ、紳士殿? 命尽きるまで祈ってな!」
 下卑な叫びと共にドンッと衝撃が起こる。頬に触れた冷たいものは首元を一文字になぞり、どくどくと熱くなった。首から溢れるものが血であることは分かっていたけれど、不思議と痛みは感じず、そのままぱたりと倒れた。
 そのまま寝てしまいたかったのに、続けざまに背中に短い衝撃がいくつも続いた。熱くなるだけで痛みは朧げだったが、息が出来ずに苦しかった。
 仕方なくハンディさんの骨を抱きながら、何が間違っていたのか、意識が溶けて消えるまで、ずっと、ずっと考えていた。

(一体、何を間違っていたんだろう)
(そもそも、間違っていたのは誰?)