飲み干す暗澹


「やぁ、軍人くん」
 思い掛けず声をかけられ、僕は咄嗟とっさに顔を上げた。片手に買い物袋を抱え、こちらへ挨拶するようにもう片方の手を少し高く上げた男が見える。
 その青い姿を視認した瞬間、僕はどうしてこの道を選んでしまったのかと後悔に包まれた。……いや、後悔しても挨拶された事実は変わらない。
 相手に勘付かれないようにため息を吐き、口角を上げて笑顔を作る。
「こんにちは、スプレンディドさん」
「今帰るところかい?」
「ええ。スプレンディドさんもですか?」
 作り笑いでほんの少し彼との距離を縮めると、スプレンディドも同じように一歩近くへ歩み寄った。……傍から見れば、親しく見えているのだろうか。
「良いコーヒー豆が手に入ってね。早速帰って飲もうと思っていたところなんだ」
 そう思うなら、わざわざ僕に話し掛けなくてもいいだろうに。さっさと帰ればいいじゃないか。僕は心のなかで毒づく。
「あぁ、そうだ。折角だから、軍人くんもどうだい?」
 薄っぺらな笑顔に、僕は吐き気がした。本当はそんなつもりはないくせに、表面上は善人のように笑うのだ。何がヒーローだ、英雄だ。
 僕が断ることくらい、わかっているくせに。
「……いえ、遠慮しておきます」
「そうかい、残念だな」
 まったく残念そうではないスプレンディドは、そう言って肩をすくめた。きっと、意識をして上げた口角は、ぎこちなくひくついていただろう。
「じゃあまたね、軍人くん」
 ノルマを達成したかとでも言うように、スプレンディドはマントを翻して僕に背を向けた。僕はこんなにも気が重いのに、なんてことないといった風に装う彼が憎らしかった。
 だから一矢報いてやろうと、そう思って――声に出していた。
「やっぱり気が変わりました」
「え?」
「飲みたいです。コーヒー」
 振り向いたスプレンディドは、予想外だったのか戸惑った表情を滲にじませていて、僕は妙な高揚感を覚えてしまった。


「熱いから気をつけて」
 コト、とコーヒーカップを目の前に置かれ、立ち昇っては消える湯気を僕は見ていた。
 余裕綽々しゃくしゃくの表情をどうしても崩してやりたくて彼の誘いに乗ってしまったが、彼との接触が増えて、結局僕の精神を削るのはちゃんと考えていなかった。
 このくだらないコーヒーブレイクを終わらせるために、僕は目の前のコーヒーカップを持ち上げ、口元に運ぶ。
「あっ、つ」
「……だから言っただろう?」
 嘲あざけりを含んだような眼差しに、僕はかぁぁと羞恥しゅうちで顔が熱くなる。と、そこへ少し冷たい風が吹き、熱を帯びた頬を撫なでた。
 秋口の、少し肌寒くなってきたところで、わざわざ外でもてなすのは、彼なりの意趣返しだろうか。それとも単に早く帰れと言いたいのか。
「驚いたよ。君が誘いに乗るなんて。
 どういう風の吹き回しだい?」
 スプレンディドは僕の前の席に腰かけ、意地悪く目を細めた。先ほどとは違い、ここは彼の自宅付近。周りに人はいないし、いつもの愛想笑いはやめたのだろう。
 正直、僕もそのほうが気楽だ。
「貴方の困る顔を見たかっただけですよ」
「それだけ?」
「ええ」
 僕の回答に納得がいかなかったのか、少し不思議そうな顔でスプレンディドは眉を寄せた。まぁ貴方なんかには理解できないだろう。当の本人である僕でさえ、理解できないんだから。
「関わるのが嫌なら避ければいいだけなのに。
 変わっているねぇ君は」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
 嫌味に嫌味で返し、僕はコーヒーカップを触る。すぐに離したくなる熱さを指の腹で感じて、まだ飲めない熱さだと悟った。できることなら、早く飲んでこの場を去ってしまいたいのに。
「……まだすぐには冷めないさ。
 これでも食べて紛らわせてくれないか?」
 目ざとく僕の様子を見ていたらしいスプレンディドは、皿に載せられた小さめのドーナッツを僕に勧めた。以前料理が趣味だと言っていたし、彼の手作りなのだろう。
 美味しそうに仕上げられたチョコレートドーナッツを見て、思わず手が伸びる。いや、だって仕方ないじゃないか。出されたこのドーナッツに罪はないんだから。
 そう自分に言い訳しながら、ドーナッツを掴つかむと生地がしっとりとしていた。持ち上げると、小ぶりなサイズながらも、重量感がある。よく見るとチョコチップが練り込まれていて、チョコレートづくしのドーナッツだ。
 気がつくと、ドーナッツを頬張っていた。口の中に広がるしっとりチョコレートを味わい、また一口食べる。濃厚な味でいっぱいになったところに、熱いコーヒーを口に少し注ぐと、チョコレートがじゅんわりと溶けた。美味しい。
「口に合うかい?」
 また一口頬張ったところで、僕は目の前にスプレンディドがいたことを思い出した。……失態だ。
 指に摘んだ最後のドーナッツの欠片を口に放り込み、近くにあった紙ナプキンで乱暴に指を拭く。
「こうして見ると、君はただの人だね」
「……嫌味ですか」
 ゴミとなった紙ナプキンを手の中でぐしゃぐしゃと丸め込み、取り澄ましたスプレンディドを睨にらむ。僕が馬鹿な男だと嘲笑あざわらっているのか。
「いやいや――ただの人だから、偽善はもう止したほうがいいよという忠告さ」
「……偽善?」
 スプレンディドが吐いた言葉に、かちんときた。目の前でばちばちと火花のようなものが散り、思わず立ち上がる。頭に血が上ったようだ。
「贖あがないのために人を救うなんて、偽善じゃあないか」
 紙ナプキンを握りしめた拳で、茶番なコーヒーブレイクをぶっ叩いてやろうかと思った……が、すんでのところで止める。鼻から息を吸い、ふううぅと長い息を口から出して、荒ぶった中身を落ち着かせる。
 これこそ彼の言う偽善≠セ。力で屈服させる者には平和は語れない。
「随分な言い掛かりですね」
 ガタンと座り直して腰を掛けると、スプレンディドは眉を釣り上げた。座った振動でコーヒーが波打つ。
「碌ろくに人を救えない英雄は、偽善ではないと?」
 今度はスプレンディドが僕の言葉で、眉間に皺しわを寄せる番だった。苛立ちを僕に隠すためか、少し姿勢を変え、肘をテーブルに乗せる。
「殺戮さつりくを平和だと言う殺人者マーダーにだけは言われたくないな。
 君と私とでは、立っている場所が違う」
 立っている場所? 彼は一体何を言っているのか。まるで自分だけは特別だとでもいうかのようだ。――人を駒扱いするような、反吐が出る顔。救けるはずの者たちを見下した、上官アレと同じだ。
「……貴方の立っている場所は、血で塗まみれているだろうに」
 気が付くと、僕はそう吐き捨てていた。スプレンディドを一瞥いちべつすると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、歯を食いしばっていた。
「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」
 先程、僕が言った言葉を、彼は返してきた。少し余裕がない表情のように見えて僕は追撃しようと口を開いた。……が、横から吹いてきた風が彼の髪をなびかせるのを見て、ゆっくりと閉口した。
 まるで、むきになるなと注意されているようで、少し気恥ずかしくなったのだ。
「……」
 なんとなく、お互いだんまりとしてしまい、間が持たない僕はすっかり忘れていたコーヒーカップを手に取り、口の中へ流し込む。
 あれだけ熱かったコーヒーは丁度飲みやすい温度になっていて、豆の香りが口いっぱいに広がるのを感じた。とくとくと喉から胃へ温かいものが流れ落ちていく。
「そろそろ帰ります」
 空のコーヒーカップを置き、椅子を引いて立ち上がる。顔を見ないようにして立ち去ろうかと思ったが、数歩進んでからさすがに失礼かと思い返し、肩越しに家主を見やる。
「コーヒー、ご馳走様でした」
 そう呟くと、眉を釣り上げた男が笑う。
「……おかわりは?」
 コーヒーカップを持ち上げて、スプレンディドはまたしても嫌味な顔をした。英雄だと言い張る者にしては、酷く人間じみていている。
「遠慮しておきます」
 あれだけ尊大な言い方をしておいて、結局彼も人だと言うことか。ちぐはぐで、だけど真理であるような気がして、僕は心から笑った。

 彼と別れ帰路につくと、冷気を帯びた風が、僕から熱を奪おうと吹き付けた。
 ただ、腹の中にいる熱の渦が僕を温めていたお陰で、家まで冷めることはなかった。